2023年7月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の炎
- 前島きんやが、句集『紺の背広』を紅書房より6月8日に刊行。序文を石寒太主宰が「実直で心やさしい人」と題して認め、〈『紺の背広』は前島きんやさんのサラリーマン生活の象徴そのもののような題名である。「紺」と「背広」も彼そのもの……。一見没個性の銀行員そのものでありながら、まさに生きてきた彼の軌跡そのものではないか、そう思った。きんやさんは、銀行員として二十七年間、さらにその後出向した大和自動車交通での二十七年間、合せて五十四年間のサラリーマン生活を無事に過ごし終え、いまそれをすべて卒業しようとしている。この句集には、そんな彼の生きた軌跡が、びっしりとつまっている。私にはそのように思えるのだ。この句集には、きんやさんの五十四年の歴史の中に繰り返される、春・夏・秋・冬の四季があり、内容も、就職・結婚・子育て・転職・父母の死・子供たちの結婚・孫の誕生などなどの生活の営みが、季節の移ろいとともに直に伝わってくる。それがこの句集のいいところである〉と紹介。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)7月号の「作品12句」において柏柳明子が「玩具」と題し、〈甘藍を噓の見つかるまで剝がす〉〈木葉木菟まなこに夜の揺れてゐる〉〈糸ほどの水に噴水果てにけり〉〈夜濯や玩具に話しかける母〉など12句を発表。
- 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)7月号の「俳句と短歌の10作競詠」に西川火尖が「露光」と題して、〈よき声の持主を連れ旱星〉〈夏痩の妻が少年ジャンプ読む〉〈天牛や遊びの中の王と臣〉〈噴水やおろかに匂ふ果汁グミ〉など10句を発表。当企画での競詠相手は歌人の田口綾子氏で、西川は作品に添えて〈私は詩歌で記憶を揺さぶられるのが好きで、揺さぶられた記憶から生まれる俳句も好きで、田口綾子さんの『かざぐるま』にぼろぼろに刺激されながら記憶が次々と開いていった。七月の同棲の句を作ろうと思った。しかし私は七月の記憶そのままの句にはしなかった。記憶を元に記憶と違う句を詠むということが、どうやら自分の中で想像以上に手法として馴染んでいるようだった。記憶の曖昧さの分だけ補正をかける。推敲するように噓を混ぜる。記憶よりも真実よりも「俳句」であることを優先させる。俳句とは何かは人それぞれに答えがあるだろうが、仮に「旱星」や「少年ジャンプ」や「果汁グミ」が当時その場に無かったとしても、いや、なかったからこそ、そこに私のありようが強く反映されていると思うのだ〉と叙述。また〈夏痩の〉の句について田口綾子氏は〈少年ジャンプを手に取ったのは、退屈しのぎだろうか。それとも、昔からの愛読誌に触れることで、少しでも元気を取り戻そうとしているのだろうか。いずれにせよ、「妻」が全身から少しずつ脂肪を失って“少年”のような体つきに、あるいは“少年”そのものに近づいてしまっているのではないかとひやりとする。たとえこの「少年ジャンプ」が西川さんの“記憶”の外から現れたものだとしても、私が受け取った手触りは確かなものだと思う〉と鑑賞。
- 「第六回俳句四季新人奨励賞」を内野義悠作「夜へ跳ねて」(30句)が受賞。これは第一一回俳句四季新人賞に応募の296篇を予選委員2名(天野小石・田島健一)が40篇に絞り、そこから選考委員4名(井上弘美・岸本尚毅・対馬康子・渡辺誠一郎)が新人賞1篇、新人奨励賞2篇を決定したもので、総合誌「俳句四季」7月号に発表。「夜へ跳ねて」を1位に選んだ渡辺氏は選考会において〈「夜へ跳ねて」は、突出した作品はないとは思いますが、一定の水準に達しています。何より言葉のセンスがいいと思いました。言葉の斡旋の仕方が新鮮で、新人賞にふさわしい作品だと思いました。今までに色々詠まれてきた素材ではなくて、「動画」や「レプリカ」という言葉を使って、今どきの言葉を浮き足立たずに一句にしていて、結果として面白いセンスのある世界を作っています。