2020年9月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の炎
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)9月号の「作品12句」に、田島健一が「心理の樹」と題して、〈うすばかげろう手鏡のなかの密〉〈西方より歯車売りにくる冷夏〉〈釣堀を固定している無数の螺子〉〈蚊帳吊ると鳥のあつまる心理の樹〉など12句を発表。
- 総合誌「俳句界」(文學の森)9月号の特集「難解句の楽しみ方」における総論を田島健一が執筆、「〈出来事〉の遅れと句の〈歪み〉」と題して、〈そもそも俳句にとって「分かる」とはどういうことなのでしょうか。以前、ある講演会(炎環十五周年記念特別講演)で俳人の宇多喜代子さんがお話をされました。橋閒石の《階段が無くて海鼠の日暮かな》の句との出会いがまずあり、事後的に両方の手を怪我している俳句とは縁もゆかりもないお爺さんの「日が暮れて呑みすぎて階段から落ちた。呑みすぎたら階段がなくなって、気がついたらわしゃ海鼠よ」という言葉と出会った。この瞬間に宇多氏は「背筋がびっというような感じ」がしたと。この「背筋がびっというような感じ」こそが、俳句にとって「分かる」ということなのではないでしょうか。注目すべきは、句と出会った時点では了解できなかったことが、時間が経ってから偶然に経験した〈出来事〉によって、遡って了解されたという点です。「書かれた句」と「分かること」のあいだに漂う「書かれた句の意味がまだ了解されていない」時間、これが句を「分からない句」つまり「難解句」にしています。ここで少し見方を変えると、その句を了解するための〈出来事〉がまだ到来していない時点で、その句には遅れて到来する〈出来事〉が予言的に織り込み済みだったということが言えないでしょうか。宇多氏とは別の経験によって、別の了解の仕方をする、別の読み手もいるでしょう。書かれた句には、書き手の意図に関わらず、やがて到来する〈出来事〉にそれぞれの読み手が個別に出会うことのできる可能性が残されているということなのです。俳句が「〈出来事〉の複数性」へ開かれているということ、俳句固有の形式によって「意味の取りこぼし」が生まれているということ、それが、句が意味を結ぶ前の〈歪み〉として、汲みつくせない意味の可能性を句に与えていると考えられます〉と論述。
- 総合誌「俳句界」(文學の森)9月号「投稿俳句界」
・角川春樹選「秀逸」〈嫌はれず嫌つてをらず怠け蟻 高橋透水〉
・西池冬扇選「秀逸」〈大皿に十二分割の西瓜かな 赤城獏山〉
・能村研三選「秀逸」〈甲板の太平洋の星涼し 曽根新五郎〉 - 産経新聞8月6日「産経俳壇」
・宮坂静生選〈吊床や犬の形のちぎれ雲 谷村康志〉 - 日本経済新聞8月8日「俳壇」
・横澤放川選〈抱き起こす母の軽さや遠花火 谷村康志〉 - 毎日新聞8月10日「毎日俳壇」
・西村和子選〈木造の校舎の記憶蟬しぐれ 谷村康志〉 - 読売新聞8月18日「読売俳壇」
・正木ゆう子選〈梅を干し朝餉の前の太極拳 谷村康志〉 - 読売新聞8月24日「読売俳壇」
・小澤實選〈神棚に柏手打てば守宮出づ 谷村康志〉 - 産経新聞8月27日「産経俳壇」
・寺井谷子選〈甚平の姿ちらりとWeb会議 谷村康志〉 - 毎日新聞8月31日「毎日俳壇」
・鷹羽狩行選〈抜け殻のやうに歩いて炎天下 谷村康志〉
・片山由美子選〈蟬しぐれ木造校舎すでに無く 谷村康志〉 - 産経新聞9月3日「産経俳壇」
・宮坂静生選〈黒子にも矜持のありて蟇 谷村康志〉 - 読売新聞9月7日「読売俳壇」
・宇多喜代子選〈秋扇や視線をそらすこと多く 谷村康志〉 - 結社誌「風港」(千田一路主宰)8月号の「現代俳句鑑賞」(山本くに子氏)が、《春の川渡つてみれば戻りたし 三輪初子》を取り上げ、〈穏やかな光を浴びながらゆったりと流れる春の川は、見ていると心が解放されて癒される。そこに橋があれば渡ってみたくもなる。渡ってはみたが、川のこちら側に用事があったわけでもなく、渡ってすぐに戻りたくなったという。春の日の散歩ともいえないようなぶらぶら歩きをしていて、私にもこんな経験があったような気がする〉と鑑賞。句は「俳句」6月号より。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)9月号の「合評鼎談」(三村純也・山口昭男・山尾玉藻の各氏)の中で、同誌7月号掲載の西川火尖作「慣性の国で」について、〈山尾「《注がれしごと入学の列来る》――学校の先生でしょうか。入学式の日に大勢の拍手の中へ静々と入ってくる子どもたちの列を〈注がれしごと〉と詠まれた。独特の把握ある写生と言ってもいい。 《うれしくて蝶々の数誤りぬ》――素直で、よい句です」、山口「春になって蝶々が飛び交う。その嬉しさが数の誤りにつながっていった。感じたままをストレートに詠っているところ、好感が持てました」〉と合評。
