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炎環の俳句

炎環四賞 第十八回「炎環評論賞」受賞作

「俳句における「言葉」を考える――心語一如への道」竹内 洋平

一 はじめに

 言の葉や思惟の木の実が山に満つ 窓秋

季節になると椎の実が落ち始めやがて山肌を覆うまでになる。同じように詩人の生み出す言葉は豊穣な世界を創り出す。まことに詩は東西を問わず「言葉の芸術」である。

近代俳句は子規が、どこまでもひとつの思想が一貫していて統一のあるものが文学であり数名でなす俳諧は文学に非ずとして、発句を一人の作品である「俳句」として独立させたことに始まる。西洋絵画の写生の方法に影響を受け、写生論を展開した子規だが、後述するように俳句における「言葉」の役割について極めて重要な理論を著しているが、方法論としての写生は虚子に引き継がれる。虚子の原点は主観派であるが、大正期を境にして(『進むべき俳句の道』)安易な主観句の氾濫に懸念を示し、その抑制を旨とした「客観写生」をより確かな方法論として展開し始めた。虚子の客観写生論は、主観を完全否定するのではなく客観の態度を貫けばおのずと主観が反映されてくるというものであり、この精神は少なくとも理論としては現代まで脈々と続いている。さらに虚子は昭和三年の講演において「花鳥諷詠論」を提示する。虚子の主張するところは、技法であるところの写生を超越して春夏秋冬の変遷によって起こる自然および人事のさまざまな現象を主観により切り取って俳句に仕立てる、という思想である。その花鳥諷詠論もまた現代に至る俳句の大きな流れを形作ることになった。しかしその主張は大正、昭和を経て平成の現代まで実にたびたび反発や誤解(文字どおり誤った解釈)を経験してきた。そしてその都度持ち出されるのは俳句の方法論であったり、定型に固執することの是非や季語の要不要、主観が出過ぎてはいけない、主観が出ていないからダメとか、月並みに陥りやすいといった様々な議論である。

しかし私見によれば、十七音というよりも五七+五または五+七五が俳句の骨格であり、その骨格の構造の中で「季語」と「切れ」が果たす役割を信頼してさえいれば、実は主観句、客観句などはそもそもはっきり区別できるものではなく、その方法が写生に拠るか、想像(イマジネーション)によるか、あるいは言葉からの連想に基づくかによって俳句のあるべき姿は揺らぐべきものではない。むしろ問題の底辺にあるものを突き詰めれば「言葉の象徴性」とのかかわりである。方法論や主題性も大切ではあるが、言葉の持つ象徴する力を信頼し、言葉の抽象化への努力をし続けない限り、文学としての俳句の将来はきわめて心もとないものとなろう。俳句が言葉の芸術であってみれば、それは当然のことではあるが、小説や詩など俳句以外の文学のジャンルに比較すれば、言葉とのかかわりは格段に重要な問題であり続けている。

戦後のある世代以降に俳句が主題を失ってからは、俳句における言葉の重みが次第に増してきているかに見える。若い層における俳句に、子規の写生、虚子の花鳥諷詠、一時あった社会性などの方法を回避し、従来であれば言語化できなかった領域への志向が垣間見えて来ているのである。言語化できない領域と言いながら、言葉の重みが増してきているというのはどういうことか。

「言葉そのものへの興味、言葉を使うことへの興味は、俳句という形式の中で増幅する。語の持つ音や文字の形のおもしろさ、言葉の負う背景、言葉同士のふれあいに気づき、感じる。私は俳句を選んだ。つかう言葉のひとつひとつを思い遣ることができる。」(佐藤文香『句集 海草標本』あとがきより)の言葉への執着と言ってもよい思いからは、俳句を選んだ者同士として共感を得ることができる。あるいは

「俳句という器に自分の感じたものを入れることによって訳の分からないものが湧き出してくるような感覚自体がすごく楽しくて‥〈後略〉」(中村安伸『今、俳人は何を書こうとしているか』の座談会より)という発言、つまりポエジーが湧いてくるのを待つという態度は我々を俳句の原点に立ち帰らせてくれるものがある。

