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炎環の俳句

炎環四賞 第二十一回「炎環評論賞」受賞作

「人間探求の先にあるもの ――最近の炎環同人四句集より考察――」北 悠休

        田村隆一「四千の日と夜」より

はじめに

ここ数年、私の所属する俳句結社「炎環」(以下、炎環と略)の同人から、意欲的な句集が相次ぎ刊行されている。これらを読み解くと、炎環の俳句表現の現状とさらに目指すべきものが見えてくるのではと考え、本稿を起こしたものである。炎環の会員・同人の句集の全てが手元にあるわけではないので、論評するのは二〇一六年以降の代表的なもので、かつ、私が感銘を受けた四句集に絞ることとした。

四句集とは、刊行順に、増田守『虚数』(二〇一六年七月・角川文化振興財団刊)、結城節子『羽化』(二〇一六年十月・文學の森刊)、たむら葉『雲南の凍星』(二〇一七年一月・文學の森刊)、田島健一『ただならぬぽ』(二〇一七年一月・ふらんす堂刊)である。作者の年齢的には、増田、結城、たむらが七十歳代前半、田島が四十歳代前半である。四句集それぞれの特徴を一言で表現するのは難しく、また予断を与える事となりかねないが、便宜的に区分しながら紹介する。

『虚数』は原発や社会的な題材を積極的に詠み込んだもの、『羽化』及び『雲南の凍星』は日常生活を中心に多彩な題材を詠み込んだもの、『ただならぬぽ』は新たなる句の高みへの方向性を示した作と言える。その中でも炎環の内外で特に反響が大きく、問題作と考える『ただならぬぽ』に紙幅を大きく割くこととした。炎環の現状を代表する『虚数』『羽化』『雲南の凍星』と、炎環の前衛と目される『ただならぬぽ』の対比で、炎環の現在と未来が鮮明になると考えたからである。炎環は創立経緯から、いわゆる人間探求派の代表的俳人・加藤楸邨の流れにあるが、混沌とした俳句界に明確な立ち位置を示して行けるのか、結社離れが論じられる現在、結社に集う意義はあるのかも併せ考察したい。

約束事として、使用する年号は西暦に統一し、以降、例えば二〇一七年は単に一七年と略記する。

一 増田守『虚数』について

増田守は、原発をはじめ人類の生存や近代文明の危機を鋭敏な感覚で捉え、いわゆる社会派の旗手として炎環の中で異色な存在である。句集も一一年の『時空の旅人』を嚆矢に、『π粒子』(一二年)、『序曲』(一五年)、そして最近の『虚数』に至るまで、六年間に四句集を刊行し、実に意欲的な創作活動を展開している。これは増田が本句集の後書きで触れている通り、「病気との競争でもある」ことに一因はある。病状は詳らかではないが、その私的事情がなくとも、作者は今詠むべき句を世に問うているはずである。最新の『虚数』をまさに虚心にかえり論じたい。集中には社会的な事象を題材にし、鋭い角度で詠んだ句が多数ある。

一句目はタリバンに破壊されたバーミヤンの巨大仏像を詠んでいる。春日の穏やかさと凄絶な愚行が対比され鮮烈である。後の四句は福島原発の終わりなき惨を糾弾している。「埴輪」は黙の象徴であり、現文明を形作った祖霊ともいえよう。人類の破壊者に口を閉ざしてはならないとの作者の想いである。

最後の「虚数」は句集名となった巻尾句である。「虚数」はいくら積み上げても実数にならない「虚」のままで、近代文明の虚妄の象徴でもある。対比された「寒の星」は揺るがない宇宙で、絶対的な真理を指し示す。作者の厳しい世界観・文明観が表出している。社会事象を詠んでも難解さはない。象徴的な季語との取り合わせで、直截的に無理なく作者の思いが読者に伝わるからである。

この二句には、増田の弱者への優しい想いがあふれている。峻厳な写生句でもある。

直近の政治動向を句にしている。最近は一般に時事句を嫌う傾向があるが、句の題材は森羅万象全てにあると考える。俳句の本質に関わる問題であるが、増田は時事句を詠むことに躊躇はない。憲法の国民主権や平和主義を平気で侵奪する権力に容赦ない。かつての京大俳句事件での弾圧や民主的な文学が破壊された戦中を想い起こすべきであろう。あの時代に逆戻りしてはならないとの強い意志に共感する。

