2015年10月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の軸
- 総合誌「俳句界」(文學の森)に石寒太主宰が連載中の「牡丹と怒濤――加藤楸邨伝」。10月号は「第31章 「第二芸術」論の波紋(八)」。前章(9月号)の最後で予告のあったとおり、本章では今井聖氏の「「第二芸術」論が忘れた子規」という論考を、抜粋して紹介しています。この論考は、「炎環」20周年記念号(2008年1月)に掲載されたもので、文章は以下のように書き出されています(この部分は、本章では省略されている)――
「「第二芸術論終結」
俳句雑誌「炎環」がなぜ今こういうテーマの特集を組んだのかをまず考えてみた。
第一に思ったのは、主宰である寒太さんの出自である。
寒太さんも僕も加藤楸邨に俳句を教わった。
楸邨は俳句表現を「文学」(芸術)たらしめんとした俳人。彼の俳人としての生涯はその目的に尽きるといっても過言ではない。
楸邨のいう「文学」がどのようなものだったかを探り、それを自己のうちに生かそうとするのは、楸邨の求めたところを求める俳人としては自らの在り方に関わる根幹の部分である。
「第二芸術」論の中で説かれている「俳句の非芸術性」を今一度検証することは、加藤楸邨の「芸術性」を相対化させ、ひいては寒太さんや「炎環」の句作りの指針をあらためて確認し見直す契機につながる。」
――今井氏はこの論考において、まず、桑原論から15の論点を抽出して列挙しました。寒太主宰の本章はその部分から始まります。今井氏は、それら15の論点は二つの要旨に大別される、すなわち、「俳人の作家意識の低さからくる俳句形式の限界」と、「当時の表現内容からくる俳句形式の限界」。「俳句形式の限界」とは、〈卑俗な世界しか描けぬ形式〉ということで、〈桑原論の二つの要旨のうちの俳人の態度に向けた発言は今日も不変の「現状」である〉と、「俳人の作家意識の低さ」については今井氏も否定しません。しかし、一方、「当時の表現内容からくる俳句形式の限界」という見解には、「結論の性急さと安直さ」があり、それは桑原が「子規をちゃんとみていなかった」からだとして、ここから「桑原が忘れた(見落とした)子規」という本題に入ります。子規は俳句に「視覚的描写」という意味での「写生」を導入し革新をはかった。ところが虚子は、その「写生」を「古典的情趣」にすり替えて限定し、俳句を大衆化させた。それが俳句の「表現内容」だと見た桑原は、俳句は〈卑俗な世界しか描けぬ形式〉と安直に結論を出した。桑原は一方で、芭蕉の天才を認めている。芭蕉は「他のジャンルからの精神を俳句形式に導入して俗化を逃れた」と言及しているが、この点では子規の「写生」も同じではないか。それなのに桑原は、子規についてはお座なりにしか触れておらず、「ちゃんとみていない」と今井氏は説いています(ここまでの部分、本章では省略)。そして、本章に紹介されているように、今井氏は、〈第一に、そのときその瞬時の「自己」を、第二に、そのときその瞬時に出会った事物を通して、第三に、客観化して、表現する。この三者の結合が、子規の視覚的描写であり、「写生」であった〉と定義し、この三点のうち〈眼目は、自分の眼で直に触れた風景や事物によって触発されるという第二の点にある〉と説きます。〈現実の「実」を通してだけ「虚」の高みを描くことが出来るというのが、子規の「写生」の根幹の理念〉であり、おそらくは今井氏自身の志向するところでもあって、〈旧来の情緒だけを大切に、まったく眼前のものを見ようとしない〉「花鳥諷詠」と、〈言葉の「虚」を用いて陳腐な近代詩的ロマンの模倣を繰り返してきた〉「新興俳句」の、〈この二種類の「第二芸術」が現在も俳壇を覆っている。人間の五感の直接的即時的リアルを通してだけ、俳句が、大いなる「虚」の世界、つまり芸術の宇宙へと入っていくことができる、それが現在俳句に出来る唯一最大のことだと桑原説に応えておこう〉と、その論考を結んでいます。
