2020年6月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の炎
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)6月号の「今日の俳人(作品7句)」に、三輪初子が「蝶結び」と題して、〈ポーチドエッグやうやう掬ふ春の宵〉〈春らんまん呼ばれふりむくたびに老い〉〈春惜しむすぐほどかるる蝶結び〉など7句を発表。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)6月号の「令和俳壇」
・白岩敏秀選「推薦」〈風花の御巣鷹山の慰霊塔 曽根新五郎〉=〈日航ジャンボ機が群馬県上野村に墜落したのは一九八五年八月。事故は真夏の暑い時であったが、今は冬。寡黙な作品が事後の風化を戒めている〉と選評。 - 総合誌「俳句界」(文學の森)6月号「投稿俳句界」
・稲畑廣太郎選「特選」〈ルドビコへ笑みし踏絵のマリアかな 永田寿美香〉=〈日本のキリシタン殉教者で二十六聖人は有名であるが、その中の十二歳という最年少で殉教したのが「ルドビコ茨木」という少年である。ルドビコは信仰を貫いたので絵踏みはしなかっただろうが、この歴史的に重たい季題を聖人との取合せによって、より重厚かつ神々しく捉えている〉と選評。
・西池冬扇選「特選」〈切り離す朧月夜の切符かな 曽根新五郎〉=〈切り離すというから音楽会の入場券のようなものだろうか。モノとコトを文字で示すだけで、その背景にある世界を想像して楽しむ。俳句のあるべき姿のひとつであろう〉と選評。
・名和未知男選(題「時」)「秀作」〈曾良の碑をたつぷり包む春時雨 永田寿美香〉
・角川春樹選「秀逸」〈清明や園児集まる水飲場 松本美智子〉
・古賀雪江選「秀逸」〈一列に白き船ゆく蝶の昼 長濱藤樹〉
・西池冬扇選「秀逸」〈ひたすらに南無阿弥陀仏春の蠅 高橋透水〉 - 毎日新聞5月18日「毎日俳壇」
・鷹羽狩行選〈知らぬ間に隣は空き家燕来て 谷村康志〉
・西村和子選〈たこ焼きのころころ回る花の昼 谷村康志〉 - 読売新聞5月18日「読売俳壇」
・小澤實選〈ひと呼吸置きもう一つ焼栄螺 谷村康志〉 - 毎日新聞5月25日「毎日俳壇」
・片山由美子選〈クッキーのこんがり焼けて立夏かな 谷村康志〉=〈香ばしく焼き上がったクッキーが、立夏のさっそうとした気分にぴったりである〉と選評。 - 産経新聞5月28日「産経俳壇」
・寺井谷子選〈肉じやがの煮崩れてをり目借時 谷村康志〉 - 読売新聞6月1日「読売俳壇」
・小澤實選〈全員がカレー大盛り夏来る 谷村康志〉 - 毎日新聞6月1日「毎日俳壇」
・鷹羽狩行選〈初夏や主治医と競ふランニング 谷村康志〉=〈主治医にすすめられて一緒に走り始めたのだろうか。すがすがしい初夏である〉と選評。 - 産経新聞6月4日「産経俳壇」
・宮坂静生選〈草笛を教へるほかに取り柄なく 谷村康志〉 - 読売新聞6月8日「読売俳壇」
・矢島渚男選〈冷や酒にもろき齢となりにけり 谷村康志〉=〈最近は冷酒ばやりだが、人肌などより酔いの回りが早い。もう酔ってしまった。俺も齢を取ったものだ。「もろき」の語が初々しい〉と選評。 - 毎日新聞5月18日のコラム「季語刻々」(坪内稔典氏)が、《夕薄暑髪を自由にしてやりぬ 関根誠子》を取り上げ、〈季語「薄暑」は、初夏にわずかに感じる暑さを言う。今日の句の主人公も、額に汗がにじんでいたか。ともあれ、結んでいた髪を解く、あるいはシャンプーをして、髪を自由にしてやると、心もまた髪とともにのびやかになる〉と鑑賞。句は句集『瑞瑞しきは』より。
- 東京新聞5月17日「東京俳壇」の「句の本」が、関根誠子句集『瑞瑞しきは』を取り上げ、〈群馬県大泉町出身で、俳句結社「炎環」などで活躍する著者の第三句集。二〇一一年以降の句を収録。《照る駅を過ぎ曇る駅栗の花》《石に寄り水に遅れし落椿》〉と紹介。
- 毎日新聞5月25日「歌壇・俳壇」面の新刊紹介が、関根誠子句集『瑞瑞しきは』を取り上げ、〈第3句集。発想の飛躍、配された季語の意外さなど、飽きない一冊。《小春日や二足歩行をポストまで》《易(えき)の灯にひらき夜寒(よさむ)のたなごころ》《夕薄暑(はくしょ)髪を自由にしてやりぬ》〉と紹介。
