2024年11月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の軸
- 総合誌「俳壇」(本阿弥書店)11月号の特集「歳時記の世界」に石寒太主宰がエッセイを寄稿し、「歳時記の曲がり角」と題して、〈いま、歳時記はひとつの曲がり角にさしかかっている。それは内容と形式(かたち)の両面の問題がある。まず内容。季語のことである。四季折々の風土・暮らし・行事・動植物が、いまある歳時記の分類と違って来つつあることである。もうひとつは歳時記のかたち。いまはまだ紙媒体(本)の歳時記が主体であるが、ITが先端を行く時代となると、電子メディアの歳時記があらわれてくる。私は、歳時記に関しても少し柔軟に考えてみる必要に迫られていると思う。内容もその形式(かたち)もいろいろあっていい。新しい時代に合った歳時記の登場、それがいま緊急に編まれるべきだと思う。それを利用する人々は、自分の用途に合わせてそれを選択する。そういう曲がり角に、いま来ている〉と述べています。
炎環の炎
- 「第70回守武祭俳句大会」(俳祖守武翁顕彰会・三重県伊勢市)が応募約2,000句から10名の選者により、大宮司賞・伊勢市長賞・俳祖守武翁顕彰会長賞・中日新聞社賞他の各賞と各選者の天・地・人・秀逸5句・入選10句を決定して、9月15日表彰。
○「おはらい町賞」〈流氷の彼方に北方領土の灯 鈴木経彦〉=宮田正和選「地賞」、石井いさお選「入選」
・山本比呂也選「秀逸」〈特攻の墓に湯気立つ薺粥 鈴木経彦〉
・石井いさお選「秀逸」〈米兵と炭坑節舞ふ盆踊 鈴木経彦〉
・谷口智行選「入選」〈介護士と走るびりの児運動会 鈴木経彦〉 - 「第35回お~いお茶新俳句大賞」(伊藤園)が応募総数1,889,582句(小中高生等を除く一般の部は125,014句)から9名の審査員(浅井愼平・安西篤・いとうせいこう・金田一秀穂・神野紗季・夏井いつき・堀田季何・宮部みゆき・村治佳織)により大賞・優秀賞・審査員賞・後援団体賞・都道府県賞・佳作特別賞など入賞2,000句を決定して、10月9日ホームページにて発表。入賞の2,000句は市販の「お~いお茶」パッケージに掲載。
○「後援団体賞(NHK文化センター選)」〈嘘ついてゐさうな顎の鮭をりぬ このはる紗耶〉 - 「第42回東京多摩地区現代俳句協会俳句大会」が現代俳句協会関東各県の代表を選者として、大会賞1句、入賞20句を決定して、11月4日発表。
○「入賞」〈たまごかけごはんの宇宙今朝の秋 谷村鯛夢〉=前田弘選「特選」。 - 「第14回百年俳句賞」(マルコボ.コム)が、44の応募作品(1編50句)から優秀賞4編・入賞4編・佳作4編を決定して、「100年俳句計画」11月号に発表。
○「入賞」内野義悠作「ふところへ」50句 - 「第8回新鋭俳句賞」(俳人協会)が70ほどの応募作品(1編30句)から16編の候補作品(倉持梨恵作「輪郭」・前田拓作「胸に針」を含む)を選出し、その中から10月27日の選考会にて正賞1編、準賞1編を決定。
- 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)11月号「四季吟詠」
・山本鬼之介選「佳作」〈百歳の住職の座す夏座敷 森山洋之助〉
・秋尾敏選「佳作」〈水しぶきまたくぐり来てまた灼かる 田辺みのる〉
・秋尾敏選「佳作」〈草田男忌三台回る扇風機 松橋晴〉 - 総合誌「俳句界」(文學の森)11月号「投稿欄」
・角川春樹選「秀逸」〈片陰に車列の眠る昼下がり 森山洋之助〉 - 新潟日報9月2日
・中原道夫選〈地獄には知り合ひばかり昼寝覚 鈴木正芳〉 - 新潟日報9月8日
・津川絵理子選〈催吐処置葡萄を誤食せし犬に 鈴木正芳〉=〈犬が葡萄を食べると中毒を起こすという。「催吐処置」「誤食」の漢語が緊急性を感じさせる〉と選評。 - 読売新聞9月10日「読売俳壇」
・矢島渚男選〈前日に焼かれし故郷終戦日 岩村千恵美〉=〈原爆が投下された後、地方都市への焼夷弾の投下が相次いだ。住民の運命はたった一日で分かれた。戦闘員一人一人にもそうであった〉と選評。 - 新潟日報9月16日
・津川絵理子選〈立秋の稜線心電図戻る 鈴木正芳〉 - 読売新聞10月14日「読売俳壇」
・高野ムツオ選〈雨止んで真鶸の声に紛れなし 谷村康志〉 - 産経新聞10月17日「産経俳壇」
・対馬康子選〈虫の音や貰はれてゆく桐箪笥 谷村康志〉 - 日本経済新聞10月19日「俳壇」
