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炎環の俳句

炎環四賞 第二十六回「炎環評論賞」受賞作

「リアリズム俳句の変遷と課題」高橋 透水

一.(まえがき)日本のリアリズムとは

 文芸におけるリアリズムの定義は歴史や国により必ずしも一義的で括れるものでない。フランスやドイツ・ロシアでおこった自然主義リアリズム、社会主義リアリズムあるいはプロレタリアリアリズムなど広範囲にわたる。日本では明治から大正にかけ小説などで試みられ、あたらしい文芸の潮流をみた。口語体による写実を重んじ、社会や人間の心理がより写実的に描かれるようになった。

 俳句に関していえばそれらは西欧のリアリズムの範疇からのずれがあり、本来的なリアリズムを盛り込むには程遠かった。が、その後に確かなリアリズム俳句が出現する。新興俳句や戦争俳句、また人間探求派のなかに見られるようになったのである。また生活俳句、社会性俳句、プロレタリア俳句などの運動は活発だったが、しかしながら五七五という定型の制約をもち、さらに季題がある短詩形に、物や人だけでなく社会事象を詠うのは困難であった。要は俳句でいう写実や写生と欧米のリアリズム文学とは根本的な差異があり、そもそも日本ではリアリズムの定義が明確でないうえでの句作であった。

 言語学者であるロマン・ヤコブソンによればリアリズム文学は「できる限り忠実に現実を写し、真実らしさを持っていると思える作品」ということになろうか。日本では写実や写生に訳されたリアリズムだが、従来からあった日本の写生の概念とはかならずしも同一視できない面がある。明治になって二葉亭四迷などが原文一致を唱え、新鮮な写生文が登場したが、西欧の小説と題材や手法が異なることからも容易に察することができる。

 俳句界で写実を意識的に唱えたのは正岡子規だった。西洋画から写生を学びあたらしい俳句の手法をみだしたのだ。が、この子規の写生論は西欧のリアリズムの概念を十分に消化しきっていたとはいえず、さらに虚子へと継承されたのはリアリズムというより、客観写生を重視した花鳥諷詠が主流になった。

 昭和六年、「ホトトギス」からわかれた水原秋櫻子の流れから新興俳句が出現して、生活・社会・戦争を題材にした社会的リアリズム俳句がみられるようになった。また生き方を内部に求める人間探求派も出現したが、やがて戦時の言論弾圧にあい沈黙を余儀なくされた。それでも戦後まもなく結社誌の復興や、また「天狼」などを中心とした新しいリアリズム俳句が出現するなど、多様な動きがうねりだした。

 本稿では日本で育ったリアリズムの起源から新興俳句と人間探求派のリアリズム、戦後の新感覚のリアリズムの出現と停滞、そして予期せぬ阪神淡路大震災とそれを上回る東日本大震災に関連した震災俳句、さらに新型コロナ感染の時代までの変遷を辿り、リアリズム俳句を検証してみたい。

二.リアリズム俳句の根源

 リアリズムの定義など最初からあったわけでなく、明治のころの小説などの写生文から発生したものだ。そもそも日本のリアリズムの概念はいつ発生したのか、江藤淳著『リアリズムの源流』と柄谷行人著『日本近代文学の起源』―「風景の発見」などを参考にみてゆくことにしたい。

 まず江藤はリアリズムは明治の文学に起因するとし、具体的に「リアリズムの定着に関する文学史的定説というものなら、それはたしかに存在する。それによれば、日本文学に最初に近代的なリアリズム理論を導入したのは坪内逍遥であって彼の『小説神髄』はマニフェストであり、『当世書生気質』はこの理論の実践である」とする。

