2019年9月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の軸
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)9月号に石寒太主宰が「永訣」と題して、〈句会より新幹線へ蛍狩〉〈永訣の蛍のひとつ追ひはじむ〉〈楸邨にほうたる兜太ひとり蹤く〉〈つゝゝゝゝ付きしほうたる草へ落つ〉〈蛍ほたるいのちしづかに濡れゐたり〉〈失くしたる子規のボールか草ほたる〉など16句を発表しました。
- 総合誌「俳句界」(文學の森)に石寒太主宰が連載中の「牡丹と怒濤――加藤楸邨伝」。9月号は「第七十七章 『吹越』と「寒雷」に集う人々」。楸邨の第11句集『吹越』に収められている1192句は、昭和41年(楸邨61歳)から昭和50年(70歳)までの作品で、その時期は〈私(石寒太主宰)にとっても壮年期の楸邨と行動をともにした、なつかしい一時代〉。〈私(寒太主宰)は森澄雄氏が「寒雷」の編集を辞め、彼が自らの俳誌「杉」を創刊(昭和45年)したあと、急遽平井照敏氏に編集が替わった、その手伝いをして欲しい、と楸邨に依頼されることになった。「今度森君が自分の雑誌『杉』を出すことになった。その後を、平井君に編集をしてもらうよう依頼したが、彼は学者で、編集の事は何ひとつ知らない。そこで、寒太君は編集に馴れているので、実質は君がすべてやって欲しい」、そう頼まれた。「同人たちへの対応は、平井君がすべてやってくれるので、君は実質の毎月の編集に専念してくれればいい……」「そうですか。大丈夫でしょうか?」と心配そうにいうと、「大丈夫、君なら出来るし、僕も応援するから、何とか頼むよ……」と、そんな形で私の「寒雷」編集はスタートした。雑誌の内容については、楸邨はいっさい口出しはしなかった。私としては、やりたいように、自由に「寒雷」を発行していった〉。そして「寒雷」400号記念(昭和51年11月号)の編集(ちなみに『吹越』の刊行は昭和51年6月)。〈今その四〇〇号記念をパラパラめくってみても、ほとんど私の身内というか、知り合いの諸先生方に原稿を依頼している。雑誌は楸邨主宰誌であるが、さながら中身は石寒太の知人という内容である。諸家寄稿のラインナップもいまながめてみると、ほとんど私好み……、というか知り合いで、それまで楸邨先生にはあまりなじみのない人が並んでいる。たとえば丸谷才一・井上靖・岩淵悦太郎・西脇順三郎・吉村昭・木下順二・森豊・瓜生卓造・中西進・山本健吉・木俣修・宮柊二・大岡信・飯田龍太・横山白虹・島田修二氏、また諏訪春雄・清岡卓行・富岡多恵子氏など、私がつき合っていた作家・詩人・歌人・俳人たちばかりである。(その中で今)注目したのは、中西進氏である。公表はしてはいないものの、「令和」の発案者が中西進(国文・万葉学者)であることは、もう誰でもが知っていること〉と述べ、このあとは寒太主宰と中西氏との親交について筆が進みます。そして本章は次の言葉で結ばれています、〈俳句雑誌をつくる、ということは、雑誌に人を集めるのではなく、その雑誌を中心に、どういう人々がそこに集まるのか、その内容こそが大切なのである。それを私は楸邨に教えてもらった〉。
- 毎日新聞8月28日夕刊「特集ワイド」が〈90年超す人生を筆に凝縮〉という見出しで、金子兜太の揮毫した「アベ政治を許さない」の文字と、兜太の人生について書いていますが、その記事の中で、石寒太主宰が記者のインタビューに答えるかたちで、豪放磊落というイメージの強い兜太について〈実は慎重で気遣いの人。僕ら後輩や女性、特に弱い立場の人には優しかった〉、また悲惨な戦争体験について〈彼はよく「俺は運がいい」と言っていました。米軍機の機銃掃射で両隣の人が撃たれて死んだこともあったそうです。しかし、戦闘よりも飢餓、それも下痢が原因の死者が圧倒的に多かったとも話してくれました。軍隊のひどい差別の中で弱い立場の人が無残に死んでいく姿に「こんな戦争はやっちゃいかん」と思ったそうです〉と語っています。
炎環の炎