・神野紗希選〈オカリナの音は桃色桃すする 谷村康志〉=〈オカリナの柔らかく甘い音を、色ならば桃色だと捉えた。聴覚から視覚、味覚へ感覚が広がる〉と選評。 - 朝日新聞10月20日「朝日俳壇」
・高山れおな選「一席」〈満月の産み落としたる赤子かな 渡邉隆〉=〈満月の夜に子が産まれた。生命の輝きは満月そのもの…と素直に読んだが、大河ドラマの気配も?〉と選評。 - 産経新聞10月24日「産経俳壇」
・宮坂静生選〈生き様も指も不器用障子貼り 谷村康志〉 - 毎日新聞10月27日「毎日俳壇」
・西村和子選〈月の宴終ひて独り月を愛づ 谷村康志〉 - 読売新聞10月30日「読売俳壇」
・小澤實選〈仏壇にウォッカ一杯月今宵 谷村康志〉 - 日本経済新聞11月2日「俳壇」
・横澤放川選〈袖に這ふ菜虫許して野良仕事 谷村康志〉 - 毎日新聞11月4日「毎日俳壇」
・井上康明選〈散骨の山を彼方に吊し柿 谷村康志〉 - 産経新聞11月7日「産経俳壇」
・宮坂静生選〈嗚呼母よ黄泉路もさぞや台風裡 谷村康志〉 - 総合誌「俳句界」(文學の森)11月号の特集「俳壇タイムスリップ」に田島健一が1946年の「桑原武夫「第二芸術」論の衝撃」を担当して寄稿、「「俳句とは何か」を問い直す」という副題のもと、〈およそ八十年後の現在、改めて「第二芸術」を読み直してみると、むしろ俳句について論じる桑原武夫の反応にこそ、俳句にもともと備わっている固有の伝達機能の効果が表れているように思われます。それは、彼が期待する等価交換的な伝達が俳句においてはなされないということ、そして書かれた俳句を境に、書く主体に対する読み手の絶対的な遅れ、それこそが俳句の読みを促す、という俳句の特殊な性質です。つまり、「第二芸術」やそれをめぐる一連の論争は、多くの関係者がそれぞれの俳句観を論じることで「俳句」の多様性を明らかにする議論であったと同時に、そのような論争全体が「俳句」という言語構造の内側で、まるでそれに導かれるようにして行われた実に俳句的な行為だったと言えるでしょう〉と論述。
- 総合誌「俳句界」(文學の森)の連載「俳人の本棚」を今年一年担当している田島健一が、11月号で取り上げた本はジャック・デリダ著(林好雄訳)『声と現象』。〈俳句では習慣的に「俳句を詠む」と言う。けれども実態は、多くの俳人が句を句帳に「書き」、句会では投句された句が「書かれ」、多くの俳句は「書かれた」句集として編まれている。俳句は「声(詠む)」なのか「文字(書く)」なのか。これは今も深みのある論題である。例えば多くの俳人が思いついた句を句帳に「書く」のは、書かなければ忘れてしまうからだ。句帳に書く前に、書くべき「句」があり、それを忘れないために「書く」。一方で書かれた句は推敲され、何かが削られたり書き足されたりする。それによって句には書かれる前には存在しなかった「何か」が付与される。では、そこで付与された「何か」とはいったいどこから来たのか。忘れられないために書かれたはずの句が、書かれる前には存在しなかったものを呼び寄せる。その不思議と歓びが、「俳句を書くこと」の中にある。こうした構造は一句一句を書くということ以上に、「俳句」そのものが書かれることについても大事な視点を与えてくれる。いま私たちが「俳句」と呼ぶものは、これまでの俳句史において「俳句」として書かれてきたあらゆる句の堆積以上のものである。これから「私」が書く「次の一句」は、これまでの「俳句」の歴史のなかでは書かれなかった(はずの)一句である。にもかかわらず、それが「俳句」として書かれるのは、それが「俳句」としての所与の条件を過不足なく備えているからではなく、「俳句」を「書くこと」が呼び寄せる過剰な「何か」が、その「書かれたもの」を遡及して、「いま・ここ」に「俳句」として登記するからだ。デリダの考察は、私たちが「次の一句」を書くために必要な勇気を与えてくれる。俳句を「書くこと」は、そこで書かれたことによって、書かれなかったことを封じ込める。「書くこと」は失われることでもある。書くことの秘密――それは、「書かなければ忘れてしまう。書けば失われてしまう」ということだ。そこで失われたものこそが、書かれた俳句に再び現れようとする。それこそが、「俳句」の欲望なのである〉と論述。
- 朝日新聞10月13日の歌壇・俳壇面のコラム「うたをよむ」にて、執筆者の上野佐緒氏が「俳句は庶民の詩」と題して、例句3句の一つに〈非正規は非正規父となる冬も 西川火尖〉を取り上げ、〈子が生まれるという喜びと、非正規労働者という不安定な立場で子を育てる不安や自嘲の入り交じった感慨が詠まれている〉と鑑賞。