2021年7月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の軸
- 機関誌「現代俳句」(現代俳句協会)5月号の「ブックエリア」において、秋尾敏氏が石寒太編著『よくわかる俳句歳時記』を取り上げ、「歳時記は主観が命」と題して、〈この歳時記の主要な季語の解説には、読者を俳句に誘う熱量がある。それは、それを書いた人が、ひとつひとつの季語を愛して止まないからに違いない。科学的正確さなら百科事典を引けばよい。しかし、歳時記で重要なのは、その言葉の魅力を伝える力だ。この言葉を身に付ければ人生が変わる。世界が明るくなり、明日を生きる力がみなぎる。そうしたことを伝えることが重要だ。石寒太はそこが分かっているに違いない。この歳時記の熱量は半端ではない〉と紹介。
- 結社誌「山繭」(宮田正和主宰)5月号の「現代俳句鑑賞」(松村正之氏)が《戦ぐ陰毛漂ふ魔羅の初湯かな 石寒太》を取り上げ、〈「俳句αアルファ」の編集長をされていた人である。俳句はこんな風にも作れると言う見本のような句と言おうか。上五、中七までは「なんだこれは」という人も、「初湯」によって抵抗感なく着地することが出来るのである。それも男のわびしさまで感じさせられて〉と鑑賞。句は「俳句」3月号より。
炎環の炎
- 総合誌「俳壇」(本阿弥書店)7月号の「現代俳句の窓」に山岸由佳が「アンテナ」と題して、〈蚯蚓の死小学生のきれいな私語〉〈アンテナに鳥わたくしに臍の穴〉など6句を発表。
- 月刊誌「文藝春秋」8月号巻頭の俳句欄に星野いのりが「疼痛」と題して、〈捨てらるる音あかるしやラムネ瓶〉〈疼痛や向日葵畑枯れ始む〉など7句を発表。
- 「第9回俳句四季新人賞」(東京四季出版)が、328篇の応募作品(1作品30句)を予選委員2名(大井恒行・津川絵理子各氏)によって40篇に絞り、その中から選考委員4名(齋藤愼爾・仙田洋子・高野ムツオ・星野高士各氏)により新人賞2篇・新人奨励賞1篇を決定し、総合誌「俳句四季」7月号にて発表。
◎「新人奨励賞」星野いのり作「あかねさす」30句=この作品は仙田洋子氏・高野ムツオ氏の2名が推薦。仙田氏は〈《おとうとに幾度も抱かれたる冬木》《うなそこの鯨骨に雪降りしきる》《火を纏ふごと晶子忌の金魚かな》が一番好きでした。他に《冬茜祀る骨角器の一打》《世は白むかの狼の血は水銀》も面白い句でした。《ファスナーのひらく寂しさ春眠し》は「寂しさ」という言葉をよく持ってきたなと思います。《八月を祖母の手鏡ごと洗ふ》も良かったです。《火は渇きたましひ泳ぎつづけたり》はちょっとどうかなと思いました〉と選評。高野氏は〈良かったのは、《氷柱みな彼方の記憶かもしれず》。「うなそこ」の句も良かったです。《春灯や馬は前足より生まれ》。当たり前の事を言っているようで、生まれてくる感じがリアルに伝わってくる俳句です。「ファスナー」の句は良かったけれど、「春眠し」が気になりましたね。この辺の表現が私には耳障りなところがあるんです。《火を纏ふごと晶子忌の金魚》も悪くないけど、「かな」止めが気になる。《蟬生るるまばゆき水を翅となし》。これは良かったですね。「八月を」の句も目のつけどころがいい。《蜻蛉の翅のみづみづしき葬後》。「みづみづしき」というストレートな言い方が効いていると思います。最後の《肌寒や音渇ききるピルケース》は入れない方が良かったと思います。《流燈をあかるく待つてゐる漁船》も「待つてゐる」まで言う必要はないと思います。そんな不満はありますけれども、魅力的な作品群でした〉と選評。 - 「第73回実朝忌俳句大会」(鎌倉同人会・前年11月中旬より当年1月15日までの事前投句、3月7日の大会は中止)が、応募総数482句から選者4名(星野椿・松尾隆信・宮坂静生・山川幸子の各氏)によりそれぞれの特選三句と実朝賞を始めとする四十位までの入賞句を決定。
◎「鎌倉市教育委員会賞」〈実朝忌比企一族の妙本寺 保田昌男〉=星野椿選「特選」
◎「鶴岡八幡宮宮司賞」〈巻き貝の中の波音実朝忌 曽根新五郎〉 - 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)7月号「令和俳壇」