「狐火やデータのままの写真たち」。「たち」がどうなのかというのはありますが、「狐火」との取り合わせの不思議さが面白い。「雪しんしんカップスープにゆるき渦」。「カップスープ」ゆえに「ゆるき渦」が別のものに見えてくるし、季語の「雪しんしん」も新鮮に思えてくる。「胎名を授けてよりの水温む」。この句はクラシックな感じですが、実感がこもっています。「みどりの夜どれかは効いてゐるサプリ」。「サプリ」という言葉を「みどり夜」の中にきちんと取り込んで一句に仕立てています。「どんぶりの底の屋号や天高し」も俗臭が働いて面白い。「折り合ひのつくまで霧へ浸す唇」もセンスが良いですね。新人賞にふさわしく、ぶれの少ないセンスのある世界をまとめているのではないかと思って推しました〉と評価。
- 「第二三回「俳句四季」全国俳句大会」が大賞1句、優秀賞2句を決定して総合誌「俳句四季」7月号に発表。
◎「優秀賞」〈青空の果ては戦場大根引く 阪上政和〉=選者の一人である宮坂静生氏は〈一句の構造が意外性を含みながら、全体として一つの問題を読み手に投げかけている点がすぐれている。「青空の果ては」とは平和を暗示する。ところが「戦場」とは意外性である。遠い地とはいえ不安を抱えることになろう。ともかく「大根引く」作業を続けて、作者は不安な気持ちを読み手に投げかけることで共犯者を作った一句である〉と選評。 - 総合誌「俳壇」(本阿弥書店)7月号「俳壇雑詠」
・能村研三選「秀逸」〈吊りさがる朧月夜の一夜干し 曽根新五郎〉 - 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)7月号「四季吟詠」
・由利雪二選「特選」〈古雛や続きより鳴るオルゴール 山本うらら〉=〈祖母より母へか、いやもっと時代を遡るのか。「古雛や」にはこうした想いがある。雛とともにしまわれていたオルゴールはこれも古い。「続きより鳴る」は作者と雛との時間を想像させる。発想自体に新しさがあり、さまざまな想像が生まれる。掲句は「省略と想像」というこれからの課題を実作で解いて見せた〉と選評。
・由利雪二選「秀逸」〈磯の間の朧月夜の湯壺かな 曽根新五郎〉
・冨士眞奈美選「秀逸」〈青き目の庭師ほおばる鶯餅 阪上政和〉
・渡辺誠一郎選「秀逸」〈釣るつもり無き釣り竿の日永かな 曽根新五郎〉
・渡辺誠一郎選「佳作」〈キリストの最後の「ことば」蓬摘む 松橋晴〉
・寺井谷子選「佳作」〈明日葉の二人暮しの二人分 曽根新五郎〉
・今瀬剛一選「佳作」〈鳥帰る養豚トラック二段立て 永田寿美香〉
・今瀬剛一選「佳作」〈手洗ひに手折りの一枝木瓜の花 森山洋之助〉 - 総合誌「俳句界」(文學の森)7月号「投稿欄」
・能村研三選「秀逸」〈名刀の刃紋のかたち花の雲 曽根新五郎〉 - 毎日新聞6月13日「毎日俳壇」
・西村和子選「一席」〈夏立つや頰に洗車の水しぶき 谷村康志〉=〈水しぶきがかかっても、その冷たさが心地よい。そんな時、夏を実感する。現代の生活者の季節感が共感を呼ぶ〉と選評。 - 産経新聞6月29日「産経俳壇」
・寺井谷子選〈新緑に風音を添へ奥の院 谷村康志〉 - 日本経済新聞7月1日「俳壇」
・横澤放川選〈をけら焚く外厠にも神坐す 谷村康志〉=〈おけらの根を干した蒼朮を燻して蚊や湿気を払うという。農の生活には厠やどこにも神が坐す〉と選評。 - 朝日新聞7月2日「朝日俳壇」
・大串章選「一席」〈花菖蒲よはひ卒寿のワンピース 渡邉隆〉=〈「卒寿」のワンピースがすてき。「花菖蒲」とよくお似合いです。因みに、花菖蒲の花言葉は「優しい心」〉と選評。 - 読売新聞7月3日「読売俳壇」
・正木ゆう子選〈わが足に挑む小魚箱眼鏡 谷村康志〉 - 毎日新聞7月3日「毎日俳壇」
・片山由美子選「一席」〈リビングにきのふの匂い明易し 谷村康志〉=〈部屋にいたのでは気づかない生活の匂いがある。夏の明け方、ふと眠りから覚めたときに感じた匂いは「きのふ」のなごり〉と選評。 - 産経新聞7月6日「産経俳壇」
・宮坂静生選〈幽霊のごとく尼僧の夕端居 谷村康志〉 - 日本経済新聞7月8日「俳壇」
