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炎環の俳句

2015年度 炎環四賞

第十九回「炎環エッセイ賞」受賞作(テーマ「書」)

東郷寺

河内 協子

三島由紀夫の 「鏡子の家」を読んでいた時、壮大な山門のある戦死者の墓地についての記述に目がとまった。これはきっとうちのお寺東郷寺のことにちがいない。あの山門は以前、黒澤明の映画 「羅生門」のモデルになったこともるし、あたりに場違いな堂々とした八脚門である。久しぶりに思い立って、墓参りに出かけることにした。

東郷寺はその名の通り、もとは日露戦争の日本海海戦で名をはせた、東郷平八郎の別荘地であった。没後昭和十四年に元帥を開祖に日蓮宗の寺として建立されたという。最近は山門前の枝垂桜の大木が評判となり、花時には遠方からもカメラを提げた多くの人が訪れて、早朝から祭のような賑わいをみせている。敗戦から七十年。日本に戦争に明け暮れた時代があったことさえ忘れられている昨今だが、そもそもこの桜も英霊供養を祈願して、身延山久遠寺より苗を移植したとのこと。

急勾配の石段を登り、都の歴史的建造物にも選ばれている山門をくぐる。右手の御本尊に一礼、そのまま直進する。お彼岸やお盆の時期を除くとめったに人に会わない、簡素な開き戸の先の一番奥まった一画が、戦没者のための墓域となっている。私の父もここに眠っているのだ。

父は終戦の三月前、十五万人もの、旧満州での「根こそぎ動員」のひとりとして応召したが、八月九日にはソ連軍の参戦、そして敗戦。そのまま部隊ごと全員消息不明となったそうだ。事務手続き上は、中国東北部牡丹江付近にて戦死。命日は昭和二十年八月十四日とされたのだが。

東京に引き上げた母は、父の復員を信じ、戦後十余年のあいだ戦死公報の受け取りを拒否し続けた。シベリア抑留者名簿がたまに新聞に載ると、もしやどこかにと、眼を皿にして父の名前を探したことを思い出す。かすかな期待とあきらめ、沈黙と憤りの日々だった。

ようやく父の死を受け入れたのは、私が高校一年の時。遺族会の斡旋もあり、この墓地を終の住処と定めたのである。手渡された骨壺は予想通りの空っぽで、紙切れ一枚が入っているだけだったから、思わず笑ってしまった。その母も、満州で生後二週間で病死した兄もここに一緒に納まっている。

すっかり様変わりした町。取り残された静寂の中に、肩を寄せ合うようにして整然と並ぶ墓標。何かに促されて、石に彫られた戦没地を手当たり次第に走り書きする。雨風に晒され読みとれない。ルソン島、レイテ島、ニューギニア、台湾沖、テニアン、サイパン、南方海上、沖縄海戦、マニラ洋上、ニューブリテン島、ビルマ、ラバウル、ボルネオ、マレー半島など玉砕の地がつづく。満州国、北支、黒龍江省、山東省、中支、南支那海戦、広島……。

鋭い鳥の声。かすかに雨の匂いのする風。「キョウコ」と叫ぶ父の声が聞こえた。