2025年2月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の炎
- 泉義勝が、句集『つぶやきの』を百年書房より2025年1月に刊行。序文を石寒太主宰が「プラス「の」考」と題して認め、〈義勝さんによると、「この句集は、自分を映す“自分史”である」という。この句集「つぶやき」の題を電話で聴いたとき、私はいかにも義勝さんらしいな、というかむしろ似合いすぎる。…そう思った。でも、「まてよ」と再考した。というのは、このごろ若い人を中心に巷のX(旧ツイッター)やらSNS上で、やたらにこの「つぶやき」のことばが飛び交っている。つまり、そんな流行語と同じ風に義勝さんの句集が受けとられたとしたら、むしろ彼の意図した気分とは、少し異なってしまうのではないか、私はそのことの方を心配しはじめたのだ。そこで、「つぶやき」にひとつ、「の」を加えることを提案した。そうすると「つぶやき」はそのままでも、ことばに余情が出て、そこにもう少し義勝さんらしさがあふれ出て、もっと彼の積極性が明らかになるのでは、そう思って「つぶやきの」という題名にした。文学的表現の特質は、単なる明晰さよりも、むしろ多義性、あいまいさを志向する方が、俳句らしい余韻が表出するのではないか、そう私は思っている。「の」が付いたのは、そんな思いからなのである〉と紹介。
- 田島健一が、365日入門シリーズの一冊として『平成の一句』をふらんす堂より1月17日に刊行。あとがきに〈本書は平成期に詠まれた、あるいはその時期に発表された俳句作品について一日一句、一年三六五句を鑑賞したものです。同時に、一人でも多くの俳人に登場していただきたいと考え、一日に一人、一年三六五人の俳人を取り上げました。「多様性」という言葉は、いま最も重要なキーワードとなっています。「多様性」とは、何ものかによって選ばれたものが複数ある、という意味に留まらず、むしろひとつの大きなグラデーションのように、無数の異なる属性のものたちが、時間的にも空間的にも無限に広がっていることを示しているのです。昭和期には「俳句の本質」ということが言われました。俳句を俳句たらしめるたった一つの「本質」があると信じられてきました。昭和期の「たった一つの本質」を求める時代から、令和期の「無限の多様性」が求められる時代への変遷の中で人々の真理は複数化しました。平成という時代はいわばその間の架け橋のような時代で、言い換えれば、人々がそれぞれの信じる真理を生きた時代だったと言えるかも知れません。本書は、そうした平成期に書かれた作品をまとめたアンソロジーです。これらの作品は、一句としての表現のみならず、それを書いた俳人たちの経験と個々の俳句観のなかから生み出されたものでした。本アンソロジーは、そうした個々の真理の集合体でありながら、今なお俳句という全体像に「俳句以上」の無限の可能性が拓かれていることのささやかな証左となるのではないでしょうか〉と記述。
- 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)2月号「四季吟詠」
・二ノ宮一雄選「佳作」〈図書館の窓から探す無月かな 奥野元喜〉
・秋尾敏選「佳作」〈金木犀巨体を揺らす人力車 松橋晴〉
・秋尾敏選「佳作」〈林檎剝く妻の笑顔を留めんと 森山洋之助〉 - 総合誌「俳句界」(文學の森)2月号「投稿欄」
・辻桃子選「特選」〈椋鳥騒ぐ樹下を夜勤の男ゆく 小野久雄〉=〈黄昏時、都市の街路樹におびただしい数の椋鳥が鳴いている。その木の下を一日の仕事を終えた人々が家路へと通り過ぎてゆく。彼らに混じってこれから夜勤に向かう男がいる。ややうつむきかげんの孤独な表情が目に浮かぶ〉と選評。 - 産経新聞1月16日「産経俳壇」
・宮坂静生選〈恋をして便秘となりぬ隙間風 谷村康志〉 - 東京新聞1月19日「東京俳壇」
・石田郷子選〈寒柝や記憶の底の貰ひ風呂 谷村康志〉 - 毎日新聞1月20日「毎日俳壇」
・片山由美子選「一席」〈電飾を外され裸木となりぬ 谷村康志〉=〈葉を落とした木々に電飾が施されていたのではあるが、それを外されたことで、ようやく植物としての姿に戻れたのだ〉と選評。 - 読売新聞1月20日「読売俳壇」
・高野ムツオ選〈年の湯や働きづめの招き猫 谷村康志〉 - 産経新聞1月23日「産経俳壇」
・宮坂静生選〈頻尿をからかふ声は雪女郎 谷村康志〉 - 日本経済新聞1月25日「俳壇」