 また二葉亭四迷の『小説総論』中の、「《模写といへることは実相を仮りて虚相を写し出すといふことなり》は、逍遥のリアリズム論の批判的深化、あるいは展開というべく(略)日本の近代小説の基礎を置いた」云々と紹介し初期のリアリズム論を展開している。その上で、子規と虚子の道灌山での応酬・「夕顔の花」論争について、「いわば虚子は、言葉が言葉でありつづけるかぎり、それは人口言語(たとえば数式や論理記号)の場合のような純粋な記号にはなり得ず、また文学者はそのような言葉(自然言語)によってしか認識をおこなえない、ということをいおうとしたのである」と言明している。

 この論に補足する意味で、背景になっている虚子の『写生趣味と空想趣味』の趣旨をみてみたいが、要点を述べれば、「写生は単にものごとを写しとることでない。ものごとにある歴史の重み、記憶の重層性を自ずと感じとるものだ」と述べたかったのである。

 要は子規は空間論的なリアリズム観を示し、一方虚子は時間論的なリアリズム観を示したのだ。虚子は時間(歴史)の概念を主張することで俳句に幅をもたせたが、子規はあくまで眼前の写生を主張した。ありのままを写すという点で虚子より写生に重点を置いたといってよいが、それは人事・社会まで意識はあったものの、いわゆる西欧的なリアリズムからは遠いものがあった。西洋画の理論は受け入れたものの、俳句のなかへ思想・哲学を表現するには限界があったということである。

 が、子規は俳句に鋭い見識をもっていた。というのは、すでに「明治二十九年の俳句界」で俳句に時間観念をみだし、芭蕉、蕪村など過去の句や虚子の句を具体的に分析している。そのうえで虚子についてつぎのように論じた。

 明治二十九年の特色としてみるべきもの丶中に虚子の時間的俳句なる者あり。例へば

の如き、又

の如きものなり。前者の時間は現在にして後者の時間は過去及び未来なり。現在は短くして過去、未来は長し。前者の如く現在の時間の接続する者を仮に名づけて客観的時間と謂ひ、後者の如く過去又は未来の時間を以て現在と連接せしむる者を仮に名づけて主観的時間と謂ふ。即ち「盗んだる」と言ひ「住まばや」と言ふは主観的時間なり。

 と論述しているが、ここでは時間の概念が明確であったことが読み取れる。時間や歴史的概念は虚子だけにあったのではない。虚子の道灌山の文は子規の死後に書かれたもので、多少の歪曲があったとみてよいだろう。

 また柄谷行人は、その著書『日本近代文学の起源』―「風景の発見」のなかで、「明治二十年代の正岡子規の『写生』には、それが文字通りあらわれている。彼はノートをもって野外に出、俳句というかたちで『写生』することを実行し提唱した。このとき、彼は、俳句における伝統的な主題をすてた。『写生』とは、それまで詩の主題となりえなかったものを主題とすることなのである」と新しい見解を開陳した。もちろん柄谷の文は俳句のリアリズムから距離をおいた文学上のリアリズム論であるが、重要な点はつぎの展開文だ。

 柄谷は同書で、近代文学のリアリズムは明らかに風景のなかで確立する。なぜならリアリズムによって描写されるのは、風景または風景としての人間―平凡な人間―であるが、そのような風景ははじめから外にあるのではなく、「人間から疎遠化された風景としての風景」として見出されなければならないからであるとし、またリアリズムとは、たんに風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない。それまで事実としてあったにもかかわらず、だれもみていなかった風景を存在させるのだ。したがって、リアリストはいつも「内的人間」なのである、と強調している。

 柄谷の「だれもみていなかった風景を存在させる」ことがリアリズムであり、リアリストはいつも「内的人間」なのだとするということで、新しい定義を展開したのだ。これは納得できる理論だが、しかしこれも日本的なリアリズムの範疇から抜けだしていないのではなかろうか。共時的な面が強調され、通時的な世界は述べられていない。つまりリアリズムに伝統や歴史という時間ベクトルがない限り写生文に動きがなく生物画・肖像画同様に静止した平板な世界を眼にすることに終始することになる。ただ『リアリストはいつも「内的人間」なのである』の論は、のちの人間探求派に通ずる視点であることから注目してよいだろう。

