2019年8月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の軸
- 機関誌「現代俳句」(現代俳句協会)8月号において、「結社の若手」シリーズ第1回を石寒太主宰が執筆し、「「炎環」を支える若い力」と題して、〈われわれ「炎環」は恵まれている。他の結社に比べると、若い人が多く、それが結社のパワーとなっている〉と述べ、炎環所属の小学生から二十代・三十代・四十代の俳人を、実名(俳号)を挙げて紹介しています。そして〈これらの人々を引っぱっているのは、平成二十四年以降の現代俳句協会新人賞をたてつづけに輩出していることであろう〉と指摘します。またさらに〈いまの「炎環」の活動は、もちろん紙媒体の「炎環」誌がその中心をなしているが、もうひとつの「炎環」の柱は、インターネットのHPである。ぜひこのホームページを他結社の人にも一度みていただきたいが、実にバラエティに富み活発で、俳壇ではトップクラスを行く注目すべき内容になっている。最近、各協会とも平均年齢の高齢化、会員の減少を訴えつづけているが、幸いにしてわが「炎環」は増えつづけている。それは何故か? 若手の活発化とインターネットにその源があるように思う。会員・同人もあらゆる層に及んではいるが、やはりそれらを引っぱっているのは、じつは若い層かと思う〉と寒太主宰は強調して述べています。
- 総合誌「俳句界」(文學の森)に石寒太主宰が連載中の「牡丹と怒濤――加藤楸邨伝」。8月号は「第七十六章 句集『吹越』の交響」。楸邨第11句集『吹越』は卯辰山文庫から刊行されましたが、そこの経営者である神崎忠氏について、〈私(石寒太主宰)は、彼(神崎氏)が中央公論社の編集時代の終わりころから交流を持った。彼の同僚の塚崎良雄(「短歌」編集長)氏とともにである。ふたりは、卯辰山文庫を創設し、共同経営に当った。卯辰山は彼らの出身地金沢の卯辰山からとられたもの。先の『まぼろしの鹿』は、詩人・安東次男氏とその神崎氏との共同製作によるものだ。神崎氏に森澄雄・矢島房利氏らが協力して出来上った句集なのである。だから詩集の出版を中心とした思潮社から出版された。そして次の句集『吹越』は、十年を経て満を持して出版した、卯辰山の自社からの出版となった〉と寒太主宰は出版の経緯を明かします。〈この句集『吹越』は、十年間(昭和41年~50年)の集積で楸邨の六十代の総決算ともなる。病いを越えて後の、彼がもっとも激しく行動した時期にも重なる。これは、楸邨もであるが、私にとっても壮年期の楸邨と行動をともにした、なつかしい一時代でもあった。句集『吹越』は楸邨句集ではあるが、読み進むと、私たち家族の動向も浮かび上がってきてなつかしい。この句集の「おくのほそ道」途上での句には、ほとんど同行しているので、一句一句読むと、その時々の旅の思い出が彷彿として来る〉と寒太主宰も感慨にふけります。〈さて、この句集から『怒濤』にかけては、特にそれまでの句集より、俄に前書が多いのが目立つ。それはひとえに、詩人・俳人の安東次男氏との古美術などの交流によるもので、当然その安東氏との交響の句が目立つ〉として、本章では安東次男との交響の句13句を、その前書とともに取り上げて鑑賞し、〈いくつか『吹越』の中から、安東氏への楸邨の挨拶句を拾ってみたが、このようなふたりの交響もこの句集の特徴となっていて楽しい。ひとりの単独の句集でありながら、句集全体が楸邨をめぐる連衆との掛け合い、特に安東氏との交響ともなっているのである〉と述べています。
- 結社誌「藍生」(黒田杏子主宰)8月号の「テーマ別黒田杏子作品分類⑧先生の〈花火〉」(髙田正子氏)が、《大花火悪相もわが顔のうち 石寒太》を取り上げ、〈花火に照らし出されているであろう「わが顔」を「悪相」と言い放つ。花火を見ることが、翻って「わが顔」を見る行為となるとは。花火に見られている、とも言えそうだ〉と鑑賞しています。句は句集『炎環』より。
炎環の炎
- 総合誌「俳句界」(文學の森)8月号「投稿俳句界」
・岸本マチ子選(題「声」)「特選」〈春眠し口の大きな河馬の声 結城節子〉=〈わたしはまだ河馬の声を聞いた事がない。口が大きく、日中は耳と目と鼻孔だけを水面に出して休憩しているのだそうだ。河馬は夜行性で夜間、陸上に出て草を食らうという〉と鑑賞。
・大高霧海選(題「声」)「秀作」〈空耳か三月十一日の声 曽根新五郎〉
・今瀬剛一選「秀逸」〈菜の花や地上へ降りしパラシュート 結城節子〉
・櫂未知子選「秀逸」〈春の夜やコンビナートの銀の雨 松本美智子〉
・櫂未知子選「秀逸」〈行く春のもう五本目の母の杖 曽根新五郎〉
・角川春樹選「秀逸」〈春の夜や(前掲)松本美智子〉
・佐藤麻績選「秀逸」〈春惜しむたつたひとりのオムライス 金川清子〉
・夏石番矢選「秀逸」〈火種へと三月十一日の息 曽根新五郎〉
・行方克巳選「秀逸」〈行く春の歩くリハビリメニューかな 曽根新五郎〉 - 読売新聞7月29日「読売俳壇」
・矢島渚男選〈蛍呼ぶ歌よ亡き兄亡き妹よ 堀尾笑王〉 - 東京新聞8月4日「東京俳壇」
・石田郷子選〈夏掛けの薄き寝嵩やダイヤ婚 片岡宏文〉 - 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)8月号の「新興俳句とは何だったのか」。〈『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(現代俳句協会青年部編・ふらんす堂)の刊行に伴い、「新興俳句」に注目が集まっているようだ。アンソロジーの編集・執筆に関わった7名の若い俳人に、アンソロジーに執筆した感想、また自身が思う「新興俳句」について語ってもらい、新たな時代の俳句を考えるきっかけとしたい〉という趣旨の企画で、これに、執筆者の一人である宮本佳世乃が寄稿、「三谷昭と東海村」と題して、〈『新興俳句アンソロジー』で私が担当したのは三谷昭だった。昭は俳句を始めて間もないころ「走馬燈」で西東三鬼と出会う。昭和一五年「天香」に創刊参加した。編集同人には西東三鬼、石橋辰之助、東京三、杉村聖林子、渡辺白泉らがいた。同年、「京大俳句」弾圧事件に連座して検挙されるも、起訴猶予されている。三谷昭を調べていて分かったことがある。『三谷昭全句集』に掲載されていない句があるということだ。俳句弾圧事件に連座して京都市九条警察署に連行され釈放されるまでの期間と、呉海兵団に招集された海軍時代は空白である。それ以外に、昭和三十二年十月号の「俳句研究」の巻頭である《東海村界隈(三十三句)》がほぼ全部、句集に載っていないのだ。この前年、東海村に日本初の原子力研究所ができ、原子炉が設置されている。 《死の翳は生命の光と原子燃ゆ》 東海村JCO臨界事故や、東日本大震災に伴う原発メルトダウンを経験した私たちは、原子力平和利用などとんでもなかったことを知っている。もし昭が存命であったら、この事態をどう表現しただろうか〉と記述。