・神野紗希選「一席」〈星々の囀る無韻除夜の鐘 谷村康志〉=〈星々の瞬きを無音の囀りと捉えた。詩的な発想が宇宙にも命を漲らせる〉と選評。 - 産経新聞1月30日「産経俳壇」
・宮坂静生選〈愛犬に尽くす余生や息白し 谷村康志〉 - 日本経済新聞2月1日「俳壇」
・横澤放川選〈軍艦の見える朝市冬ざるる 谷村康志〉 - 日本経済新聞2月8日「俳壇」
・神野紗希選〈とん汁の余熱の記憶阪神忌 谷村康志〉 - 東京新聞2月9日「東京俳壇」
・石田郷子選〈公園の落葉のためのベンチかな 谷村康志〉 - 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)2月号の特集「選ばれない言葉たち」の総論「言葉の取捨選択の「捨」」を岡田由季が執筆、「捨てる神、拾う神」と題して、〈今回のテーマ「選ばれない言葉たち」は一句を整えるときに捨てるのではなく、俳句実作者が自分の句を作るときいつも「選ばない」、つまり自分の句の世界には相応しくないとして除外する特定の言葉たちのことだ。ふと浮かんだ句や、心惹かれたものから嘱目で作った句には、「選ばない言葉」ははじめから登場しないように思う。そこで、題詠の際の語の選択に着目してみる。漢字一字の題が出題される句会によく参加する。ある日の題の一つは「用」だった。「用」のつく言葉で、まず使い易そうなのは「用水路」「用具室」「用紙」「用務員」など実体のある名詞だ。「用」を訓読みして「用いる」とする方法もある。「費用」「利用」など、実生活ではよく使うが、実用的すぎてあまり詩的でない言葉がある。しかしそういう言葉を工夫して句の中に自然に馴染ませるのは腕の振るいどころであるし、まれに面白い句ができることもあるので、私はそういう「詩的でない言葉」は積極的に取り入れる方である。昔携わっていた仕事に関係する言葉で「汎用機」という言葉も思い浮かんだ。大型コンピュータのことだ。私にとっては記憶と結びつきそれなりの情感をもたらす言葉なのだが、通じる人が限定されそうなのでおそらく選ばない。排泄を意味する「用を足す」もある。これはおそらく私は俳句には使わない。排泄に関する言葉の他、性的な言葉もめったに使わない。また、骨や筋肉や臓物の名を含め、身体の部位の名前はよく使うが、「乳房」「子宮」など女体を象徴する部位の語は、ほぼ使ったことがない。季語の題についても考えてみる。マイナーな行事などで全く実態を知らない季語がある。それらも出題されれば作句するだろう。最近はネットで説明や動画を見ることも可能だ。しかしあまりにも体験や知識が少ないと、句ができたとしてもそれが良いかどうかの判断も難しい。自分の作品として残すために、というよりは、ただ言葉のトレーニングのために句を作るような感じだ。心理的に抵抗があるのが戦争に関する季語だ。「終戦日」「原爆忌」など出題されると困ってしまう。メッセージ性の強い句は自分の作風に無いし、かといって日常的な事物をそれらの季語と取り合わせて即一句としたりするのは安易に思えてしまう。他の場合には安易な句を作って別に心は痛まないが、戦争に関する季語だと抵抗を感じる。季語以外でも、戦争関連の語は使用が難しいと感じ、災害であったり、自分に経験のない病気や不幸などに関連する語にも躊躇があり、政治的な言葉も難しい。これは作句上のテクニカルな問題ではなく、生身の自分の感覚の問題である。しかし逆に、それらの語を積極的に使い作句する方が自身の表現にとって誠実だと感じる人がいることも理解できる。やはり個人に依存する問題なのだろう。こうしてみると、自由に言葉を選んでいるようでも、「選ばない言葉」というものはあるものだ。流行語など新しい言葉を俳句に取り入れることに慎重な人もいるし、カタカナ語を嫌う人もいる。「選ばない言葉」にはその人の作句の方向性が表れる。自作に対しての「選ばない言葉」はそれぞれの個人にあるとして、他者の俳句を読むとき、選句のときにはどうだろうか。自分が「選ばない言葉」を使った俳句は、やはり自分の句とは方向性が違うから、それが読みに全く影響しないとは言い切れない。しかし要はその使われ方だ。自分では選ばない言葉が一句の中で生かされ、新鮮さを感じさせてくれるとき、そこには読む喜びがある。俳句に使ってはいけない言葉など無いが、その作者の個性により、生かせる言葉、生かせない言葉はあるように思う。その差異を尊びたい〉と論述。