三.新興俳句と人間探求派

 写生を唱え花鳥諷詠を標榜した「ホトトギス」にも新たな潮流が生じた。水原秋櫻子が昭和六年に「ホトトギス」から離れ、続いて新興俳句の運動とその後の人間探求派の出現で、それまでにない俳句に固有のリアリズムが育ったのだ。その潮流を見てゆきたいが、その前に、昭和初期のリアリズム俳句はどのようなものであり、いかに発展していったか。各論者の論考を参照に検証してゆきたい。

 松井利彦は『昭和俳句の研究』(桜楓社、一九七〇年)のなかで、リアリズムの新しい運動は昭和二年に虚子が唱導した花鳥諷詠に対する抵抗とみている。六年に秋櫻子が「ホトトギス」を離反し、いわゆる新興俳句が勃興したが、やがてリアリズム運動があり、古家榧夫や東京三のリアリズム提唱に注目し、その内容の「思想的人間としての作者の自覚を一義」とし「社会的人間としての自覚」をそれまでのリアリズムと異なったものとみた。

 また川名大は『昭和俳句の検証』(笠間書院、二〇一五年)の論述のなかで、「昭和十年頃から勃つた現実主義(リアリズム)運動(即ち生活俳句運動)は、近代主義運動が俳句を純粋詩として高めやうとした運動とちがひ、俳句を現実生活の詩として高めやうとした運動でありました。従ひまして、それは、何等かの意味で社会に於ける生活や意識や思想の問題を関連させなくてはならないと云ふ目標を大切な目標といたしました」と分析し、このあとにモダニズム運動とリアリズム運動をわけてそれぞれ述べているが、リアリズムを「俳句を現実生活の詩として高めやうとした運動」と捉えていることは、大いに参考にしてよいだろう。

 やがて日本は日中戦争などを機に戦時下にはいり社会の様相が一変するが、そうした時代を背景に新たな俳句がみられるようになった。戦火想望俳句や銃後俳句と呼ばれるものである。具体的な句を少し挙げてみよう。

いずれも新聞や映画などの報道写真からの連想だが、それなりにリアル感がある。しかし反戦、厭戦の感情はなく時勢にのった表現で終わった。

 さて、リアリズムの観点から新興俳句と人間探求派の俳句の意義はいかなるものであったかを、岡崎万寿は『転換の時代の俳句力』(文學の森、二〇一五年)のなかで、つぎのように述べている。「私が新興俳句運動におけるリアリズムを強調するのは、正岡子規以来の俳句革新の歴史を見ると、その本流に、必ずリアリズム精神の高揚をみるからである」とし、新興俳句の俳人たちは、「俳句で『何を詠うか』という主題の自覚が深まり、それを『どう詠うか』という単に手法だけでない方法論の模索へと進んだ」とし、時代と生活にリアルな眼を向けた作品、および俳句のリアリズムをめぐる評論が目立つようになったとする。これは松井と同様に新興俳句に新しいリアリズムを見出していることが理解できよう。

 また岡田は人間探求派に関心を示し、『内的リアリズム』の考察を披瀝している。つまり、「人間探求派が自分自身の、内面の世界を直詠する内的リアリズムを追求しつつ、それに裏打ちされた真のリアリズムの方向を示したことである」と記述しているが、重要なことは、岡田が人間探求派に内的なリアリズムを指摘していることだ。そして次のような句を紹介している。

 これらはリアリズムというより心情の吐露に近いが、写生句とは違った内面リアリズムの表現とみてよい。

 戦局が進むにつれますます言論統制が強まったが、一方で戦場を背景にした俳句が出現する。ここでは戦場の経験のある長谷川素逝の作品をみてみよう。

 これは「ホトトギス」の巻頭になった句であるが、句の眼目は「銅貨散り」である。雪の上に日本軍にやられた敵の死骸が転がっている。大事にしていただろう銅貨が血染めになり散らばっていたという情景だ。作者の眼は死骸から銅貨、銅貨から死骸へともどり、しかも作者とそれらのベクトルは行き来する。