炎環の炎
- 総合誌「俳句」(KADOKAWA)10月号「平成俳壇」
・小笠原和男選「推薦」〈蛍狩新幹線で帰りけり 天野啓子〉=〈そんな世の中に目を見張る。ほ、ほ、蛍来い、こっちの水は甘いぞ。新幹線の料金だけでも甘い筈。都会の人も随分便利になったものだ〉と選評。
・小笠原和男選「秀逸」〈似合はざる父の形見のサングラス 曽根新五郎〉 - 総合誌「俳句界」(文學の森)10月号「投稿俳句界」
・原和子選「特選」〈影連れて京都盆地の暑さかな 曽根新五郎〉=〈京都の暑さは訪れたものをたじろがせ、半端ではない。この句の面白さは自分のみならず、その影も連れ歩いているところ〉と選評。
・大串章選「秀逸」〈五時までの遊び夕焼け小焼けかな 曽根新五郎〉
・坂口緑志選「秀逸」〈ホースよりもれ出してゐる夕薄暑 金川清子〉 - 総合誌「俳句界」(文學の森)10月号の「New Age Line up 俳句の未来人」にて、宮本佳世乃が「あなた鍵」と題し、〈ひぐらしの翅の溺るる白さかな〉〈ざぶざぶと芒搔き分けあなた鍵〉など作品10句を発表。
- 総合誌「俳句」(KADOKAWA)10月号の「名取里美が評するKADOKAWAの新刊」が、増田守句集『序曲』を紹介。〈大患の果ての失語や春浅し〉などを取り上げ、〈二十年ほど前にお会いした増田氏は弁理士として多忙を極めておられた。病後の失語という苦難。俳句が著者の支えとなったはず。失語の苦悩をこまやかに詠みあげた絶唱である〉と批評。
- 結社誌「円虹」(山田佳乃主宰)9月号の「句集拝見」(平田晶子氏)が、岡田由季句集『犬の眉』を取り上げ、〈全体を読み終えて感じたことは、著者の動植物に対する愛情の深さ。そして、日常の中にある些細な事を普段使いの言葉で捉え、季題の力によって詩に作り上げる巧みさ。平明な句を目指す私にとって、とても良い刺激を与えてくれる句集であった。その平明さと日常の些細なことを俳句として成立させてしまうあたりは、前主宰山田弘子の俳句にも通ずるものがあるように感じたので、円虹の誌友の皆さま方も機会があれば是非読んでみていただきたい〉と批評。
- 毎日新聞9月7日「歌壇・俳壇」ページのコラム「生きものたちの四季」(津川絵理子氏)が、〈人乗せて象立ち上がる秋の風 岡田由季〉を取り上げ、〈象の体高は3メートルほど。その背に乗って眺める景色は地上とは違う。爽やかな風も感じるだろう。象と人、ふたつの命を秋の風が包む〉と鑑賞。
- 自由句会誌「祭演」(森須蘭氏編集)51号の「同誌50号より十句選一句鑑賞」に近恵が寄稿。「冬薔薇にだけ焦点の合うレンズ」について、〈冬の薔薇は少し寂しい。薔薇は短くなった昼の光を精一杯浴びて花の命を謳歌する。カメラを向けていると、ただその花だけにレンズの焦点が合ってゆく。一途に美しくあろうとするものに向き合うには、こちらも一途でなければならぬ。それを体現するかのように、冬薔薇にだけ焦点が合ってゆくのだ〉と鑑賞。
- 自由句会誌「祭演」(森須蘭氏編集)51号の「特集―俳句は何処へ行くのか―俳句に於ける私性(個性)」に田島健一が寄稿。「「私性」についてのアブストラクト」と題して、〈作者と読者はお互いに作品の向こうに具体的な作者や読者とは異なる「第三者」の姿を見ている。実は「私性」の問題とは、この「第三者」のもつ「他者性」の問題に他なりません。作者や読者がそれぞれの「私」の理解をはるかに超えたコンテクストの海で、「私」の限界をゆるがす別の「誰か」が想定されているということが、そこに書かれたたった十七文字の記号のかたまりに「意味(=価値)」をもたらすのです。俳句の醍醐味は、「私」自身が知り尽くすことの出来ない「私」を、「他者」との関わりの中で発見していくそのプロセスにあります〉と論述。