2023年4月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の炎
- 総合誌「俳句界」(文學の森)4月号の「北斗賞受賞作家競詠」に西川火尖(第11回北斗賞受賞)が「レッスン」と題し、〈日暮れても水仙の真似させてをり〉〈寒椿声の高低使ひ分け〉〈声変はりしてストーブを囲みたる〉など7句と短いエッセイを発表。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)4月号の「作品12句」に宮本佳世乃が「ぽつこり」と題し、〈あはゆきの午後の来るを言はざりき〉〈三月の山もりあがるうねるゐざる〉〈灯台のぽつこり伸びて春の海〉〈光りつつシャベルをすべる春の砂〉など12句を発表。
- 本田巖(炎環での俳号は赤城獏山)が、句集『夕焼け空』を文學の森より2022年9月11日に刊行。鈴木章和氏(「翡翠」主宰)が序を認め、〈本田巖さんを地熱のような人であると思っている。 《束ねては光で締める今年藁》 今でもこの句を思うたびに稲の匂い、土の香りにときめいてしまう。 《父が来てぶつきら棒に葱を焼く》 「翡翠」誌三十号に初登場した時の一句にこれがある。私が密かに〈本田巖の“父の賦”作品〉と呼んでいる一作だ。このテーマは折り折りの機会、それはつまり生前の父の闘病から逝去後の現在に至るに従って深まりを見せて行くが、それが本書の読みどころとなっている。平成十四年、会社を退くにあたって本田さんは詩作と農作業に本腰を入れる決意をされた。農業、それもふつうの労働ではない。何十種類もの野菜を毎年替えて作付をしているのだという。その上さらに、毎日二十句以上の作句を課しているというのだから、本田さんにとって、俳句を作るのと野菜を作るのは同じ作業なのである。本句集に収められた農事俳句は、彼の精神と思索が労働と一体化していていい〉と紹介。
- 「第54回埼玉文芸賞」の俳句部門(選考委員は岩淵喜代子、尾堤輝義、田口紅子)において波田野雪女句集『むらさき野』を「佳作」と評価。
- 総合誌「俳壇」(本阿弥書店)4月号「俳壇雑詠」
・辻桃子選「秀逸」〈数へ日のあをく減りゆく砂時計 曽根新五郎〉 - 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)4月号「四季吟詠」
・由利雪二選「秀逸」〈降誕祭腕を伸ばしてラブの手話 山本うらら〉
・由利雪二選「秀逸」〈進化と言ふ退化の歴史海鼠食ふ 森山洋之助〉
・渡辺誠一郎選「秀逸」〈海神へ向かつて冬の流れ星 曽根新五郎〉
・渡辺誠一郎選「佳作」〈鋳像の深き半眼初時雨 松橋晴〉
・寺井谷子選「佳作」〈残照の湖残照の冬紅葉 曽根新五郎〉 - 総合誌「俳句界」(文學の森)4月号「投稿欄」
・能村研三選「秀逸」〈行間のこころの余白一葉忌 曽根新五郎〉 - 読売新聞3月14日「読売俳壇」
・小澤實選〈草を食む牛の脱糞春の風 谷村康志〉=〈野の草を食べながら、牛が脱糞をしている。あたたかな春の風が吹いていて、牛が至極リラックスしていることがわかる〉と選評。 - 産経新聞3月16日「産経俳壇」
・宮坂静生選〈神童と言はれて今は枯すすき 谷村康志〉 - 読売新聞3月20日「読売俳壇」
・宇多喜代子選〈幸せな愚痴の数々草団子 谷村康志〉 - 産経新聞3月23日「産経俳壇」
・宮坂静生選〈寒紅をさす思春期の男の子 谷村康志〉 - 毎日新聞4月3日「毎日俳壇」
・西村和子選〈春の灯や筆の進まぬ推薦状 谷村康志〉 - 毎日新聞4月3日「毎日俳壇」
