2017年10月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の軸
- 総合誌「俳句界」(文學の森)10月号に石寒太主宰が特別作品50句を発表しました。作品は「隠岐――夏から秋へ」と題し、〈遠島百首楸邨二百句夏の旅〉〈にはたづみ昨夜の青梅雨隠岐泊り〉〈水葬のごとし海月の群れゐたり〉〈ぽこぽこぽ楸邨乗り来茄子の馬〉〈みささぎの梅雨の朱印よ末期の眼〉〈稲架襖盾とし隠岐の大没日〉〈楸邨の師系ゆたかぞ秋の虹〉など。
- 総合誌「俳句界」(文學の森)に石寒太主宰が連載中の「牡丹と怒濤――加藤楸邨伝」。10月号は「第55章 楸邨の短歌補遺」。その書き出しは〈6月の末に、第65回「平泉全国俳句大会」に招聘されて、平泉毛越寺・中尊寺で記念講演と選にかけつけた。その折、久しぶりに楸邨ゆかりの達谷の窟(たっこくのいわや)を案内してもらった。ここは大正7年に楸邨が岩手県の一の関に移住したところ。その思い出の地なのである。しかも、ここが楸邨の短歌との出会いでもあった〉。そのとき楸邨は13歳(第47章参照)。やがて26歳で〈水原秋櫻子と邂逅し、俳句に転向していく〉。しかし楸邨は〈死の直前まで短歌も作りつづけている。短歌と俳句を併作している人はいなくはないが、この七・七の14音の差は、随分と大きい。14音が少ないことによって、俳句が難解に陥りやすいことは、いろいろな人が指摘している〉。この短歌と俳句の違いについて、〈楸邨自身はどう考えていたのであろうか〉と、筆者(寒太主宰)は楸邨38歳の句集『雪後の天』から、次の文を引いています。「和歌は俳句に比較すれば、かなり意味伝達の範囲がひろいのであるが(中略)それでも(中略)詩型の制約にあって言いつくせない。俳句に至っては、「物の言えない文学」という姿になる。(中略)然し、これは俳句を散文と同列に置いて、描写による伝達のみを考えたところからくる錯覚であって、俳句は「物の言えぬ」ところに、別の物の言い方がうまれるのである」。〈楸邨はいたるところで、俳句は沈黙の文芸、物のいえない文学であるといいつづけている。それゆえに、その後俳句に走った一方、その裏では、“未練”としての短歌をつくりつづけ、自分のこころをひそかに満たしていた〉と筆者(寒太主宰)は考えます。
- 毎日新聞9月12日のコラム「季語刻々」(坪内稔典氏)が、《勾玉のごとき冬瓜抱きけり 石寒太》を取り上げ、〈句集「以後」(2012年)から引いた今日の句は小ぶりのトウガンだが、私は巨大なのが好きだ。ペンで目鼻を描き、居間に転がしてわが家のカバにする〉と鑑賞。
- 機関誌「現代俳句」(現代俳句協会)10月号の巻頭に石寒太主宰が、「現代俳句協会創立70周年記念」に想起すべきこととして、「現代俳句協会の分裂と加藤楸邨の血を継ぐ若者のエネルギー」と題する論考を寄稿しました。昭和22年9月に結成された現代俳句協会は、昭和36年12月俳人協会の設立により事実上分裂します。このとき寒太主宰の師である加藤楸邨は、現代俳句協会にとどまり、〈88歳で亡くなるまで、現代俳句協会員としての立場を貫いた。大半の著名な俳人がほとんど俳人協会に移った中で、自分の立場をはっきりとさせることは大変に勇気のいることである。いろいろこれからの自分の俳句生活に荒波が押し寄せてくることは明らかであったが、楸邨は毅然としてその立場を鮮明にした。苦しかったとは思うが、この抵抗感こそが以後の楸邨の詩的爆発へのエネルギーとなったことも明らかである。さて、この楸邨の態度を体ごと受けついだのが、金子兜太前会長であり、その精神を継いだのが現代俳句協会内の「寒雷」系の人たちなのではないだろうか〉と述べ、最後に〈現代俳句協会の若手(協会新人賞を受賞している、近恵、山岸由佳、柏柳明子、宮本佳世乃、そして候補に名を連ねている田島健一、岡田由季)たちもみなそうである。一筋縄にはゆかぬ個性を備えながら、自分の主張をしっかりと句にしている〉と結んでいます。
炎環の炎
- 朝日新聞9月6日夕刊「文芸・批評」面の「あるきだす言葉たち」に、山岸由佳が「地上」と題して、〈汗引いてゆき百年のシャンデリア〉〈黄のカンナ丈夫な紙を探してゐる〉〈地上は雨誰かれのこゑ秋灯〉など12句を発表。