 句集『砲車』一九三九年刊からもう一句、

 敵死ではなく敵屍である。屍と表記することで、死からの時間が経過していることを表し死ははっきりした死体という存在に変化した。「車輪にかけ」が冷酷な表現であるが、死体を単なる物とはみていない。感情が通っている。ひょっとしたら、屍体は車輪にひかれるとき、体ごと揺れたにちがいない。

 他の俳人にも戦場を題材にしたリアリズム俳句がみられたが、日常的な俳句は国家の圧力などで表現は弱体化されることになる。

四.新感覚の俳句

 ポツダム宣言受諾という形で日本は終戦を迎えた。国民は混乱のなかでも安堵感と冷静さを取り戻しつつあった。そんななかいち早く口を開いた俳人たちがいる。

 いわゆる「焦土俳句」として、

 また石田波郷の、

など日常生活を詠った句もみられるようになり、他の句も客観的に社会を捉えている。そんななか、それまでになかった動きがあった。山口誓子の「天狼」を中心とした根源俳句、沢木欣一の「風」からおこった社会性俳句や前衛俳句の波は戦後の復興と民主化のなかで活力あるものとなった。これは本来の人間生活や社会を目指すもので、それまでにない新鮮なリアリズム俳句がみられた。

 ここで戦後の解放感から出現した俳句から昭和三十年半ばくらいまでの、とくに新感覚のリアリズム俳句を検証したい。まず終戦直後に逸早く俳句活動を始めた俳人たちであるが、おもに西東三鬼、平畑静塔、右城暮石、堀内薫にまじり紅一点の橋本多佳子が中心になり奈良の日吉館に集まった。定期的な合宿に近い真剣な句会であったが、そのころの多佳子の句に、

などがある。これらは三鬼の絶賛した句であるが、それまでにない新感覚のリアリズム俳句といってよい新鮮さがある。ともかく作者の向かう視線が動的であり向きをもっている。表現のベクトルを読み手と共有できるのである。

 やがて三鬼たちは山口誓子を指導者として迎え「天狼」(一九四八年)が発足した。誓子は創刊号の「出発の言葉」で、「私は現下の俳句雑誌に、『酷烈なる俳句精神』乏しく、『鬱然たる俳壇的権威』なきを嘆ずるが故に、それ等欠くるところを『天狼』に備へしめようと思ふ」と表明し、その見本となるべき同人の作品について「俳句のきびしさ、俳句の深まりが、何を根源とし如何にして現るゝか」を示すことを求めた。

 根源俳句とされる作家から例をあげると、

 一つの棒が挿されている情景で藁塚の存在が浮き上がってくる。何かに「挿さる」という危うさがある。つまり挿されている棒を出現させることで、ものである藁塚を実存せしめたのだ。挿さった状態は静止だがベクトルの力も方向もある。

 炎天下で牛は赤牛となり、ついには声となったというのか。牛↓赤牛↓声とベクトルは連結的に働いている。つまり牛は声となって炎天に溶けて消える。このとき作者自身も声とともに消え去るのだ。こんな風に俳句にベクトル(志向性)もった動的なリアリズム俳句の出現をみたのである。

五.もう一つの潮流

 さて戦後まもなくに、リアリズム俳句にもう一つの流れがあった。それは新俳句人連盟の俳人たちを中心に、リアリズム俳句を標榜する一派であった。

 昭和二十一年、新興俳句系の俳人と戦時中に弾圧をうけた俳人たちで新俳句人連盟が結成されたがまもなく分裂し、一部の俳人は現代俳句協会を結成した。そんな時流のなかで、リアリズムにこだわったのは新俳句人連盟の俳人たちに多かった。評論も盛んで、石塚真樹や山口聖二、また古沢太穂などが活躍した。