- 毎日新聞8月16日のコラム「季語刻々」(坪内稔典氏)が、《星飛んで妹の手にちからかな 柏柳明子》を取り上げ、〈「星飛ぶ」が季語。流れ星と同義だが、この句、星が飛んだ途端に妹の手にものすごいエネルギーが満ちた。星の力が妹のものになり、妹はスーパー少女、もしくはミラクルガールに変身したのだ。もちろん別の読みもできる。妹と手をつないでいたとき、星が飛ぶのを見て、興奮した妹が強く握り返した〉と鑑賞。句は句集『柔き棘』より。
- 東京新聞8月16日「東京俳壇」の「句の本」が、柏柳明子句集『柔き棘』を取り上げ、〈川崎市在住で俳句結社「炎環」同人、現代俳句新人賞受賞歴がある著者の第二句集。今年までの三百七十二句を収録した。《抱きしめられてセーターは柔き棘》《自画像に影を足したる余寒かな》〉と紹介。
- 結社誌「沖」(能村研三主宰)9月号の「沖の沖」(主宰)が、当月13句中の1句に《桃を吸ふ嘘を吐くかもしれぬ口 柏柳明子》を抽出。句は句集『柔き棘』より。
- 同人誌「蘖通信」(稲葉千尋世話人)51号が柏柳明子句集『柔き棘』を、《遠き虹渋滞すこし動き出す》《夜濯ぎや別の地球にゐるごとし》など5句を立てて紹介。
- 朝日小学生新聞8月31日「初めて俳句五・七・五」(塩見恵介氏)の「なにが入るかな?」というクイズコーナーにて、《○○○○の捉へし風よ赤のまま 柏柳明子》を出題し〈これは、秋の俳句だよ。○の中に、どんな言葉が入るか考えてみよう。そのあとは、自分で考えた言葉を、自由に入れてみてね。五七五のリズムを大切に、あなたならではの俳句づくりにチャレンジしよう!(例)「足元」「グローブ」「この星の」など〉と解説。原句は「ラクロス」、句集『柔き棘』より。
- 神奈川新聞9月10日文化面の「かながわの俳壇時評」(酒井弘司氏)が、柏柳明子句集『柔き棘』を取り上げ、〈句集の作品からは、柔軟な感覚と、季語を言葉として捉える技法が見られる〉と述べ、6句を選んで鑑賞、《さるすべり恋人は水となりました》に対しては〈この句の意外性は、口語発想に負うところが大きい。ここまで最短定型で書けるのは、作者の天賦〉と記述。
- 結社誌「淡竹」(小豆澤裕子主宰)第四号(5月発行)の連載エッセイ「話したいことがある」(中山奈々氏)が、宮本佳世乃句集『三〇一号室』を取り上げ7句を選んで鑑賞、《六階のあたりに今日の月が居る》に対しては〈句集タイトルからすれば、自分の部屋は三階であろう。仕事帰りの疲れた身体でわざわざ自分の階より上を仰ぎみることはない。しかし、今日の月が明るく「居る」のだ。見上げずにいられようか。なんなら抱きつきに六階まで駆け上がろうか〉と記述。
- 俳句雑誌「奎」14号(6月12日発行)の「座談会 句集を読み合う」(小池康生・仮屋賢一・野住朋可・桐木知実の各氏)が、宮本佳世乃句集『三〇一号室』を取り上げ、〈仮屋「第一印象は、私小説というか、エッセイみたいな句集だなというもの。軽さが心地いい一方で、句を深く、しっかり鑑賞しようとすると難しい句もいっぱいあります」、野住「見たものとかを一旦自分の中に入れて、その自分の中の世界と合体させてから句にしているというような感覚が多くあって、だからこそエッセイを読むような心持ちで、身を任せて読むといいのかなと思います」、桐木「全体に取り合わせ句とかでも、納得や共感が強い句というよりは作者の目線をそのまま出した感じと言ったらいいんですかね。《桟橋に夜の来てゐる鬼胡桃》とか、《群れてをり真空管と花芒》とか。日常の景と、1.5歩くらいずらした世界観みたいな」、小池「独自の言語世界だなあと。それと、特徴的なのは、本当に説明をしない。何か本能的に説明しないってことを持ってらっしゃる人だなと。どうも、この人は自分の境涯というものを語らない。なんかそういうスタンスのある人なんじゃないかなと」〉と合評。