- 総合誌「俳句界」(文學の森)10月号の特集「鑑賞力を鍛える~“読み”の分かれる句」における「読みの分かれる句~私はこう読む」のコーナーに田島健一が寄稿し、《ふくろふに真紅の手鞠つかれをり 加藤楸邨》について、〈昭和59年の句。楸邨の最晩年の句集『怒濤』に収録されている。楸邨の句の中でも特に多くの解釈を生んだ句として知られている。見逃してはならないことは、「複数の解釈が存在すること」それ自体である。各々の解釈はあたかも排他的であるかのように見えるが、実はこれらは掲句のなかに共時的に内在している。言い換えれば、掲句はひとつの解釈に収斂されることに抵抗しているのだ。掲句は何かを意味しない。なぜなら掲句が意味そのものであるから。これが晩年の楸邨が到達した、ひとつの境地だったと言えるのではないだろうか〉と批評。
- 総合誌「俳句界」(文學の森)10月号の「実力作家代表句競詠」に榎本慶子が「フクシマの風」と題して、〈ふくろふの森に忘れし電子辞書〉〈フクシマの風になるまでふらここ漕ぐ〉など6句を出品。
- 総合誌「俳句界」(文學の森)10月号「投稿俳句界」
・大高霧海選「特選」(題「白」)〈みちのくの喪中のやうな白雨かな 曽根新五郎〉=〈東日本大震災の被災地、みちのくで、大夕立に遭った詠者は「喪中のやうな白雨」と瞬時にして俳言を授かったのである。大震災による被害について詠者は不断の関心を寄せていたので、掲句を授かったと思われる〉と選評。
・西池冬扇選「特選」〈蟻の道行きつもどりつもどりけり 藤井和子〉=〈ごちゃごちゃしたようなひらがなの羅列に蟻の行列を感じ取る。そのような作りの句があっても良い。蟻は行きつ戻りつしながらも目的地に向かう。作者は観察して、このように表現せざるをえなかったのであろう〉と選評。
・田島和生選「秀作」(題「白」)〈白昼の漁家開け放ち貝風鈴 中村万十郎〉
・田中陽選「秀作」(題「白」)〈背徳の背中の白き水着跡 堀尾一夫〉
・大串章選「秀逸」〈教会の鐘の音響く蟻地獄 松本美智子〉
・大牧広選「秀逸」〈踏切の一直線の暑さかな 長濱藤樹〉
・夏石番矢選「秀逸」〈天井に蜘蛛ゐるホテル愛しあふ 高橋桃水〉 - 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)10月号「平成俳壇」
・嶋田麻紀選「秀逸」〈落し文形見のやうに拾ひけり 曽根新五郎〉
・星野高士選「秀逸」〈落し文(前掲)曽根新五郎〉
・伊藤敬子選「秀逸」〈初鰹太平洋へ釣り落とす 曽根新五郎〉 - 朝日新聞「朝日俳壇」
・9月10日長谷川櫂選〈滝水の落ちゆく先を誰も知らず 池田功〉
・9月18日長谷川櫂選〈西鶴忌よくある別れ話かな 渡邉隆〉
・9月25日金子兜太選〈ともかくも目黒の秋刀魚頂きぬ 池田功〉=〈高齢でもブランド志向。あっぱれ〉と選評。 - 読売新聞「読売俳壇」
・9月4日矢島渚男選〈鰻食ひ豪雨のち晴れしかも虹 保屋野浩〉 - 東京新聞「東京俳壇」
・9月24日鍵和田秞子選〈職退きしあの窓今も夜業の灯 片岡宏文〉 - 機関誌「現代俳句」(現代俳句協会)10月号の「特別作品」に三輪初子が「ころがる速さ」と題して、〈雑布も脳も絞りて夏終る〉〈空き缶のころがる速さ秋立てり〉など10句を発表。
- 機関誌「現代俳句」(現代俳句協会)10月号に「第149回現代俳句協会青年部勉強会」について宮本佳世乃が「ただならぬ虎と然るべくカンフー」と題して報告。〈1970年代前半に生まれた4人の作家の、昨年上梓された句集を、リレー形式で読みあう青年部の勉強会〉で、対象となった句集は、小津夜景著『フラワーズ・カンフー』、岡村知昭著『然るべく』、中村安伸著『虎の夜食』、田島健一著『ただならぬぽ』。『ただならぬぽ』についての発表者は柳本々々氏で、〈柳本は「世界の根っこを問うている句集」だと話す。そもそものもののありかた、人のありかた、見るとはどういうことかを問う句集。さらに「ほんとうにこの句集を生きてしまったら原理的に崩壊するのではないのか。あとがきにあるように「あらゆる人のはじまり」になってしまったら、人として終わる瞬間かもしれない」と続ける。俳句を書くという行為は、何かを見ることではなく、見ている自分が立ち上がってくる〉と宮本佳世乃は記述。