・夏井いつき選(題「流」「嵐」)「秀逸」〈嵐来る前の大島櫻かな 曽根新五郎〉 - 総合誌「俳句界」(文學の森)7月号「投稿欄」
・中村正幸選「特選」〈大根の穴よりゆるむ大地かな 曽根新五郎〉=〈大根の抜かれる前には、大地と大根の間に強い緊張感が存在した。大根が抜かれたことにより、大地にゆるみが生まれた。そのゆるみは、大地だけでなく自然全体のゆるみとなり、春へと向かう気候のゆるみとなった。このようなことさえ想像させる「ゆるむ」である〉と選評。
・稲畑廣太郎選「秀逸」〈踏青や風の匂ひのにぎり飯 山内奈保美〉
・大串章選「秀逸」〈転勤の社宅の下見風光る 小野久雄〉
・角川春樹選「秀逸」〈空き缶の風車きらきら豆の花 森山洋之助〉
・古賀雪江選「秀逸」〈百畳の使用禁止の寒さかな 曽根新五郎〉
・西池冬扇選「秀逸」〈凸凹のアルミの薬罐多喜二の忌 堀尾笑王〉
・西池冬扇選「秀逸」〈木の芽風電柱ごとに止まる犬 結城節子〉 - 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)7月号「四季吟詠」
・寺井谷子選「秀逸」〈蝶の昼予約の要らぬレストラン 長濱藤樹〉
・宮坂静生選「秀逸」〈ファンファーレの如き一声鳥の恋 山本うらら〉
・宮坂静生選「秀逸」〈花冷のあまりに早き骨拾ふ 曽根新五郎〉
・鈴木節子選「秀逸」〈日向ぼこ幽体離脱はじまりぬ 赤城獏山〉
・渡辺誠一郎選「秀逸」〈線香に線香を足す寒戻り 曽根新五郎〉 - 総合誌「俳壇」(本阿弥書店)7月号「俳壇雑詠」
・能村研三選「秀逸」〈行く春の海の果てとは空の果て 曽根新五郎〉 - 毎日新聞6月15日「毎日俳壇」
・西村和子選「1席」〈黒ネクタイ少しゆるめてかき氷 谷村康志〉=〈真夏の葬儀の帰りだろう。「少し」に死者への配慮がくみ取れる。生者はかき氷の強烈な刺激に甦る〉と選評。 - 朝日新聞6月20日「朝日俳壇」
・長谷川櫂選〈昼寝してみたき部屋あり詩仙堂 谷村康志〉 - 読売新聞6月28日「読売俳壇」
・矢島渚男選〈頬杖をつき時の日の一時間 谷村康志〉=〈時の日だと思いながら一時間を過ごす。時計のなかった遠い昔を想像したのか。慌ただしい現代の中〉と選評。 - 日本経済新聞7月3日「俳壇」
・横澤放川選〈飛魚に追ひ抜かれつつ隠岐航路 谷村康志〉 - 読売新聞7月5日「読売俳壇」
・矢島渚男選〈青竹の寺の井戸蓋半夏雨 堀尾笑王〉 - 毎日新聞7月11日のコラム「季語刻々」(坪内稔典氏)が、《夏の朝草の力で艸を抜く 三井つう》を取り上げ、〈私はこの句から八木重吉の詩「草をむしる」を連想した。「草をむしれば/あたりが かるくなつてくる/わたしが/草をむしつてゐるだけになつてくる」。かるくなるという感じがとっても好きだが、つうさんの句の「草の力で艸を抜く」もいいなあ。草と一体化している〉と鑑賞。句は句集『さくらにとけて』より。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)7月号の「名句水先案内」(小川軽舟氏)が《ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ 田島健一》を取り上げ、〈句集『ただならぬぽ』(二〇一七年)所収。田島健一(一九七三~)は石寒太に師事。むずかしい言葉は一つもないが、言葉が意味をなすことを求める人には最後まで素っ気ない句集である。掲句はその表題作。「ぽ」とは何だろうと足を止めると、唇が勝手に覚えて「ぽ」を繰り返す〉と解説。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)7月号の「合評鼎談」(伊藤伊那男・堀田季何・髙柳克弘の各氏)の中で、同誌5月号掲載の関根誠子作「沈黙」について、〈堀田「《日の幹に触るる人見てあたたかし》 日が当たっている木の幹の温かさに触れている人がいて、その人を見ている自分がいて、その人を見ていることで、間接的ですが温かさを感じる。今どき、幹に触れる人がいるということの貴重さ。ある意味、社会詠にもなっているんじゃないか。 