 なかでも赤城さかえは熱心なリアリズム論者だったので、まずは赤城のリアリズムの定義をみてみたい。『赤城さかえ全集』にある「俳句リアリズムと社会性の問題」(一九五七年、『俳句』七月増刊号)の論を概観すると、「戦後の俳句は、俳人大勢が自然随順の位置から俳句の主人になり、人間主体派の生活俳句へ移ってしまっている」、そして「戦後十年の俳句の歩みの中でリアリズムの成長、発展があった」と強調し、「戦後の俳句がリアリズムに始まったということは、主として戦後という特殊な条件に負うところが大きい」としている。さらに、「戦後俳句の再建がリアリズムの成長を基調としておこなわれた」が、「そのリアリズムは文学論以前の『生き方』に発したものであり、自然、思想的であるよりは、本能的、生活的であり、方法的であるよりは体験的であり、社会的であるよりは個人的であり、写実的であるよりは諷詠的であった。いわば生き方の現実主義を基調としたものであった」と述べている。この文学以前に『生き方』があるとの論は市民の立場に立った生活のリアリズム論でもあった。

 が、昭和三十(一九五五)年中ごろより革新的な勢力が台頭した。その先鋒として、金子兜太の造形六章が昭和三十六(一九六一)年に角川の『俳句』に掲載され、造型論の論議が高まったことである。この造型論の見たものを創りなおすという句作法はリアリズム表現の新しい手法の一つとして注目された。

 さらに森澄雄や飯田龍太、あるいは高柳重信などが登場し、それぞれ個性ある存在感を示した。しかしながら、一方では依然として開放的で自由な精神を示したリアリズム俳句は影を潜め、依然一部の俳人の活動はあったものの次第に勢力を弱めていった。

 ではなぜ日本にリアリズム俳句が根付かなかったのか。そもそも東洋思想と西洋思想の土壌の違い、すなわち東洋思想の影響の大きい日本と西洋の写実の方法には根本的に異なる面があったからだ。日本には人間と自然を一体と見る根強い思想があり、古くは芭蕉に「造化にしたがひ造化にかへれ」のことばがあるが、俳句・短歌の革新を目指した子規は、眼前の自然に自己を同化させ自然の語りだす原理・方法を目的に句作を勧めた。

 他方で西洋のリアリズムは人間を自然と別個に考える。芸術や文芸にも実験や解剖までやるなど、徹底的な写実の追究をして人間や社会のありのままの描写をめざしたが、日本にはそうした手法は希薄だった。

 なぜリアリズム俳句が埋没したかであるが、視点をかえて考えてみたい。平井照敏編『現代の俳句』(講談社学術文庫、一九九三年)のあとがきに当たる部分で、平井は俳句を律する二要素に詩と俳(新と旧)があり、その二因子の相克によって、近代の俳句史が展開してきたとし、昭和三、四十年代は詩の時代であったという。その二因子の相克とは、詩(文学、芸術などを含む。俳句を新しいものに変えようとする欲求)と俳(伝統、守旧、俳句性)の相克であるという。その視点でいえば、昭和四十年代から平成期に入ってからもなお「俳」の時代だったとする。

 平井は若手の夏石番矢、長谷川櫂、岸本尚毅やその後継者として大木あまり、千葉皓史、田中裕明などに注目するが、夏石は別格として総じて「俳」を求めた時代、「俳」を復権させた時代とみた。つまり写実からもリアリズムからも遠ざかった、いわば伝統派への回帰ということである。そうしたうえに、さらに若い世代がことばによることばの俳句を作る時代になったと指摘する。