ただし、時事句にはとかくメッセージ的な言葉の羅列に止まる危険もあり心すべきで、

などは、やや類型的表現に陥ったと感じる。

旅中句や写生によるおおらかな句も心地よい。青蜜柑の句には思わず頷いてしまう。

作者の自然への慈しみや自然に生かされている姿が見える自然讃歌、アニミズムを感じさせる。

このように鋭敏な感覚で捉えた文明観や家族への思いを綴った句に、増田の根底にある人間味豊かな本質が窺える。

今回の『虚数』を含め、増田の句集には命を見つめる確かな眼が宿っている。楸邨の「雉子の眸のかうかうとして売られけり」等の「命を詠む」精神を、最も良く受け継いでいる作家と感じる。

二 結城節子『羽化』について

結城節子は二〇〇五年に炎環賞を受賞しており、炎環を代表する実力派である。長き教員生活の中で句を磨いてきた真摯な姿が見える。結城の第一句集であるが、詩性あふれる作風が横溢している。

声に出してみると良く解るが、柔らかでかつしなやかな句のリズム、言葉の斡旋、季語との組み合わせ、考え尽くされた平仮名表記の妙、全てが句の骨法を知り尽くした名人技といえよう。かと言って技巧を見せつけるのでなく、自然な句姿が美しいのである。おそらく結城の人柄から来るものであろう。「鶴の抱卵」に絶妙な季語「春の月」を配し、「しんしんと」に鶴に寄り添う己の姿も投影している。最後句は、句集名となった白牡丹の咲く様を「羽化」にたとえ、たおやかで繊細な透明感が漂ってくる。作者そのものが白牡丹に羽化するような、耽美性に満ちた名句である。結城の場合、句の中に自分を映し込む句作法が際立っていると感じる。

教師時代の心温まる句群である。暖かな眼差しが教え子に寄り添うように句に結実している。何気ない日常句の中に充実した日々が窺え、炎環の女性俳人特有の素直な情感が良く出ている句が多い。

吟行句の静かな佇まい、病を得て更に奥行きのある死生観が句に現れている。母堂への愛と別れが哀切に心を打ち、その静謐さが読者自らのことのように迫ってくる。

社会性のある句を詠んでも、その感性や詩性は決して崩れることがない。その炎は蛍火のように静かな光を湛え、時に非戦を時に魂の救済を訴えかけている。最後の「稲の花」句は、一六年度「毎日俳句大賞」受賞作である。結城の句を読んでいると、楸邨の「落葉松はいつ目覚めても雪降りをり」の詩性を想う。楸邨の詩魂が、炎環に大河のように脈々と流れている事を感じるのである。

三 たむら葉『雲南の凍星』について

たむら葉は長年、小学校教諭としてまた得意の語学を活かした外国人や海外帰国子女の教育に献身的に従事してきた教育者である。その真摯で闊達な生き方が句に表れている。

家族や学校での何気ない日常が生き生きと描かれている。「豆の花」「桑いちご」など季語の斡旋の妙、会話体や繰返しのリズムが滑らかで無理がない。作者の健やかで柔らかな感性が窺える。

家庭と仕事の中でやや鬱屈したこともあったのだろうか、ねじ花に内省的な自分を投影している。次の句では、水の動きを鋭く観察している。真ん中の水が勢い良く上がる様はなるほどと思う。頑張っている作者の姿かもしれない。写生の佳句が揃っている。

そう言われれば納得するしかない見事な写生句である。「花菜風」が絶妙で、巨象が菜の花の香に酔っている気分にさせる。

作者は常に微笑みを絶やさぬ人であるが、内面には強固な不戦の意志を持つことが解る。「鰤大根」で女性らしい心の機微をうまく表現している。海外子女に注ぐ柔らかな作者の眼差しが窺える。

この二句のように繊細かつ豊かな発想の句も共感できる。表現法は多彩である。

自宅のある川崎市高津区に題材を得たり、句集名になった中国雲南の旅など広範に詠む。ふくよかで感受性豊かな触角で捉えた吟行句は飽きさせない。 そして盟友ともいえる結社の先輩、長谷川智弥子の死に際しての長岡吟行での一句。

私もこの句が生れた現場に居合わせたが、これほど臨場感ある見事な追悼句を作れる人はいないと確信したのである。

全体を俯瞰すると、多岐な題材をたむら流に見事に表現しているが、根底には人間への揺るぎない優しさと信頼、そして真摯な瞳がある。たむらの健康で向日性あふれる句を詠むと読者も幸せな気分になる。楸邨の「生活を詠む」良質な部分がたむらに受け継がれている証左でもある。