- 同人誌「豆の木」(こしのゆみこ代表)No.24(2020年5月31日発行)において、九堂夜想氏が中嶋憲武句集『祝日たちのために』を批評、「平日たちのために」と題して、〈参考までに、私の選から漏れた作品をいくつかあげてみる。《赤糸を切りうぐひすの世のはじまらむ》《耽読の虹に痩せゆく日日ありき》《あをく泳いで具象画のやうな疲れ》《迷宮へ靴取りにゆくえれめのぴー》《葛湯吹いて馬の体躯の夜がある》 『祝日たちのために』を繰りながら、私は「中嶋憲武」における詩の可能性とはどのようなものかということを探ってきたが、その行き着いた答えとは、私の批評眼を逃れたこれらの選外句群こそが、その実、「中嶋憲武」ではないのかということである(作品主体および作品世界については詩人「中嶋憲武」として生身の作者である人間・中嶋憲武その人と区別することにする)。本書に収められた作品群には、いわゆる〝劇的〟と呼び得る要素はたぶんに乏しい。そこをもう一歩踏み込んでみるならば、『祝日たちのために』はいわゆる〝劇的〟なものから離れた別なる詩空間の在りようを、さらに言えば、詩の〝劇的〟なること(その偏重)へのささやかな疑義や抵抗をそこはかとなく提示しているともいえる。本書における「祝日たち」とは、なにも特別な日のことではなく、むしろありふれた日々(しかし神秘的な)、それゆえに祝福されるべき大いなる日常のことである〉と記述。
- 結社誌「門」(鈴木節子主宰)5月号の「玲玲抄」(鳥居真里子氏)が、宮本佳世乃句集『三〇一号室』から《棉吹くとこだま返つてきたる家》を取り上げ、〈「棉吹く」という事となんの条理もない中七下五のフレーズが素敵。表現はリアルなのだが不思議な家とそのまわりの景色が浮かんでくる。もうこの世にいない人の声が、はるか時をこえて聞こえてきそうだ〉と鑑賞、句集についても〈全編、平熱の体温で詠みながら、作品が表現する世界は平熱ではない。常に微熱の表現が垣間見える。そこには日常の裂け目が潜んでいるかのようである〉と批評。
- 結社誌「雲」(飯田晴主宰)6月号の「句集を歩く」(木津みち子氏)が、宮本佳世乃句集『三〇一号室』を取り上げ、〈巧く言えないけれど、なんとなく全てを透る空気感がいい。悲しみを淡々と物で詠うところがいい。素材を与えてこちらに考えさせるような作り方がいい。何かが足りないようでそれでいて厳選された無駄のない言葉、読み手の思いが映しだされてゆく。それぞれの胸の内にそれぞれの解釈を秘めて共にある、そんな句集である。序文も帯もない。潔さを感じる白である。あとがきにとても好きな一文がある。「部屋は幾度か四季を迎えたが、わたしはもういない。」〉と批評。
- 結社誌「雪華」(橋本喜夫主宰)6月号の「現代俳句時評」(五十嵐秀彦氏)が、宮本佳世乃句集『三〇一号室』を取り上げ、「わたしはもういない」と題して、〈まるで大きな声は出したくないかのような、抑揚のない語り口。それはこのごろの若手俳人にしばしば見られる特徴で、そのことが現代的な響きを句に与えているかのようだ。同時に、ああこれは虚子句集を読んでいるときの印象にも似ている。そうも思うのである。つまりこの句集にまず私が感じた印象がそれ。だいたいこの『三〇一号室』という句集名はなんだろう。この題名を詠み込んだ句はどこにもなかった。けれど作者のアパートの部屋番号だろうなとは当たりがつく。「あとがき」にはこう書かれている。《雪の外階段を上がって見学に行った新築物件に即決を出したのは一月の下旬だった。(略)部屋は幾度か四季を迎えたが、わたしはもういない》ここに秘密の解があるようだ。「わたしはもういない」という一言に作者の句の息づかいがある。どの句にもこのキーワードが裏面で響いているかのようだ〉と批評。
- 同人誌「豆の木」(こしのゆみこ代表)No.24(2020年5月31日発行)において、白井明大氏が宮本佳世乃句集『三〇一号室』を、「〈空〉をめぐって」と題して批評。まず《みづうみのひらくひばりのなかに空》を取り上げ、〈何かをくぐり抜けた後に、心の自由さを得られたような、読んでいるこちらまで軽やかさを伴う内面の広がりを覚えるような、そのような句に感じます。ただ、この句集に現われる《空》は一様ではありません〉と述べ、次に《星月夜ひとり喫煙ひとりは空》を掲げ、〈夜に点る光。《ひとり》は《喫煙》の火を点し、もう《ひとり》は《空》に光るという情景です。機上の人か、あるいは天にいるのでしょうか。後者と読むとき、故人へのまなざしが句に窺われます。空は心の比喩となるのと同じくらい死の比喩ともなります。この句集に表わされる《空》には、冒頭の《来る勿れ露草は空映したる》のような微細な客観叙述(草露に映る光景と解して)から、《うづくまる空に泰山木の花》のような心象の表出、《一面のコスモス空へ還りたる》に見られる死の暗喩、《末黒野と菜の花の空隣り合ふ》のような複数の《空》のイメージの呈示まで多様です。この句集で多様なイメージの《空》は、私のなかに折り重なり、次第にひとつになっていきました。宮本は、第二句集へと至る句作と、こうして一冊に編んだ時間のどこかで、ある心の自由さを得たのではないだろうかと一読以来、私は感じています。自己の身体とも対象たる客体ともつかない自他の境ないまなざしによって宮本が見出したものが《空》である自由さに、読み手の心まで解きほどかれるうれしさを覚えます〉と記述。