 その視点からみると、平成になって支持を得たのは「俳句詩」であろう。その論の根拠としてあげたいのは、角川学芸出版かされている『俳句』(二〇一二年七月号)である。そこでの特集は「平成の名句六〇〇」という企画で、俳人二十人が三十句ずつ「平成の名句」を選ぶというものだ。女性俳人が目立ち、選ばれている俳人と句もかなり重複しているが、ある程度の概観をつかむ参考になろう。

 例えば次のような句だ。

 これらは写生からは遠いだけなく社会性も薄く、日常の感覚から詠った新時代の「俳句詩」である。先ほどの平井の詩と俳の分類によれば、詩の時代の継続ということになる。

 さて、平成になり日本はバブル景気が弾けバブル崩壊の時代となった。そんな経済の混乱のなかで起きたのが一九九五年の阪神淡路大震災であった。さらに二〇二一年の東日本大震災だが、これらの震災は被災地の生活や経済に大きな影響を及ぼし、また二〇二〇年に日本にも感染者のでた新型コロナウイルスはいまだその影響下にある。このような社会情勢を俳人はどのような態度をとり、俳句はどのように発信されたかつぎにみてみたい。

六.震災と新型コロナウイルス

 災害国日本は多くの自然災害に見舞われたが、なかでも一九九五年一月に発生した阪神淡路の大震災は日本中を震撼させた。まずそれに関する二人の俳句を見てみたい。

 永田耕衣の句

 友岡子郷の句

 これらに共通しているのはリアリズムというより感情を抑え、客観的に詠っていることである。しかし読者は句から作者の怒り悲しみを読み取ることになる。

 もう一句、山田弘子(『春節』一九九五年三月)を加えたい。

 鎮魂かそれとも復興と復活を願う人々の姿だろうか。

 それから一六年目のこと、二〇一一年の東日本大震災はまたもや大きな衝撃を日本に与えたが、俳句という短詩に震災や被災生活をいかに表現するかが課題になった。多くの俳句が発表されたなかから何句かみてみたい。

 これらは、角川の『俳句』(二〇一一年五月号)その他から特に印象に残った句を抜粋した。当時雑誌等に掲載された震災俳句には現場を見ずにテレビや新聞などの映像や報道から作句したと思われる句が多かったが、ここに掲げた五句は東北に在住か被災地を故郷にもつ俳人の句だ。それゆえ実感があり、感情を抑えつつも単なる写生でないリアリティーのある表現に心打たれる。

 『俳句αあるふぁ』(二〇一八年秋号)の鼎談(宮坂静生・長谷川櫂・津島康子)のなかで、宮坂は震災後の俳句の変化を指摘し、「今まであまり意識しなかった不安」があると述べ、長谷川は震災俳句は「現代の無常観」から生まれたとし、照井翠の句、

をとりあげて、この句は震災の経験を詩的に昇華させたとした。また津島は直接震災を体験していない俳人の句もあるが、深い死生観が感じられる句なら共感できるとした。

 おなじ、『俳句αあるふぁ』のなかで、震災などの体験しなければ俳句にしてはいけないのかについて三人とも疑問をもち、長谷川は想像力を強調し、対馬は想像力あってこその俳句とする。要は体験者でなくともイメージで句作できるとするが、宮坂はそれらに同調しながらも、想像力の独りよがりを警告している。これは現今でも問題になっていて重要なことであるが、作者の思想や態度の問題ということになろうか。

 

 終りにあたり、コロナ禍における通信句会やネット句会と今後を考えてみたい。二〇二〇年に新型コロナウイルスの感染が世界中に蔓延し、現在もその影響下にある。それは経済だけでなく日常生活に自粛や抑制が生じ、俳句界にも変化が見られるようになった。対面の句会が中止されると、従来の紙を媒体にした通信句会に加え、パソコンやスマホなどを使ったメール句会やズーム句会などがそれに代わったことだ。

