2016年3月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の軸
- 総合誌「俳句界」(文學の森)に石寒太主宰が連載中の「牡丹と怒濤――加藤楸邨伝」。3月号は「第36章 『起伏』とその時代」。本連載は2013年4月号より始まり、丸3年が経過。その間、読者は、楸邨が、昭和14(1939)年「馬酔木」において「難解俳句」と断じられ(13年5月号)、京大俳句弾圧事件などの影響で昭和17年には「馬酔木」から姿を消し(13年7月号)、昭和18年波郷、兜太らの出征を送り(13年12月号)、空襲下の惨禍を蒙り(14年2月号)、戦後まもなく昭和21年には中村草田男から「戦争責任」を糾弾され(14年4~11月号)、つづいて桑原武夫「第二芸術」による打撃を受けた(15年3~16年1月号)ことを学んできました。本章は第8句集『起伏』(昭和24年7月刊)について。この句集は、〈その題名のごとく、楸邨の病臥の時代で、闘病のため寝たり起きたりの生活句記録〉であり、〈戦中戦後の四面楚歌でつかれ果て、ついに病臥をよぎなくさせられた楸邨〉が、〈病床にて、一歩退きつつ社会から離れて自分を見直し〉たものです。筆者(寒太主宰)は句集から「鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる」「虹消えて馬鹿らしきまで冬の鼻」「木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ」「おのづからひらく瞼や牡丹雪」「野の起伏ただ春寒き四十代」「こがらしや女は抱く胸をもつ」を選んで鑑賞します。このうち「おのづから」の句に対しては、〈呼吸器を病む、病者の鋭い感覚の句である。「おのづからひらく瞼」は牡丹雪がもたらした湿度を含んだやわらかな空気に反応した目覚めであることに注目したい。「ひらく」は瞼と牡丹雪の「はなびら」のひらくイメージにも掛かった、緻密な表現である〉と核心に迫っています。
- 総合誌「俳句界」(文學の森)3月号の「句会レポート」が「平成28年「炎環」新年句会」について丑山霞外編集長による報告を掲載。1月24日新年会のセレモニー、主宰特別講演、句会、懇親会の模様と、新年句会における石寒太主宰の特選3句(天・地・人)と本選5句を紹介。
炎環の炎
- 総合誌「俳句界」(文學の森)3月号「投稿俳句界」
・名和未知男選(兼題「流」)「秀作」〈狐火や佐渡に遠流の世阿弥舞ふ 中村万十郎〉
・能村研三選(兼題「流」)「秀作」〈源流の音に近づく紅葉狩り 曽根新五郎〉
・大串章選「秀逸」〈終バスの赤きランプや初時雨 松本美智子〉
・佐藤麻績選「秀逸」〈山芋の手の届かざる深さかな 曽根新五郎〉
・西池冬扇選「特選」〈天高し釣り上げられし深海魚 曽根新五郎〉=〈深海魚というのは、釣り糸を巻き上げるのに数十分もかかるらしい。魚の姿を見た時には、船上空を見上げて、まさに「天高し」であろう。簡潔に珍しい景を述べ、季語をうまく配した句〉と選評。
・原和子選「秀逸」〈椿の実落ちて転がる島の夜 曽根新五郎〉 - 毎日新聞「毎日俳壇」
2月22日大峯あきら選〈冬耕の二人に風の筑波あり 辺見狐音〉=〈吹きさらしの関東平野に冬耕の二人を点じた。遠くに筑波山がはっきりとみえる句〉と選評。 - 「長谷川零余子記念・第8回藤岡市桜山まつり俳句大会」(群馬県藤岡市2月7日)が応募総数1995句の中から、4名の選者により各特選3句、入選100句を選出のうえ、大賞1句、特別賞11句の各賞を決定。
◎「特別賞」〈零余子の月の上りし桜山 武田漣〉
・高橋洋一選「入選」〈零余子のやうにみてゐる冬櫻 曽根新五郎〉〈零余子の(前掲)武田漣〉〈やさしさもきびしさもこの冬桜 武田漣〉〈ひとひらは風の形見の冬桜 長谷川いづみ〉
・中里麦外選「特選」〈零余子の(前掲)武田漣〉
・中里麦外選「入選」〈ひとひらは(前掲)長谷川いづみ〉
・星野光二選「入選」〈翳もまた光のかたち冬桜 北悠休〉