四 田島健一『ただならぬぽ』について

田島健一は、炎環の中では若手のリーダーとして最も注目されている俳人で、結社内の最前衛派と考えてよい。ネットや横断的な俳句仲間を持ち、結社外にも相当の影響を有していると見られる。これは田島の初句集である。私は一見難解で馴染みにくい田島句を無意識に敬遠してきたが、今回は句集に真っ向にぶつかり私なりの解釈で読んでみた。そこで解ったことがある。田島は俳句の特性である写生を重視していないし、俳句ならではの吟行も好きでないかそれを必要としていないと思える。結社にとっては異端児であろうが、恐らく本人は意に介していい。田島の創作法は、まず感覚で捉え描いた想念や幻想が湧き、それに伴い言葉が生起するのである。そして本人が面白いと考える言葉が増殖し句が生まれる仕組みで、象徴詩の作り方のようである。田島の句に何か意味を求めようとしても無駄である。虚実も不明でそのあわいに遊んでいる姿がみえる。句集の序文に、主宰の石寒太が、

と寄せている。田島の創作法やこの句集の特徴を端的に鋭く言い表した言葉である。虚心に読むしかない。あとは感覚を共有できるかどうかなのである。ただし、読者は作者本人ではないので、共有できるかは己の言葉に変換して味わうしかない。当然、作家としての田島は句を発表し「見せて」いるので、読者がどう読むのかを楽しんでいる。読者を想定しなければ、単なる日記か断片に過ぎないのである。

さらに句の作り方は、従来からの「定型」「写生」「季語」「旧仮名遣い」「切れ」を重視していない。田島の踏襲するのは季語と十七文字だけである。ぎりぎりの所で俳句定型の領域に踏みとどまっている。そもそも俳句とは何かを論ずる必要もあるが、ここではあえて踏み込まない。

では集中の句を見てみる。先ず巻頭句

「翡翠のしんじつ詩のながさ」だけで一篇の詩となる。あえて「記録」は不要と思える。「記録」は翡翠という生物の発生からの「存在」と考えると、「翡翠」そのものが存在なので「記録」は蛇足である。この句は象徴詩の一部と理解した方が良い。

この句は写生が伴うと見る。と言っても「玉葱を切る」だけのことである。「いにしえを見る」、それは玉葱を人間の魂や信仰と捉えても良い。詩はあるが、いかにも散文的で冗漫な田島句の特徴が表れている。

これらの句では「類型」「蓬髪の使者」「不純異性交遊」がキーワードとなる。季語の「蜘蛛」「夕立」「白魚」に必然性を感じない。季語に拘らず自由に発想したものと考える。あえて意味付けをすると、「蜘蛛の巣」の幾何学的模様も「忌日」も類型的な景の企みである。「蓬髪の使者」は、例えば親殺しの象徴であるオイディプスのようにも思える。親はいずれ子に誅殺される存在か、夕立と蓬髪はその暗喩である。この言葉は何かと思わせる導入の巧みさがある。白魚句は面白いが、句作法的には付き過ぎと言えよう。

これらは感覚的にはよく解る句である。「あおき正午」の無重力感が伝わる。「けむり」は平和と戦乱の両刃の暗喩であり、京都の歴史的存在感が示されている。三句目は、「音楽と霧」が生れる詩的な空気感を上手く感覚で捉えている。

猫や鳥など動物の句が多い。これにも特別な意味はない、たまたま心象を描くのに動物が適しているからであろう。猫を見て台風にも裏があると見立てるのは面白いが類型感がある。後句は、動物界の一員でもある人間の婚姻という形式への不安感が示される。不動の象徴である森羅万象の滝と対比させている。唐突な言葉の組み合わせに最初は戸惑うが、馴染んでくると感覚的に共有できる。この二句も散文的であるが、既に田島の世界に洗脳されているのかも知れない。

ここでの鶴は無垢や透明感の象徴と見る。「とくべつな光」に春の感覚が良く表わされている。「泥になるまで」は人間の貪欲さや執着心の表れか、中也の「汚れちまった悲しみ」に通ずるものがある。「ふとあまい」感覚は見ている己と白鷺の一体化を意味する。最後句は、白鳥を樹に見立てて「葉を纏う」と表現する。私は「葉」を雪に見立てて鑑賞した。写生を内在化させて見えて来るシュールな世界である。