《白湯呑んでさてもモノクロームの春よ》 〈さても〉がなかなか、〈白湯〉と韻を踏んでいて面白い。白湯自体、味気ないもので、白かグレーか分からないような微妙なところ。新型コロナウィルスが流行っている今、白湯を呑んでいると、全てがモノクロームのように見えてしまう。 《菱餅焼いて醤油をつけて自愛の日》 丁寧にきちっと餅に醤油をつけているところが〈自愛の日〉に結び付く」、髙柳「その句、いいと思います。「菱餅」は雛祭に、その家の女の子のために設えるものです。でも、ここでは自分で焼いて、お醤油をつけて、自愛するために食べている。家族も立派に成長して、自分だけの日々を過ごしている。ちょっと寂しさも含まれているが、そういう悠々自適な日々の楽しさみたいなものがこういう句には出ている」、堀田「《喪の春や束ねる紐を逃ぐる髪》 〈喪の春〉、身内が亡くなったこともあるかもしれないし、世の中全体の、今の疫病の空気感かもしれないが、いろいろな制約がある中、「髪がうまくまとまらない」ことで全て気持ちを表したのがうまい」、伊藤「最後の三句がいい。 《風光るひかりて人を攫ひゆく》 〈喪の春や〉の句と、 《春風の彼岸に目覚め新仏》 つい最近、かなり親しい人が亡くなったのか。感覚的な詠み方がいい。 《沈黙といふ猛き声さくらの芽》 「さくらの芽」を〈沈黙といふ猛き声〉という捉え方は独特ですね。たしかに、あの「さくらの芽」は、もし声を出すとすれば猛々しい声かな。咲いた花とはまた違う雰囲気で。そういう類型のない表現ができたところが面白い」、髙柳「伊那男さんの挙げられた句に見られる通り、いい意味でのふてぶてしさ、肝の据わったところがある作者だ。〈猛き声〉と〈沈黙〉は逆のことだが、それをイコールで結び付けてしまった。なかなかできることではない。しかし、これから桜が咲き出す前の沈黙には〈猛き声〉が含まれているということは、「さくらの芽」で納得できるところがある。 《芹摘むや角のとれたる風を頰》 スタンダードにうまい句。芹を摘んでいるころにだんだん風が温かくなってきた。それで〈角のとれたる風〉と表現しているが、そこだけではなくて、最後、粘り強く〈頰〉を出した。〈頰〉が千金の価値があるというか。どこで風を感じているかを示すだけで読者とのパイプができる。読者が共感しやすくなるところがあるので、ここは丁寧に最後まで粘り強く表現した。作者の粘り勝ちではなかったか」〉と合評。
- 総合誌「俳句界」(文學の森)7月号の「この本この一句」において才野洋氏が増田守句集『回帰』から《雨の夜は角研ぎにけり蝸牛》を取り上げ、〈あとがきによると著者は弁理士をしておられるようであり、そうであればこそ「良い俳句は、事象の本質をついた斬新な発想にある。独創性のある知的所産として、俳句と発明には強い親和性がある」との言葉も出てくるのであろう。なるほどこの句集には、独創的な感性に基づいた、事象の本質に迫る作品が収められている。一句もその一つだ。「蝸牛」に「雨」を合わせるのも、「角」を合わせるのもよくあることではあるが、「角研ぎ」はこの作者でなければ出来ない発想であろう。蝸牛が角を研ぐなど、普通は発想できない。しかし作品として仕上がったものを見ると納得が出来るのだ。これこそが、作者の言うところの“事象の本質をつく”ということだろう〉と鑑賞。
- 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)7月号の「俳句へのまなざし」(大西朋氏)が、《芹摘むや角のとれたる風を頰 関根誠子》を取り上げ、〈普通に表現するならば「風頰へ」だろう。だが「風を頰」とすることによって「角のとれたる」柔らかな春の風を、より愛おしむ表現となった〉と鑑賞。句は「俳句」5月号より。
- 結社誌「小熊座」(高野ムツオ主宰)6月号の「星座渉猟」(千倉由穂氏)が《光る字を押すと湯の沸く雪夜かな 田島健一》を取り上げ、〈光る字とは、壁に備え付けられた給湯器のリモコンのボタンのことだが、一読した瞬間は分からなかった。「光る字」と表現されると、途端に生活感が消え、「風呂」という用語を使わず、「湯の沸く」という表現を用いたことや、「雪夜」の季語との呼応により、日常を詠みながら神秘さを湛えた一句〉と鑑賞。