 そうした通信句会やネット句会が盛んになることに異存はない。内容も写生句でも象徴や想像句でもよい。が、やはり力強さを感じるのは写生に基づいたリアルな句だ。そこにはリアリズムが直截的に表出されていなくてよいが、作者の思想・哲学が内在し、作品に実感・体感を感じる句が望まれよう。

 俳句の基礎的な学習や訓練をうけた戦後生まれや平成の新進俳句作家がもてはやされるさなかで大震災があり、そして百年に一度といわれる新型コロナウイルスの猛威の時代に直面して、それをどう表現するかがいま問われる。が、いままで俳句に体を震わせるようなリアルな俳句に出会っていない。

 もちろん実態の知らない新型のウイルスということで世界は混乱に陥り、自粛生活が強いられる環境では社会がみえない。が、そうした状況でもコロナ禍に関する俳句が量産され特集まで組まれたりした。当初は漠然とした恐怖感と不安感であるが、徐々に生活に変化があらわれ緊張感が露わになる。やがて自粛の諦念が不満へと変わる。ここでは主に角川の『俳句年鑑』などを参照に紹介する。

 

 二〇二〇年の俳句

 テレビや新聞などで感染防止の注意を呼びかけ、医療現場の混乱などが報道され事態の深刻さを警告したが、俳句界には写実的な句はあまりなかった印象がある。当時身近に感染者や死亡者がまだでてなかったこともあろう。

 

 二〇二一年の俳句

 

 このなかで感染者はマブソン青眼だけである。が、ここでも短詩形という制約からか、前年同様に社会情勢やコロナウイルスの恐怖への言及はない。

 マスコミなどで連日医療現場、ワクチン接種率、感染者や死亡者が発表され、一方で生活に影響する飲食店やサービス業の営業停止や短縮などが報道されたが、大震災のように視覚などで実感できないのか俳句表現も第三者的であり実感が伴っていない。結社誌なども句材はマスクやワクチン、自粛やパンデミックなど身近なものが多い。肝心の感染者や医療関係者の俳句はこれからなのだろうか。

 もちろん吟行もリアル句会もままならず、今まさに新型コロナウイルスの猛威に曝されている時勢であるから止むを得ないことだろうが、単にコロナ禍という報告や説明、主観の吐露に終わらないリアルな俳句があってもよいのではとの願望と期待はある。『俳句αあるふぁ』で議論されたように、被災体験がなければ句作は不謹慎なことで、マスコミの報道に頼って実際に目にしなければ作句はすべきでないのか。そうした震災やコロナ禍での句作態度などの課題はコロナ終息後の正常な生活を迎えたときに、リアリズム俳句とはなにかを含め改めて検証してみたいと思う。

(完)

受賞のことば

 この度は思いがけない評論賞いただき、誠に光栄のいたりです。まずもって選考委員の方々にお礼申し上げます。

 俳句を習うと写生・デッサンを叩きこまれます。それは当然なことですが、やがて刺激がなくなると新味のない句になります。

 リアリズムに共感をもったのはヤコブソンの「未来主義」の文に接したときでした。主に絵画の写生について述べたものですが、マンネリ化への警告でした。これは俳句にも言えることで、たんなる写生や写実でなくもっとリアルな俳句でなくてはと思案はしていたものの、それまでは俳句の性質上なかなかリアリズム俳句に出会いませんでした。そもそもリアリズム俳句の定義など曖昧だったからです。

 文学でもヨーロッパの思想をとりいれたいわば社会主義的なリアリズムがありましたが、戦後に赤城さかえが盛んにリアリズム俳句を唱えました。しかし、おもに新俳句人連盟の作家に散見されるのみでした。もちろんリアリズム俳句といっても、あからさまに思想や哲学を盛り込むのは邪道になりますが、態度だけは心がけたいものです。

 今後は俳句のリアリズムにこだわることなく俳句の面白さを求めてゆきますが、やはり基本路線はリアリズムの探究が重点になりそうです。