・片山由美子選〈捨て猫の鳴き声しきり春の闇 谷村康志〉 - 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)4月号の特集「575は突然に~俳人誕生STORY」という「今活躍中の俳人に、どんなタイミングで俳句を始めるようになったのか語ってもらう」企画において近恵が、《マフラーをぐるぐる巻きにして無敵 近恵》の1句を掲げ、〈俳句を始めたのは、二週間ばかり入院する事になった際、暇つぶしにと馴染みのバーのマスターに勧められたのが切っ掛けだった。友人に歳時記なるものを買ってきてもらい、とりあえず俳句っぽいものを作り始めた。始めてみると言葉はいくらでも出て来た。二カ月後には「炎環」に入会。半年後には一日十句をスタートさせ一万句まで続けた。掲句は二年目の冬、吟行に参加した際に詠んだ句。その翌年参加した合同句集『きざし』にこの句を入れ、批評会では好評ながらも「なんでもあり」「俳句離れしている」と評を頂いたが、逆にそれが良かった。私の作品のスタイルは私が決めるのだ。それから少しして私は作品を旧仮名から現仮名に改めた。それは結果として大きな転換点となったが、転換の切っ掛けがこの一句と今は思う〉と述懐。また同じ企画において星野いのりが、《月眩しプールの底に触れてきて 佐藤雄志》の1句を掲げ、〈高校時代、アニメ「BLEACH」の主人公が斬魄刀を振るう絵のクリアファイルがほしくて入部した文芸部は、俳句甲子園の地方大会に毎年出場し、掲句の書かれたポスターが貼ってあった。当時母校は一度も全国大会の経験のない手探りな状態であり、私は俳句甲子園の作品集を読み込み、どんな句が評価されるか分析することで俳句を勉強していた。掲句は第一五回俳句甲子園最優秀句であり、私はこの句から切れや定型、季語や助詞の使い方など基礎的なことを学んだように思う。私の原点は全国の同世代の(一部を除き)無名な高校生たちの俳句にあり、歴史的な名句でないことに少しの恥ずかしさと嬉しさがある〉と記述。
- 総合誌「俳句界」(文學の森)4月号の特集「俳句の革新者たち」において「あなたにとっての俳句革新者は誰か」の問いに田島健一が、〈自分の内にある「俳句革新者」という小さな椅子――さて、そこには誰が座っているのだろう、とさまざまな俳人の名前をあれこれと当てはめてみるのですが、誰を座らせてみてもどうにもしっくりいきません。古今東西の「俳人カタログ」から選ぶように、自分にとっての「俳句革新者」を選ぶのが、どうやら難しいみたいです。私にとって、この「俳句革新者」という椅子は、自分の考える「俳句」の中に最初から組み込まれた、「変数X」という埋められない空間であると思います。その「変数X」という場所が誰かによって占められた瞬間に、自分にとっての「俳句」は、新たに生みだしたり、それについて思い悩んだりする対象ではなくなってしまう――そんなものであるように思います。これは決して「私にとっての俳句革新者は誰か」というテーマをはぐらかしているのではありません。ここで私が手放したくないものは、このテーマによる問いこそが「俳句」を支えている重要な構造である、ということなのです。この構造は決してジャンルとしての「俳句」という概念だけのものではありません。それは一句一句の作品において個別に実現されるべく、多くの俳人たちによって常に努力が続けられている、俳句への望みとでも呼べるものではないでしょうか。「俳句革新の多様性」とは、俳句における「変数X」を埋めることができる「誰か」を歴代の(あるいは現代の)「俳人カタログ」から自由に選択できる、ということではありません。「俳句革新者」という空間が、常にそれを埋めることが不可能な、かけがいのないものとして大切に守られている、ということ――それが私にとっての「俳句」の姿で、俳句を書くことの楽しみのすべてだと言っても、言い過ぎではないような気がしています〉と論述して回答。