 行く春の聞くは醤油のありどころ 文香

 どの窓も地獄や春の帆を映し 安伸

 釘は木を衰えさせて天の川 神野紗希

 日雷わたくしたちといふ不時着 田中亜美

歴史の中で培われた社会通念、先人によって書かれた詩の言葉などをいったん透明にして、言葉それ自体の発生に思いを致し、無言語時代の身振り手振り、文字がなかった時代の話し言葉の姿を追い求めようとする態度が示されつつある。そしてそうした態度は俳句の存亡を考えるとき間違いなく好ましいものであると言える。

ところで俳句に携わってきてしばしば経験するのは、われわれはいったい何のために俳句を作るのか、という自問に遭遇することである。感動に出会った瞬間を書きとめるためだけなのか。言葉に心を託して共感者を得るためなのか。またそもそもものを見つめ、言葉を選びさえすれば心を託すことができるのか。いずれにしても俳句の底辺にあるべきものは深々とした詩的リアリティであるべきで、言葉が心を託されて抽象化されるとき詩が生まれるのであろう。では三十一文字でなく、あるいは無定型の詩ではなくなぜ我々は十七音の俳句を選んでいるのか。俳句の入門者の一人として、改めてこうしたことを考えてみたいと思う。

本小論はまず俳句における言葉の象徴性について考えたのち、リアリティを正しく俳句に反映させるに際しての言葉の役割について検証し、終章において我々が目指す「心語一如」への道を探ろうとするものである。

二 俳句における言葉の象徴性

アメリカのピュリッツァー賞受賞詩人のアーチボルド・マクリーシュのモダニズムの詩『詩論』に「詩は意味してはならない存在するのだ」とある。詩はしかし言葉によって立っており、言葉は「在る」ことによって意味を持つ。言葉を連ねてこそ成る詩から意味を消さねばならないとはどういうことか。意味が通るように書かれるものは詩ではない、つまり言葉の連なりに意味があっては詩にならないということなのか。また「心のいろうるはしからざれば外に詞をたくむ」(『あかさうし』)、つまり心が美しくなくてそれを美しいと表現したいときは言葉を飾らなければならぬ、と言葉の役割が求められながらも、「艶をいはんとするに依て句艶にあらず。艶は艶いふにあらず」(『くろさうし』)であり、表現論としては「くまぐま迄謂つくす物にはあらず」(『去来抄』)は俳句の極意とされるが、俳句はその極致であるとしても、このことは詩一般についても言えることなのか。

言葉は不完全なものであって、もの・事柄と言葉は一対一の関係にはない。そこで何か事物を説明しようとすると饒舌に向い易い。ところが言葉を尽すことと自己表出力は反比例することがままある。それが芭蕉の言うところの「謂ひおふせて何かある」である。詩はこと細かに意味を説明して相手に合点させるものではなく、短い言葉でポエジーを生んで感動を与えるものであり、そこが散文との根本的な違いである。明治二十年代の時流において子規が言文一致体を志向しながら、もっとも心を配ったのは伝達性からの脱却であると同時に、「冗長」を廃し「短さ」を求めたことであった。冗長は伝達を伴うばかりでなくポエジーを損なうと考えていたのである。

メルロ・ポンティは『知覚の現象学』の中で、思考は一瞬のうちに進展するが、それが自分の内面で言語として反芻され、あるいは外部に対して言語を以って語られ(パロール)て初めて思惟として成立するという意味のことを述べている。〝言葉先にありき〞であり、こうしたことは日常でもしばしば体験することであるが、詩においては極めて重要な示唆となる。思惟は言葉の後ろからついてきて意図しないところに(あるいは意図に反して)生まれるということである。そうであれば詩人にとって言葉の選択は重大な作業である。言葉に「意味」があることが、詩人がある言葉を独自の用い方をしようとするとき妨げとして働くので、言葉を「象徴的に」使うには、既存の概念に抗い、言葉を透明にすることが求められるのである。

このことを俳句について考えてみよう。

 清潔な小さな蛇を飼う立夏 鳴戸奈菜

 母の死のととのつてゆく夜の雪 井上弘美

 井月の松へ臆病な月のぼる 寒太

一句目の「清潔な」、二句目の「ととのつてゆく」、三句目の「臆病な」。たとえば言葉の周辺を透明にして使うというのはこういうことではないか。「清潔な布」などと使っている内に「清潔」の概念は次第に狭められていかざるを得ない。「清潔な蛇」からは蛇に連想される怖さ、忌まわしさはあっさりと消え去りまったく別の世界を垣間見せてくれる。「ととのつてゆく」は母の死を肯じ穏やかな気持ちで見送る姿、「臆病な」は放浪する井月の不安気なうしろ姿を見せてくれるが、いずれの言葉も象徴性を伴った作者固有の使われ方をしている。

