2018年1月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の軸
- 総合誌「俳句界」(文學の森)に石寒太主宰が連載中の「牡丹と怒濤――加藤楸邨伝」。1月号は「第58章 句集『まぼろしの鹿』時代(三)」。本章でも引き続き楸邨の第10句集『まぼろしの鹿』の句を、さまざまな角度から鑑賞します。まず、〈魅力ある不思議な句〉として、《霧の置きゆく白髪太郎といふ虫あり》《鶴の毛は鳴るか鳴らぬか青あらし》《満月の鳥獣戯画や入りつ出でつ》の3句を、筆者(寒太主宰)の著書『加藤楸邨一〇〇句を読む』からの引用によって鑑賞します。つづいて追悼句を取り上げますが、ここでは特に「能勢朝次先生永逝六句」(昭和30年)と「母逝く 九句」(昭和32年)に注目します。〈能勢朝次は楸邨にとっての大恩の師〉で、〈楸邨のその後の俳句の転機ともなった隠岐行〉をはじめ、〈楸邨の節目節目に当たりいろいろアドバイスを与えてくれている〉人でした。「母逝く」については、〈楸邨のもっとも尊敬した歌人・斎藤茂吉〉に母の死を詠んだ歌集『赤光』(しゃっこう)があり、その茂吉の歌とも比較しながら、「九句」を一句一句丁寧に鑑賞します。ことに8句目の《冬鴉母亡き玻璃に大口見す》と、茂吉の《のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり》とは、〈似ている。玄鳥も鴉も悲歎の光景を厳粛に荘厳している。死を見守っている、そういう緊張した光景をのぞくように、あるいは無関係のように玄鳥・鴉がそれぞれ臨終に立ち会っているのである。茂吉は「実相観入」を、楸邨は「真実感合」をみごとに実行しているのである。このふたつ(歌と句)は、短歌的表現と俳句的表現のそれぞれを具象化と単純化との関係において無限の暗示を投げかけているのである〉と筆者(寒太主宰)は指摘します。
- 読売新聞12月23日のコラム「四季」(長谷川櫂氏)が、《蠟涙の人のかたちも寒さかな 石寒太》を取り上げ、〈蠟燭の蠟が涙のように滴って固まるのが蠟涙。それがどことなく人の形に見えるのだろう。そういえばロダンの「地獄の門」に浮かぶさまざまな人体も蠟涙が冷え固まったようにも見える。地獄へ墜ちてゆく人々の姿〉と鑑賞しています。句は句集『風韻』より。
炎環の炎
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「第10回尾瀬文学賞俳句大会」(11月3日群馬県片品村)が応募総数609句から、4名の選者により特選1句、特別賞12句、優秀賞10句、入選10句を決定。
◎入選〈神々の山の鎮もり草もみぢ 佐藤弥生〉
◎入選〈銀漢や池塘の星のあふれきし 北悠休〉 - 総合誌「俳句界」(文學の森)1月号「投稿俳句界」
・高橋将夫選「特選」〈理系なら関数と見ゆ秋の虹 髙山桂月〉=〈普通、虹を見れば美しいとかはかないと思う。ところが、理系の人は関数が頭に浮かぶらしい。半円や放物線の幾何の図形や二次方程式などが連想されるのだろう。「秋の虹」が出てきて理系と文系の感性がうまくミックスされていると感じた〉と選評。
・稲畑廣太郎選「秀逸」〈海神の泣きし八月十五日 曽根新五郎〉
・角川春樹選「秀逸」〈椎の実や子の失つてゆく魔法 髙山桂月〉
・夏石番矢選「秀逸」〈椎の実や(前掲)髙山桂月〉 - 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)1月号「平成俳壇」
・井上康明選「秀逸」(題「故郷の月」)〈百畳の開け放たれし良夜かな 曽根新五郎〉
・星野高士選「秀逸」〈片言の子と隣りあふ夜学かな このはる紗耶〉
・山西雅子選「秀逸」〈すきな人ゐます八月十五日 曽根新五郎〉 - 東京新聞「東京俳壇」
・1月14日石田郷子選〈艶つやと一つ残りし蜜柑かな 片岡宏文〉 - 結社誌「小熊座」(高野ムツオ主宰)12月号の「星座渉猟―俳壇近作鑑賞」(津高里永子氏)が、《月の船チェロの祈りの音かすか たむら葉》を取り上げ、〈「炎環」誌上には、自由にイメージをふくらませて詠む「写真に俳句」という企画がある。掲句はその中の一句。チェロの胴体の四分の一ほどが見えている写真には、その他に男女が顔を寄せ合っている黒い影のポスター、ローチェスト、その上に「黒人ダービー騎手の栄光」という表題の単行本が寝せて置かれ、さらにその本に灯された小さい円筒のライトが載せられている。掲句は、このような写真から「月の船」という設定を見出し、そして演奏とか、デュエットとか直接的な言葉を使わずに「チェロの祈り」という、切願するような一本の旋律を介して男女の吐息を感じさせているところなど、かなり洗練されたものになっている。想像力、創造力。写俳もここまで達成させる意気込みが大事ということか〉と鑑賞。句は「炎環」10月号より。