会話体にとぼけた味わいがあるし、日記風な「雪止んで晴」の体言止めの飛躍に独特の不思議感がある。作者の日常も垣間見える。

この二句は原発や戦争の虚妄さやきな臭さを感覚的に実感している句で、集中でも特に共感する句である。前句は福島原発の状況を詠んだものであろう。安全神話の象徴であった原発、それは汚れなき泉と言い換えてもよいが、幻想にすぎないことが明白に。鋭敏な感覚は星さえ傷付いて映っているのであろう。同じ社会性を詠むにも直截的な表現の増田とは異なり、象徴性にその特徴がある。「銀の鹿」は上手い表現である。

体言止めの二句である。西日暮里の景は賑やかで健康な猥雑さの象徴、翻って自身のやや疲れた心の状況が見える。稲妻は破壊と再生のこれまた象徴、自然の力を受容し安らいでいる作者の姿がある。「健康」は詩的な表現から遠いが、体言効果で普段気付かないありがたさを実感している作者が見える。企みは成功したと言えよう。二句目も田島ならではの社会性俳句か、ⅠT職場の虚無感を切り取っている。

流氷の動きを「息のある方へ」と見事に捉えている。自然界の摂理も何らかの神の作為の下にある。人間も自然の借景、須らく生きるものへの讃歌とも言える句である。

二十日鼠は夜行性で視力も良くはしこい眼を持つ。生きるための本能。雪が降り続く透明感は、生きることへの澄んだ眼差しに似る。永遠にあってほしいとの祈りがある。

作者の心は疲れている。あふれる人混の中、ひっそりと屏風絵に隠れてしまいたい人間心理がある。隠れるのはおそらく若冲でなく安らぎの雪舟の絵である。

句集帯に採用され、作者の自信句であろうが、私には最も理解が難しい句である。まず「なにもない」ので切れるのか、文法的には「雪の」の「の」が主体格か修飾格なのかで迷う。通常は修飾格として「雪の(ある)南」と読み、主体は「隠れている自分」と考えるが情景が見えて来ない。構文上明確な読みができない分、私には作者の意図したものが共有できず、読む快感が伴わないのである。

冒頭の翡翠句と同じ作りと見る。梟は太古より人間界と長い交流があるが、その命の終わりは人の終焉のように「ホウ」と息を吐くのだろうか。例えばシマフクロウは絶滅危惧種であるが、では人間も?と思わせる文明観も窺える、深読みであろうか。珍しく切れ字が使われ成功している「詩」である。

作者の創作法を「紙で創る」としている。どんな世界も宇宙も文学上の紙での表現は無限である。ならば海月でも同じ。ささやかな生物の海月も、描きようで王にも変身するのが俳句表現の醍醐味である。このことは句集の題『ただならぬぽ」に繋がってゆく。

「ぽ」は、ただならぬものへの変身を遂げるための魔法の杖、呪文のようなものか。作者の創作上の発想は無限に拡がるのである。田島の句作法や句の類型を先達に探ると、阿部完市に似たものを感じる。阿部の句を見てみる。

どうであろう。阿部は、感覚を通して得た心の動きを言葉に転化させている。散文的な表現や体言止めにも両者の類似を感じる。池田澄子の「花の下もの食べ合っていて安心」などの句も近似性がある。ただし、これは三者に共通した技法というしかないのだろう。田島句は阿部句に比べ、詩性による抽象度や昇華の度合いが高いと感じる。

以上、『ただならぬぽ』から見えて来たものは、田島が従来の炎環にない句作法や表現法を目指し挑戦していることである。詠む題材も自在と言えるし、社会的な詠み方にも個性がある。意外にも共感できる句が多くあったが、それは俳句というより詩を読む快感に近いものである。言わば句と詩の境界線上に田島の句がある。研ぎ澄まされた感性で創り上げられた句(詩)は炎環の新たな地平を拓くこととなるのか、今後も目を離せないのである。

五 総括 ~人間探求の先にあるもの

(一)炎環の現状

最近の炎環の代表的な四句集を仔細に分析・考察してきたが、この集約が炎環の現状そのものと言って過言ではない。増田は文明や人類の危機に想いを馳せ、社会的な事象を鋭く句に切り取ろうとしている。結城とたむらは日々の生活を大切にし、その喜怒哀楽を静と動それぞれの柔らかい感性で句に結実させている。田島は若い感性で俳句の枠組ぎりぎりの詩の冒険を試みている。それが炎環の「いま」である。因みに昭和四十年代生まれ以降の炎環同人から目についた句をあげてみる。