詩人は言葉を独自の把握をし、言葉そのものから新たな発見を企てなければならない。言葉がありきたりな意味の範囲内で使われると「意味が通じる」が、読み手を立ち止まらせることはできない。言葉を象徴的に使ってみて初めて、詩における無意味性とは意味がないのではなく無限の意味を孕ませていることだということが理解できる。とりわけ俳句が伝えたいのは事物(物そのもの、事柄そのもの)ではなく、真実(=リアリティ)に裏付けされた心=感動なのである。句会や俳句誌の座談会などで、ある句を取り上げて「わかる「」わからない」を突き詰めて議論するのはほとんど意味がない。意味がわかる作品ではなく感動を共有できる作品が佳句なのである。

事物に接したときの芸術的衝動あるいはイマジネーションを具象的に表わすための固有の「言葉」を見出し、その象徴性に託したとき初めてリアリティがポエジーを持って伝わるのである。俳句が俳句であると認められる根拠は何か、つまり何が「俳句形式」としてのアイデンティティーになるのか。それこそまさに言葉がだらだらと事物を描写することを放棄し、「五七五の定型の中に」真実を捉え得て心=感動を伝える瞬間なのである。リアリティのみでも心情のみでも、もちろん言葉の羅列のみでも俳句にはならない。十七音の詩においてこそ言葉の象徴する力が求められるのである。

三 俳句のリアリティ

江藤淳は『リアリズムの源流』において、「実行によって補われなければ、リアリティを保証されない文章とはなにか」という疑問を自らに投げかけ、「意」を体してなお「活」きている文章が明治三十年前後という時代において「転換の割れ目」から、逍遥・四迷の葛藤ののち、実に正岡子規・高浜虚子らの俳人によって「写生文」として実現したと断じている。だが子規はそこにとどまらず、同時に読者に自ら体験しているがごとき鮮明な印象を与えるような文を目指したのである。先述したとおりこの点において子規には四迷らの言文一致の文章はいたずらに冗長なものであり、文語体の簡潔さは失い難きものとの思いがあった。

この子規における「見たものをありのままに簡潔に描写する」という「写生」への傾倒は必然的に俳句への敷衍となって『明治二十九年の俳句界』あたりから現れる。当時子規には〝俳句は将に尽きんとしつゝある〞という危機感があった。俳句になにか時代を劃す変化を求めていた。写生は西欧的絵画の手法から学んだ「方法」であると同時に、対象から新たな「真実」を発見しようとする意図の現れであり、かつそれまでの和歌的素材に偏した抒情や、俳諧の陳腐、月並から脱出しようとする試みでもあったのである。『俳人蕪村』の「客観的美」の中で子規は「(絵画において)全体を現さんとして一部を描くは作者の主観に出づ。(中略)結果たる感情を直叙せずして原因たる客観の事物をのみ描写し、観る者をして之によりて感情を動かさしむること、恰も実際の客観が人を動かすが如くならしむ。」と写生の本質を説く一文をものしている。この言説は、詩のほかの領域には当てはまらない指摘である。

 鶏頭の十四五本もありぬべし 子規

子規が鶏頭連作の最後にたどりついた句は単純極まりない叙述でありながら、具象に託して主観が象徴化されている。

渡部直巳は『リアリズムの構造』で、リアリズムとは何かを「よりよく見つめることではなく、何かをより少なく視るための理論であり方法である」と述べている。あらゆる対象は人間の五感を総動員しても写し取れるものではないことを知ればこの論は卓見と言わざるを得ない。虚子は、写生とは事物からいかにして詠むべきものを切り取るか、それは技巧の問題であり、切り取ることが主観なのである、といういわゆる客観写生論を主張した。写生はあくまで方法であるということである。

しかしこの客観写生論は事物(対象)から一部を抜き取って直叙すればリアリティ(真実)が必ず再現されるという安直な思い込みを生じさせることになったのも事実であり、事物の些末な描写の風潮が生まれ、また「方法」であるべき写生が「目的」と解されて広まったことが、その後の俳句の進むべき道を狭めてしまったことは否めない。