・吉岡好江選「入選」〈花びらの風なき風の浮力かな 曽根新五郎〉〈零余子の一句のやうな櫻かな 曽根新五郎〉〈掛大根ガードレールの続くまで 大澤徹也〉〈山頂へふたりの息や冬桜 伊藤航〉〈言霊のほつりほつりと冬桜 北悠休〉 - 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)3月号の「合評鼎談」で田島健一が、「俳句」1月号の長谷川櫂「愛の神」(新年詠7句)について、〈長谷川さんはパリの同時多発テロ事件や、欧州に流入する難民の問題をテーマに詠まれています。2012年には『震災句集』、昨年は句集『沖縄』を上梓されました。その上で、今回の新年詠のような作品が出てくると、ジャーナリスティックで、興味の対象がどんどん変わっていく方なのかなと感じました。俳句というカメラで、ヘリコプターで現場を上空から見ているような視点で俳句を詠んでいるのかなと。戦後の俳句は戦争や社会や、人間的なものと取っ組み合いながら書こうとしてきた歴史がある中、そうではなくて、はっきりジャーナリスティックに打ち出している。震災以後、俳句はどこから詠むかが議論になっています。例えば当事者性とは何かとか……。そんな議論の中で、長谷川さんの作品は気になる。今年は日本ではまだ当事者的にはなっていないとはいえ、テロや難民の問題が、新年詠に出てくるかな思っていたら、長谷川さんだけでした。そこに関しては長谷川さんならではの鋭敏な感覚だと思うし、大事なテーマではないかと思う。ですが、どうしても、こういう詠み方でいいのか、とか詠み方の問題を問われて話が終わってしまう。こういう議論を、俳句はもっとしたほうがいい。短歌の人たちはずいぶんしています〉と発言。
- 結社誌「天為」(有馬朗人主宰)の「新刊見聞録」(山本順子氏)が柏柳明子句集『揮発』を取り上げ、〈そこには独自の皮膚感覚を通して捉え得た、確かなものの手触りがある。あとがきには、試行錯誤を繰り返しながら創作に向かう思いが綴られ、その距離感ゆえか、集中には、鋭くも優しい眼差しと、ひんやりとしながらも温かな詩情が留め置かれているようである〉と批評。
- 結社誌「月の匣」(水内慶太主宰)2月号の「詩海展望」(田中喜翔氏)が〈腸内の菌もろともに年を越す 増田守〉を取り上げ、〈成人の腸内には無慮百兆個の細菌が存在して居ると言われ有用菌、有害菌、日和見菌の三種類で重さは1.5キログラムだという話だが兎に角清濁併せ呑んだまま新年を迎えると言うことだ。閨秀でも盆暗でも同様に〉と鑑賞。「俳句」12月号に発表の句。
- 結社誌「松の花」(松尾隆信主宰)1月号の「現代俳句管見・総合俳誌より」(平田雄公子氏)が〈六階のあたりに今日の月が居る 宮本佳世乃〉を取り上げ、〈ビルか、この場合は高層マンションでもあろう。名月も都市によって、角度によって、将に身近な景物なのだ〉と鑑賞。「俳句四季」11月号に発表の句。
- 結社誌「ランブル」(上田日差子代表)1月号の「現代俳句鑑賞」(今野好江氏)が〈六階のあたりに今日の月が居る 宮本佳世乃〉を取り上げ、〈上りはじめた月がマンションの六階あたりにとどまっているのを〈月が居る〉という斬新な措辞に惹かれた一句である。気ごころの知れた友人のように、都会で見る〈今日の月〉である〉と鑑賞。
- 結社誌「峰」(布川直幸主宰)1月号の「俳句月評」(上原重一氏)が〈六階のあたりに今日の月が居る 宮本佳世乃〉を取り上げ、〈名月とか十五夜と言わずに、「今日の月が居る」と作者は詠む。まるで、友だちでも居るように。その位置は六階のあたり。人のように「居る」と表記しているところに注目した。直ぐに届きそうな〉と鑑賞。
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結社誌「白魚火」(白岩敏秀主宰)1月号の「現代俳句渉猟」(中村國司氏)が〈萱の穂が空港を取り巻いてくる 宮本佳世乃〉を取り上げ、〈空港は萱の穂に占領され、やがて飛行機すら身動きできなくなり、空港としての死を迎える。作者の切り取った景の構図はみずみずしい。そして明らかに、時代としての未来に危惧を抱いている〉と鑑賞。「俳句四季」11月号に発表の句。
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結社誌「篠」(岡田史乃主宰)175号(1月)の「作る」(辻村麻乃氏)が宮本佳世乃句集『鳥飛ぶ仕組み』から5句を紹介、そのうち〈ひまはりのこはいところを切り捨てる〉に対して〈昔、実家の裏庭の花壇に向日葵が植えてあり、母が教えてくれたギリシア神話のアポロンの話からしみじみ観察したものだが、種が成る部分が恐ろしいような気持がしたことを思いだした〉と鑑賞。