写生を重視しつつ季題以外のものとの取り合わせが絶妙なもの、シニカルな視点や諧謔性、耽美性を忍び込ませたものなど、様々である。虚構も含め自由な発想で言葉の領域を広げている。女性同人には日常生活の断面を独自の感性で深めた句が多い。一見混沌と見える作風の自由さが炎環の現状で魅力と言えよう。これは句の形態に拘泥しない主宰石寒太の包容力による所が大きい。それぞれの句には作家の個性がきらめいている。

(二)炎環の原点としての人間探求

炎環の根源に「人間探求派」の楸邨の存在があるが、会員が意識しているかは疑問である。私自身、俳句結社の師系や伝統派か前衛派か等のジャンル分けには興味はない。「人間探求」の用語にこだわれば、人間を探求することは須らく文学に共通する事である。ただし、「生活を詠むこと」「人間を詠むこと」は忘れてはならない。「人間探求派」の概念が生まれたのは今から約八十年前、昭和十四年八月のことである(「俳句研究」座談会)。楸邨はこの座談会の中で、「生活の声」を汲み取ることと、「(現状は)カオスの状態だ、既に出来上った俳句的なものの中から一句にまとめるのでなく、今まで捨てられていた俳句になっていない所から切り取りたい。」と考えを述べている。また、句集『寒雷』後記にも、「日常生活の執拗な凝視」の中から閃めく光を射止めようとある。この言葉は現在にも妥当する。生活即ち人間を詠むことや新たな句への挑戦が炎環の「不易」の精神で骨格である。伝統であれ前衛であれどんな詠み方も自由であるが、あくなき人間探求がその真髄である。前掲四句集や若手作家の句を見るに、その精神が今の炎環に脈々と流れていることが解る。混沌の中に己の個性や感性を信じ、俳句表現の高みを目指していると感じる。

(三)短歌界の議論から学ぶこと

短歌界では俵万智が登場した三十数年前から、否もっと前の例えば戦後早々の塚本邦雄の登場前後から、表現形式を巡る新旧の葛藤は続いている。俳句界では今の段階でやっと、短歌でなされた議論が行われていると感じる。短歌界きっての論客・穂村弘の若手歌人の現状分析が、極めて的を射ているので長いが引用する。「若い世代に限定してみると、この時期(*筆者注・バブル崩壊後)の歌は、「私」の価値の高騰、歴史や社会といった「外部」の喪失、イメージのインフレーション、関係性への希求、定型感覚の溶解などの特徴を持っていた。それらの前提には、かつて、それぞれの時代に冒瀆的な武器として獲得されてきた筈の「私」「モノ化」「口語」が、初めからそこにあるものとして感覚されている状況があった。」(『短歌の友人』)さらに、二十一世紀に入るとインターネット等メディアの変化に伴い、過去の修辞的な資産の放棄に近い「棒立ちの歌」が量産されてきたと論じている。ここで「モノ化」とは、「生や命」の尊厳を無視し単なるモノと同等に詠む傾向と、「棒立ちの歌」は、詩にならない言葉の羅列や表現の類型化と私なりに解釈する。この指摘の「歌」を「句」に置き替えると、「定型感覚の溶解」等そのまま俳句界の一部若手の句に妥当するものを感じる。ある俳句雑誌を見ていて次の句があった。

一部の句を見て何かを論評する事は危険であるが、それでも私は前掲を良しとしない。少なくとも読んで共感は伴わない。背景が解らないと理解できない私的な状況説明、あるいはただ事か、つぶやきか。俳句は季語を付ければ良いというものでない。前掲作家には賞を得た俳人もあり、私の感受性(受容力)のなさかも知れないが、次の句はどうか。

この句は上五が空欄で余白がある。面白いし新たな表現を目指す意欲は買うが、余りに奇を衒い過ぎる。これら若手作家の句から、作る側は当然「私」であるが共感するのも「私」という、自己満足の小世界に陥るのではと危惧するのである。