とは言え子規・虚子の功績は日本本来の和歌の抒情の伝統を踏まえつつ、写生によって対象を直視して詩にするという方法を根付かせ、詩におけるリアリティの重要性に目覚めさせたことにあることは間違いない。やがて自然写生が近代的リアリズムへと変化する過程にあった「社会主義リアリズム」についてはすでに終焉したかに見える今、改めて論議するまでもないが、しかし饒舌になりやすかった社会性俳句の中にあって「草田男の犬論争」を巻き起こした

 壮行や深雪に犬のみ腰をおとし 草田男

のごとく抑制をきかせ思想性を懐深く隠し、点景描写に徹した秀句があったことは忘れ難いものがある。

では俳句におけるリアリズムと主観の関係を現代の作品のいくつかを例に引いて見てみよう。

 抽象となるまでパセリ刻みけり 亜美

パセリを刻み続け、形あるものを無形のものにしていくというリアリティある行為をとおして、日常絶えず襲ってくる精神の揺らめきのようなものが表現されている。それは実感を伴う発見であり、そこから感興を得て句となった。パセリという具象の言葉が文字どおり抽象的思惟を導いている。

 人類に空爆のある雑煮かな 関悦史

いわゆる「取り合わせ」の手法は、心をリアリティを伴って表現するにはもってこいである。つまり「人類」「空爆」という言葉にはある種共通したイメージがないわけではないが、空爆と同じように具象的な言葉であるところの「雑煮」は唐突である。しかし組み合わせられた途端に三つの言葉が象徴性を帯びるとともに一句にリアリティがもたらされる。何も言えないというより言わなくていい俳句であればこそ、言葉の組み合わせにより象徴化された世界がリアリティをもって現われ、それにより心が化学反応を起こすのである。対象の模写ともいえるほどにあくまで素朴な写生に徹している句は数多あるが、対象に情感を託しつつ、ものそのものを正確に描写する姿勢、言い換えれば情感は直叙せずもののみを詠んで、しかも鑑賞者をしてその心を動かすような句の典型を次の句に見る。

 遺品あり岩波文庫「阿部一族」 六林男

戦友の遺品の中に森鴎外の『阿部一族』の文庫本があった、とそれだけの措辞であるが国に奉ずるように戦死していった友人への追悼と生き残った自己への呵責の気持ちとを〝岩波文庫「阿部一族」〞に語らせている。読み手の受ける感動は衝撃的である。無季有季を超越したところにあるこの句は言葉の選択ひとつでリアリティをもって主観を伝えるにいかに力を持ち得るかの好例である。

四 心語一如への道

『古今集』仮名序の「やまとうたはひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける」は言葉をもって心を表現するという意味では、和歌にとどまらず現代の詩・短歌、そして俳句に通じる一節である。しかし俳句が万葉集や古今集と異なるのは、それらがたとえば恋の相手に語りかける相聞歌であったりするのとは異なり、心を「あからさまには伝えない」ことである。虚子は釈迦の「拈華微笑(ねんげみしょう)」は言葉を使わず心を伝えることだが俳句もそれに近い〝寡言の詩〞である、言葉は単純であってもその意味するところはいくらでも深く図ることができるものだという意味のことを述べている。

寡言の詩としての俳句を言葉の扱いという観点から近代短歌と比較してみよう。

 垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども 長塚節

歌っていることは「母が釣ってくれた蚊帳が弛んでいるけれど気持ちよく寝ることができた」というに過ぎない。「釣る」「青蚊帳」「寝る」「弛む」は情緒も何もない言葉の群れだが歌として詠まれた途端、母への尽きない愛が伝わってくる。蚊帳が弛んでいることで腰の曲がった老いた母親を想ったのかもしれない。それだけのことを言葉の本来の意味だけに従って伝えるには三十一文字では足りないが「言葉の連なり」が詩を生みだしているのである。永田和宏はこの句の眼目は結句の「たるみたれども」であると述べており、確かにそのとおりだが俳句ではこの「たるみたれども」を更に省く。字数が足りないから詠めないのではなく「詠まない」とも「詠む必要がない」とも言える。われわれは俳句においては多言をもって説明せずに「心」を伝えるには言葉を並置することが効果的であることを知っている。