- 総合誌「俳句界」(文學の森)4月号の特集「くちずさみたくなる俳句~舌頭千転」において「私が口ずさみたくなる俳句」というテーマで岡田由季が、〈朴の葉の落ちをり朴の木はいづこ 星野立子〉〈雪たのしわれにたてがみあればなほ 桂信子〉〈即興に生まれて以来三輪山よ 和田悟朗〉〈悲しみの牛車のごとく来たる春 大木あまり〉〈蝶になる途中九億九光年 橋閒石〉の5句を挙げ、〈第一に韻律のよいこと、句の内容が印象鮮明であること、口唱することで何らかの体感が得られることが、私にとってくちずさみたくなる俳句の条件のようだ〉と述べ、大木あまりの句については〈牛車のようにという比喩に複雑な味わいがある。悲しみが急激にではなく、じわじわと、振り払うことの不可能な重量感をもって迫ってくるのである。そして貴族の乗り物である牛車は、不思議な華やかさも纏っている。悲しい時、映画を見たり音楽を聴いて泣き、カタルシスを得るということがあるが、この句をくちずさむことによる悲しみの追体験も、そのような浄化作用がありそうだ〉と記述。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)4月号の「新刊サロン」が「岡田由季が評する角川書店の新刊」を掲載。岡田はここで柴田美佐句集『深紅』と赤木和代句集『黄炎』を批評しつつ紹介。
- 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)4月号の「一望百里」(二ノ宮一雄氏)が本田巖(赤城獏山)句集『夕焼空』を取り上げ、〈《風呂敷を解きて夕焼放ちけり》《明日ねといひ夕焼を追ひゆきぬ》《駅長の白手袋も夕焼くる》 句集名を採った夕焼の句が三句ある。中でも一句目が作者の特長を最もよく表していよう。 《糸底を切りて秋日をたたせおく》《谷川の音を呑みたる雲の峰》《二ン月の紙の白さを剪りにけり》 物の本質を独自の感性で詩的に捉えていて見事である〉と紹介。
- 同人誌「鬣TATEGAMI」(林桂代表)第86号(2月20日発行・季刊)の中川伸一郎氏による「書評」が三輪初子句集『檸檬のかたち』を取り上げ、〈生活感のある句、というか題材は店を畳んだ後の日常生活そのものと想像する。その生活のディテールの切り取り方に自在さがあると感じた。何気ない日常生活の積み重ねが、あるタイミングで別の世界に飛躍する。それがとても瑞々しい。 《芽キャベツの見る夢きつと杜の夢》《シュレッダーの言葉のかけら冬銀河》◆《俎板をはみ出す生涯葱一本》《瓶の蓋なかなか開かぬ建国の日》◆《焼豚のタコ糸の跡納税期》《オードブルアスパラガスのパの元気》 二句隣り合わせを三つ挙げたが、配置が絶妙なのだ。「芽キャベツ」と「シュレッダー」、「俎板」と「瓶の蓋」、「焼豚のタコ糸」と「アスパラガスのパ」。編集の意図は明確に書かれていないが、一句の中での取り合わせだけでなく、句の配置にも飛躍の自在さがあると思った〉と紹介。
- 同人誌「鬣TATEGAMI」(林桂代表)第86号(2月20日発行・季刊)の瀧澤航一氏による「書評」が本田巖(赤城獏山)句集『夕焼空』を取り上げ、〈作者は昭和十七年生まれ。これが第一句集。六十代後半から令和四年までの十数年の句が収められている。魅力を感じた句を順に〉として、《鶴を折りまた梅雨冷えを抱へこむ》《無花果煮てとろとろとした夜のきたる》《ぴよんぴよんと素足五月を跳んでくる》《初夏は16ビートでやつて来る》《楤の芽を猪のごとくに食らひけり》など19句を挙げ、〈日常に腰を据えてものを確かにつかんでいる。生き生きとした句は先達への敬意が深い。《火屋みがく蛇笏の背の春の雪》など、飯田蛇笏(そして龍太も)は作者にとって俳句作家として一つのモデルなのではと思った。この句集の向こうには書きとめられた膨大な句があるのだろう。だから、日々の微かな変化、ゆらぎ、迷い、決意など本人にしかわからないものを句がまとっているに違いない〉と紹介。