(四)俳句表現の目指すもの

さらに俳句の根源に立ち返った議論をしてみたい。句には普遍的な感性の広がり、普遍的な詩がなくてはならない。読者には、読んで共感でき快感を与えてほしい。私は俳句に内在する作り手と読み手の往還構造(島青櫻『詩のアディスイ』参照)にその醍醐味を求める。往還構造を「共感の往来」又は「存問」と読み替えても良い。詠み手と受け手の往還(存問)なしには俳句という文学が成り立たない。それが俳句の本質であり、譲れない線である。往還のない句は私的な日記と変りはない。その意味で前述した若手作家に一部見られる、定型無視、前衛を装う言葉の陳腐化・記号化、何より私性への埋没の傾向には首肯できない。

本稿では当初異質とも感じた田島句を詳細に論評したが、田島はぎりぎりの所で俳句という最小限の詩型を大切にし向き合い、新たなる表現形式を模索していると感じる。句に表出した想いが伝わってくる。同様に炎環の同人たちも新たな挑戦を続けている。その不断の試みが、人間探求の先にある炎環の未来を指し示し、「不易流行」の高みに繋がるのである。

終わりに 〜座の文学としての結社の意義〜

最後に、私たちが俳句結社「炎環」に集う意味を考えたい。俳句の成り立ちである連句の時代から、俳句は「座の文学」である。それが他の文学との際立った違いであることは言を俟たない。結社の存在はその「座の文学」の中核にある。句会をなし吟行を行い、会員同士議論し切磋琢磨して句の高みを目指す。「個」と「衆」のぶつかり合いや葛藤の中に俳句文学の本質や醍醐味がある。最近はネットによる顔の見えない繋がりが拡がっていてその効用は否定しないが、俳句の楽しさ厳しさは結社に集うことで倍加する。

戦後早々、桑原武夫が「第二芸術論」で、俳句は隠居老人のする菊作りに等しいと批判し大きな議論を呼んだ。高浜虚子は「俳句が芸術になったとは結構なこと」と意に介さなかったが、今や短詩型文学の一つとして世界にも認められている。ただし桑原の論にも一理はあり、文学の本質を忘れたいわゆる「旦那の道楽芸」に堕してはならない。結社内の「馴れ合い」や「内輪ぼめ」は禁物で、厳しさを忘れてはならない。我々のような地方の句会にも二十代の若手が参加し、老若男女が議論している姿を見るに、俳句結社の存在意義と炎環の将来を確信している。欲を言えば、炎環内でさらに会員同士の厳しい批評や議論があって良いと感じる。

最後に、俳句は短詩型の最たる形態ゆえその表現力は無限であり、新たな冒険や挑戦をする意義は大きい。創立三十年を迎え、改めて炎環という俳句結社に集う意味を己に問い直し、主体的に人間を詠みそれを詩の普遍性に高めること、それが今会員に求められているのではないだろうか。不易流行は常に変わらぬ命題でもある。

        A・ランボー「未来」より

【参考文献】

『現代の俳句』 金子兜太編 新書館
『現代の短歌』 篠弘編 三省堂
『短歌の友人』 穂村弘 河出書房新社
『俳句』 一七年六月号・七月号 KADOKAWA
『俳句あるふぁ』 一七年四・五月号 毎日新聞出版
『俳句の変革者たち』 青木亮人 NHK出版
『オルガン』 一五年二号 宮本佳世乃編
『詩のアディスイ』 島青櫻 『炎環』連載中

受賞のことば

今年は評論を出さないつもりが、七月末に畏敬する同人と句談義をするうちに創作意欲が昂まった。四句集の作家には、刊行祝を兼ねて句集論評を書簡にしていたので効率化もあり、二十日間ほど勢いのままに完成した。

読み返すうちに、評論といえど他人の句を勝手に解釈することは何と傲岸不遜な行いではないかと怖くなっている。されど「読む文学」の俳句特性ゆえご容赦願いたく、また論評へのご批判はありがたく頂戴致したい。

本稿は当然ながら炎環三十周年を意識したものである。

結社の原点にある「人間探求派」の楸邨の存在の重さを感じつつ、一方で、探求派の呪縛を解かれた炎環の未来を見据えたいとの想いがあった。

結論的に石寒太主宰の築き上げた炎環らしさは、三十年の歩みの中で不抜のものとの確信を抱くに至ったのである。次の五年十年は、その基盤の上にさらに新たな時代の風を生まなければならない。

そのことは炎環に結集する全会員に、とりもなおさず私にも課せられたものである。特に本稿での指摘内容は、実作者としての私自身が句によって実証し止揚すべきものであるが、その課題は残したままである。

関連リンク「炎環人の句集・書籍」