 囀や母に小さき解きもの 野中亮介

「囀」の一語で老いた母へのやさしい眼差しが見えてくる。あとは事実を描写するだけで母の今の境涯までもが目に浮かんでくる。

短歌は抒情をありのまま歌うにふさわしく、俳句は情景を詠んで心を伝えるにふさわしい。

西行の「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」は子規が詠むとたとえば「立てば鴫立たねば秋の夕べかな」となる。同じような景を詠みながら思ったことのすべてを伝える歌と敢えて伝えない俳句との対比は次の例にも見られよう。

 死の側より照てら明せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずもや 斎藤史

 生も死もたった一文字小鳥来る 寒太

生は束の間の喜びであり死は恐れである。しかし死を意識することが生をよりかがやかせてくれる。斎藤の歌はそのことを情熱的に語っている。同じく生と死の狭間を詠みながら寒太の句は対極にある。上五中七の発見と俳句ならではの断定の強さ、そして明るさを象徴する季語「小鳥来る」との取り合わせ。他は一切語らないにもかかわらず生と死の尊厳が伝わり来る。

子規は『俳句大要』において「言葉の上にたるむとたるまぬといふ事あり。たるまぬとは語々緊密にして一字も動かすべからざるを言ふ」、たるむのは〝虚字〞が多い時で、虚字とは「てには」・「副詞」・「動詞」であるとして、さらに「若し前の如き議論を極論すれば名詞ばかり竝べたる句が一番の名句となるわけなり」と述べている。子規にとってのリアリズムはそれまで対象として捉えられていなかったものを視野の中で認識し、表現することであったが、同時にこうした「言葉」への鋭敏な感覚があったのである。

 夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉

かたちはあくまで客観写生の句だが、一切の修飾語を廃してかつて功名栄華を求めつつ散って行った兵たちへの追想、さらには〝人の世はなべて一炊の夢〞の思いを伝えてあまりある。名句といわれる句はまた詠み手である作者の姿がおのずと浮かび上がってくるものだがこの句からも夏草の中に茫然と佇ちすくんでいる芭蕉の姿が見えてくる。短歌の半分余りの数の十七音でこれほどの思いを伝え得ているのは冒頭に置かれた「夏草」の一語と俳句特有の「切れ」の構造に由来するが、「言葉の並置」が句をより力強くしている。

短歌では言葉を流れるように使い、俳句では言葉を静止させて点景のように使う。点と点の連なりから別の世界が立ち上がるのを待つのが俳句である。これを外山滋比古は絵画におけるポアンティイスム(点描画法)にあたるものとして捉えている。動詞は流れを作り、名詞は点景を成す。何の説明も加えずに名詞を並置した瞬間、言葉と言葉が響き合い、そこに渾然とした調和、余韻、余情が生み出されるのである。ポエジーは目論むものではなく、句が勝手にポエジーを生んでくれるのである。

 戦争と畳の上の團扇かな 敏雄

一見無関係に見える「戦争」と「團扇」だが、間に「畳」が置かれることによって昭和という暗い時代が浮き出されて来る。解説なしで戦争と平和の間の落差が表現されると共に作者の平和への希求の思いが伝わってくる。

 雪明り黄いちめんの餓鬼艸紙 寒太

「雪明り」の清浄な世界に対比させて敢えて「黄いちめんの」を置き、飢えと苦しみゆえに出没する餓鬼の世界を際立たせて、その結果一層のドラマが生まれてきている。作者にとって死は清浄なものだが同時に「黄」によって生の不安、死への恐れを表しているかに見える。

いずれも十七文字の言葉の並置が生み出す魔力であるが並置する(配合する)言葉は、作者の側にいかに必然性があっても、読み手にこれが見えて来なければ並置による心の機微は伝わらない。それは作者の言葉に対する信頼によって生まれてくるのであろう。

また俳句において言葉を選択するときには探検者の心構えが必要になる。

 天の川わたるお多福豆一列 楸邨

言葉を独自の発見によって配合させ、不思議な世界を出現させている。この句について石寒太は次のように書いている。

(前略)「天の川」という奇麗なもの、「お多福豆」という滑稽で、ちょっぴり淋しいもの。その配合の絶妙さが、抜群である。「お多福豆」は何か、楸邨に訊いても、「わからない」という返事が返ってくるかもしれない。

その楸邨が芭蕉の

 石の香や夏草赤く露暑し (元禄二年 曽良旅日記)

