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炎環の俳句

2020年度 炎環四賞

第二十四回「炎環エッセイ賞」受賞作(テーマ「声」)

呼び出し幸男

瀬戸 敬司

子供の頃から相撲が好きだった。ラジオにかじりついて大相撲中継を聞いていた。当時は栃錦と若ノ花の両横綱がしのぎを削っていた。僕らの相撲も栃・若どちらかになりきって闘かっていた。

僕は豪快な技を繰り出す若ノ花、辰っちゃんは華麗な技の栃錦を演じていた。相撲の始まりは小鉄風僕の呼び出し、小鉄は最高位の立呼び出しで、彼が登場すると国技館内は水を打ったように静まり、小鉄の哀愁漂う独特の節回しと美声に酔うのだった。

僕は呼び出し幸男と名のった。初恋の幸ちゃんの男という勝手な意味を込めて。土俵はサツマ蔵で、サツマ芋の苗床をつくるために落葉を貯めたプール。どんなに激しく相撲をとっても痛くない。ただし農家の人に見つからないこと、落葉の上に土や堆肥がのり栽培が始まる前までの期間限定だった。

中学生になると相撲はしなくなった。そして自然と呼び出し幸男の活躍の場はなくなった。けれど呼び出しの練習は続けていた。

金持ちの家にテレビが入り相撲中継を見せてもらった。迫力ある力士の激突に驚いたが、それよりも呼び出し小鉄の雄姿に釘付けになった。結びの一番、土俵中央に立ち扇子を広げるまでの小鉄は枯れ木のようで頼りない。しかし力士の名を歌いだすと巨木になっていく。誰一人私語はなく静まりかえった館内に嫋々じょうじょうたる小鉄節が流れる。ああ僕も国技館の土俵で呼び出しをやってみたい。その日は床に入っても小鉄の声と姿が消えなかった。

高校進学を決める時、職業人としての呼び出しになることが頭をよぎったが羅針盤は工業高校機械科を指しておりそれに従った。

五十歳をこえた時、国技館の相撲茶屋の出方になった。出方とは茶屋の女将の下にいて茶屋が持つ桝席へくる客の接待をするコンシェルジュ。桝席への案内、飲食物や土産物の届けを主に客の求めに応じ働く。

浴衣と袴をつけ草履を掃く、恰好から見れば呼び出しと同じだ。仕事半分、相撲見物半分の日々の中で呼び出しをやってみたいという気が強まってきた。溜り席や桝席一列目などにお客を案内する時、そのまま土俵へ駆けあがり、呼び出し幸男の声を披露したい、そんな衝動を抑える毎日だった。
 

ついに願いが叶った。呼び出し幸男が結びの一番の力士を呼び上げる。

「東、白鵬〜西、鶴竜〜」静まりかえった館内に幸男の声が流れる。終わると歓声が沸く、よう日本一、小鉄の再来だ。
 

夢か、目覚めると茶屋の二階にいた。梯子を下りて行くと番頭さんはまだ眠っている。今日は千秋楽、忙しい一日が始まる。

無観客相撲では呼び出しの声がよく聞こえた。普通の場所でも館内をしいんとさせる魅力ある呼び出しが早く出てほしい。