- 倉持梨恵が、句集『水になるまで』を、ふらんす堂より8月29日に刊行。序文を石寒太主宰が「平明の中の新しい俳句未来を」と題して認め、〈梨恵さんの句には、他の人にはない独自な世界がある。彼女は、自分の見たもの、出会ったことを自分の角度から眺めて、独自のことばで一句に詠んでいる。だからこそごく自然に自分の感覚とことばだけで、一句が成り立っているのである。この句集の題名は「水になるまで」。句集を一読して、やはり、と納得した。この集には、空や水の句が多い。特に水に寄せる思いはいっそう強いらしく、あらゆるところに水の句が散見する。水へのこだわりの強い彼女。これがこの句集のひとつのトーンを成しているのである。さて、これからの倉持梨恵の新しさを兆す二句を。 《夏つばめ地図拡大の指二本》《秋冷やレンタル植物の青し》 いずれも、新しい素材を扱って詠んでいる。これからの俳句がどう変化していくのか、よしあしは別として、俳句未来の一端を示す、といっていい句かと思う。今後の彼女に期待して、賭けていきたい〉と紹介。
- 中嶋憲武が、句集『祝日たちのために』を、港の人より7月29日に刊行。著者はあとがきに〈ここに収められた句は二〇一八年の三月から十二月までツイッターに呟いた句、五三〇句のなかから一二〇句に纏めたものだ。散文は、炎環一九九六年一月号から二〇〇四年九月号まで表紙画を担当していたときに、編集部の求めに応じて、ときどき「表紙のことば」を埋め草的に書いていたものから採った。銅版画十三点は、二〇一八年二月から年末までに刷ったもののなかから採った。銅版画の制作と句のツイートは、ほとんど同時並行で行われた。銅版画を制作しているときは句の風景を思い、句をツイートしているときは銅版画の風景を思った〉と記述。
- 総合誌「俳句界」(文學の森)9月号「投稿俳句界」
・辻桃子選「特選」〈荒梅雨やプレハブ小屋の文芸部 小野久雄〉=〈粗末な小屋の中で部員たちが熱く文芸を語っている。ひと昔前ならガリ版を切り謄写版で印刷した作品を読み合って。プレハブ小屋の外は梅雨の激しい風雨が吹き荒れている〉と選評。
・今瀬剛一選「秀逸」〈竹皮を脱ぐや採寸大きめに 結城節子〉
・櫂未知子選「秀逸」〈ずんずんと乳を吸う嬰聖五月 山内奈保美〉
・鈴木しげを選「秀逸」〈荒梅雨や(前掲)小野久雄〉
・鈴木しげを選「秀逸」〈箱型の波郷のカメラ春逝けり 堀尾笑王〉
・山尾玉藻選「秀逸」〈荒梅雨や(前掲)小野久雄〉 - 朝日新聞9月15日「朝日俳壇」
・長谷川櫂選〈白桃の窪みに色気ありにけり 池田功〉=〈やはりあの窪みが色香の源。八十三歳〉と選評。 - 読売新聞9月16日「読売俳壇」
・宇多喜代子選〈黙禱にふらつく齢蟬時雨 堀尾笑王〉 - 「第30回伊藤園お~いお茶新俳句大賞」(伊藤園新俳句大賞実行委員会主催・7月7日)が、応募総数約200万句から黒田杏子、安西篤、宮部みゆきなど10名の選者により文部科学大臣賞、金子兜太賞ほか入賞作品2,000句を決定して発表。
○「佳作特別賞」〈オノマトペばかリの夫婦長き夜 北悠休〉 - NHK・Eテレ「575でカガク!」(8月29日)の兼題「恐竜」に応募した約1,000句から選者の夏井いつき氏が特選10句、佳作85句を選出。
・「佳作」〈海竜の腹に胎児や望の月 田辺みのる〉 - 結社誌「萌」(三田きえ子主宰)9月号の「句集紹介」(大内さつき氏)が、竹内洋平句集『f字孔』を取り上げ、《きさらぎの風ポケットの予約券》《鬱の日の春風チェロのf字孔》などの作品とともに、〈俳句の言葉は“意味”よりも発音される“音”と文字になった時の“姿”の方が重要。解釈をせず、ただ全身で感受し、音と姿を含めた「言葉の総量に身を委ねた俳句を自由に詠んでいきたい」と語る〉と作者の抱負を紹介。
- 結社誌「浮野」(落合水尾主宰)9月号の「現代俳句展望」(太田かほり氏)が、《中世を見し鬼瓦雁渡る 竹市漣》を取り上げ、〈「中世」そのはるかな昔から今日までの長い歳月を、とある寺の鬼瓦が大きく目を見開き、瞬き一つせず、見守り続けてきた。渡鳥もまた長い歳月を死に変り生れ変りしながら繰り返しこの地を訪れてきた。不動の鬼瓦と渡鳥にドラマと歴史がある。飛びゆく雁の美しさ、しみじみとしたあわれ、季語がこの一句の中に大きく働いている〉と鑑賞。句は句集『落慶』より。