を評して、「情緒的ではなく『露』『夏草』『石の香』等、素材がみな物として生かされている発想は注目すべき点である」と書いている。一見単なる写生に見える句が言葉(この場合はものを表す言葉)の並置により、それぞれの言葉以上の生命感を生み出していることに着眼して見事な鑑賞をなしている。

ところで我々が目指す心語一如は方法が写生によるかイマジネーションからか言葉からの触発によるかにはかかわりがない。心語一如とは「心と言葉が不可分」ということである。心とは思いであり、感動である。心と言葉が不可分となった句は一部だけ他の言葉に置き換えることができない。選択された言葉はすでに心の象徴として存在しているのである。心とは、ここまでに挙げた例句に見るとおり、具象句であれば発見の瞬間の感動であり、風景句であれば何かを切り取ろうとする意思であり、抽象句であれば想念である。また言葉から発想される句であればその言葉への憧憬そのものが心である。あらゆる心が、選択され抽象化された言葉と不可分となった時、それが心語一如となるのである。そして心が定型(あえて制約とは言わない)という〝仕掛け〞の中で直叙せずに表現された時〝心語一如の句〞となる。そこからは絵画を眼前にするごとく景が見え、音が聞こえ、心が伝わって来なければならない。

 たとふれば独楽のはじける如くなり 虚子

 たましひのたとへば秋のほたるかな 蛇笏

たまたま現代俳句では嫌われがちな「喩え」の二句だが、にもかかわらず前句は碧梧桐、後者は龍之介への追悼の思いが心語一如となって伝わり来て見事である。

子規が俳句はいずれ行き詰まると考えた根拠は、言葉の順列組合せには限度があると考えたからという説もあるが、それが憶測であるかどうかはともかく、現実には俳句は百年以上生きながらえてきた。なぜか。それは言葉の数には限りがあるが、言葉は内包する意味という点において絶えず増殖を続けており、言葉同士の組み合わせがさらに宇宙的規模で拡大する。しかも自然にはディテールがあり、大景と点景の組み合わせは無限、言葉への憧憬は人の感性によってこれも無限、となれば俳句に行き詰まりなどありえないはずである。にもかかわらず常に危機が叫ばれているのは、ディテールの発見がないこと、組合せに独自性がないこと、そしてなにより言葉への憧憬が足りないことに起因する。さらにつけ加えれば、季語の力を信頼しない、もしくは季語を単語としてしか使おうとしない姿勢と切れの効用を利用しない姿勢である。定型は骨格であり、季語は約束であり、切れは効用であることを忘れては俳句自身のアイデンティティを失ってしまう。その素晴らしいともいえる枠の中で心が言葉と不可分となったとき句は共感を得て永遠に生き続けることができるのである。

最後に冒頭に掲げた自問への答えを出したい。私はなぜ俳句を作るのか。それは俳句をとおして新しい自分を発見したいからに他ならない。新しい自分は自然の営みの中に、あるいは他者の中に、自らの心の反映として現れる。研ぎ澄まされた感覚によってそれを発見し、言葉によって表現する。「心語一如」は生きる姿勢であると結論付けたい。

最後に、特にかな表記を含めた言葉の選択に焦点を当てて、「心語一如」への自らの指針とすべく、石寒太師の各句集から私の愛唱する句を二句ずつ厳選して掲げて章を閉じたい。

 蝶あらく荒くわが子を攫ひゆく
 尿る子の怒る瞳をして豆の花 (『あるき神』)

 八月十五日朝母音のゆたかなり
 幸福といふ不幸ありヂギタリス (『炎環』)

 原爆の日の蟹の穴無数なり
 鬱の日の沸点にゐて緋の躑躅 (『翔』)

 致死量の月光を身に浴びてをり
 ノーモアヒロシマ一匹のみづすまし (『生還す』)

 罪人のやうにいづみに跼みけり
 水鳥の浮遊スティーブ・ジョブズの死 (『以後』)

五 おわりに

音楽に例えると散文が饒舌なロシア音楽、詩や歌が情緒纏綿なブラームスとすれば、俳句は単純な音符の配列がたまたま聴く者の琴線に触れてくるモーツアルトと言えるかもしれない。モーツアルトはお喋りをしながら次々とメロディが浮かんできたそうだ。俳句も同じように、じっと考え込んで作るものではなく、ふだんの生活の中でなにげなく書きとめていくものでありたいと思う。しかしそのためにはものを見つめる目、ささいなことにも感動することができる寛容な心とともに詩語としての言葉への感覚を磨き続けることが必要であろう。「心語一如」が自分にとっての生きる姿勢であると結論付けることができたのは、ほかならぬ俳句、それも強いて言えば「俳句形式」のおかげである。これからも俳句形式への畏敬の気持ちを大切にしていきたい。

【主な参考資料】
『正岡子規集』 日本近代文学大系16 角川書店 昭和四十七年
『正岡子規集』 日本現代文学全集16 講談社 昭和四十三年
『俳句の五十年』 高浜虚子 中央公論社 昭和十七年
『俳談』 高浜虚子 岩波文庫 平成九年
『虚子俳話』 高浜虚子 東都書房 昭和三十三年
『定本高浜虚子全集全十五巻』 毎日新聞社 昭和四十九年
『高浜虚子』 日本現代文学全集25 平成元年
『日本近代文学の〈誕生〉言文一致運動とナショナリズム』 絓秀実 太田出版 平成七年
『俳諧史』 栗山理一 塙書房 昭和三十八年
『日本の思想』 丸山真男 岩波新書 昭和三十六年
『その眼、俳人につき』 青木亮人 邑書林 平成二十五年
『俳句におけるリアリズム 第一集』 新俳句人連盟 昭和四十年
『戦後俳句論争史』 赤城さかえ 青磁社 平成二年
『リアリズムの構造』 渡部直巳 昭和六十三年
『リアリズムの源流』 江藤淳 河出書房新社 平成元年
『文学・芸術とリアリズムをめぐって』 北條元一 青磁社 昭和六十二年
『古今和歌集』 佐伯梅友校注 岩波文庫 昭和五十六年
『修辞的残像』 外山滋比古 みすず書房 昭和四十三年
『知覚の現象学』 M・メルロ・ポンティ 中島盛夫訳 法政大学出版局 昭和五十七年
『日本名句集成』 學燈社 平成三年 『今、俳人は何を書こうとしているか』 邑書林ブックレット 平成二十二年
『加藤楸邨の一〇〇句を読む』 石寒太 飯塚書店 平成二十四年
句集『あるき神』 石寒太 花神社 昭和五十五年
句集『炎環』 石寒太 花神社 昭和六十年
句集『翔』 石寒太 ふらんす堂 平成四年
句集『生還す』 石寒太 ふらんす堂 平成十九年
句集『以後』 石寒太 ふらんす堂 平成二十四年
『戦後生まれの俳人たち』 宇多喜代子 毎日新聞社 平成二十四年
『近代秀歌』 永田和宏 岩波書店 平成二十五年
『三冊子を読む』 森田峠 本阿弥書店 平成四年
『去来抄評釋』 岡本明 名著刊行会 昭和四十五年
『新撰21』 筑紫磐井ほか編 邑書林 平成二十二年
『現代の短歌 100人の名歌集』 篠弘編著 三省堂 平成十五年
『日本文学における美の構造』 栗山理一編 雄山閣 昭和五十一年
句集『海草標本』 佐藤文香 ふらんす堂 平成二十年

受賞のことば

三年続けて評論賞を頂いたことについては、約八ヶ月に及ぶ労苦が報われたという点で喜びはあるが複雑な感慨がないわけではない。他の結社にはあまり見られない「評論賞」の灯を消したくないという思いから続けてきたが投稿の数が依然として少な過ぎるのは否めない。

若い時代に内外の医学論文を読んだり書いたりした体験から論文という形式については一家言あるつもりだが、理系の科学論文とは違って文学、特に俳句の評論などの場合は、形式は比較的緩やかであろうと思う。寒太主宰からは、その多くの著書からも、また直接の言辞からも、文章を読ませるにはやさしい言葉、表現を用いることが肝要であることを学んだ。基本的には独自の問題提起があり独自の結論が導かれていればそれは優れた評論と言えるだろう。エッセイなどとの根本的な違いはその辺りにあるのだろうが、昨今一般の俳句雑誌などでそうした優れた評論に出会うことは極めて稀である。

炎環には実は優れた論者が非常に多い。炎環が標榜する「心語一如」についてみんなでやさしい言葉で語り合うつもりで文章を寄せ合ったらどうだろう。そんな試みを一度はやってみるべきではないだろうか。その結果もっと気軽に評論を書こうというムードが高まればなおいい。