・神野紗希選〈寄付の件逸らし香水褒めにけり 谷村康志〉 - 総合誌「俳句界」(文學の森)7月号の特集「魂の俳人 村越化石」の中の「一句鑑賞」において、田島健一が《ふと覚めし雪夜一生見えにけり》の一句を取り上げ、〈掲句は昭和四十九年に刊行された化石の第二句集『山國抄』に収録されている。四十八歳の若さで両眼を失明した化石にとって、「見る」という行為には「光学的に見る」という以上の意味がある。つまり、掲句の「見えにけり」は、光学的な意味で「見えた」のではない。かといって、これを観念的な表現として解釈すべきでもないだろう。ここで化石は、「見えたもの」を事後的に句に仕立て上げたのではなく、むしろこの句を詠んだこと自体が、化石にとって「見る」という行為そのものなのである。それは光学的にものを「見る」よりも、より深い洞察を句に与える。むしろ、晴眼者にとっては「光」がものを「見る」ことを邪魔している、と言えるかも知れない。しかし「光」が物を「見えさせた」のではないのなら、化石にものを「見えさせた」のはいったい何だろうか。実は、それこそがこの句の〈意味〉であり、化石にこの句を詠ませた〈主体〉でもある。残念ながら、それを別の言葉で言い表すことはできない。それは読者一人ひとりが、この句から静かに感受すべき最も重要なものである〉と鑑賞。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)7月号の「田島ハルの妄想俳画」(田島ハル氏は漫画家、イラストレーター)が《四月からしゃかりきに海藻でいる 田島健一》を取り上げ、ユーモラスで楽しいイラストに添えて、〈四月は新年度に伴って心新たに抱負を掲げる人がいると思う。「しゃかりきに働く」「しゃかりきに勉強する」とか。掲句は〈しゃかりきに海藻でいる〉らしい。無関心に無責任に、波の流れにまかせてただ揺れている姿が目に浮かぶ。確固たる決意をもっての脱力の姿勢だ。さて、現在はどうだろう。達者で揺れているだろうか、近隣の海藻と絡み合ってトラブルになっていないだろうか、採られて干されて図らずもいい出汁になっているだろうか……〉と鑑賞。句は「俳句」6月号より。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)7月号の「新刊サロン」が「岡田由季が評する角川書店の新刊」を掲載。岡田はここで西池みどり句集『森は今』、和田桃句集『蝶』の2冊を批評しつつ紹介。
- 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)7月号の「一望百里」(二ノ宮一雄氏)が、三輪初子句集『檸檬のかたち』を取り上げ、《切る前の檸檬のかたち愛しめり》《草紅葉いまさら戻る道のなし》《戦争の終はらぬ星の星まつり》など6句を引き、〈己れの生きる「かたち」をしっかりと持って邁進している作者である〉と紹介。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)7月号の実作特集「五感を深める」において「組み合わせが秀逸な名句」というテーマを担当した小野裕三氏が、名句7句の一つに《足の指開きて進む西瓜割 齋藤朝比古》を選び、〈最後の季語に辿り着くまでは何のことだかはっきりしない句でもある。この下五によって、句に明確な輪郭が与えられる。足はおそらく裸足で砂浜の上を歩いていて、だから少しばかり熱を感じてもいるし、ざらざらもしているだろうし、砂が指の間の隙間にも入って来たりして、触感の際立つ句でもある。そして西瓜割のルールとして、この人物はおそらく目隠しをしているだろうと推察できる。際立った足裏の触覚と、まったく閉ざされた視覚、という二つの感覚の対照的な対比が効果的に働く。日常的にはむしろ人の意識は視覚が中心で足の裏の触覚はあまり意識されないだろうから、その転倒ぶりが面白い。上五中七で確かな触感を辿りながら、下五で急転して幕を閉ざすかのように視覚的反転を演出する。文字どおり小さなドラマとも言える展開で、五感の組み合わせが時間の流れの中で巧みに活用される〉と解説。句は句集『累日』より。
- 総合誌「俳壇」(本阿弥書店)7月号が渡部有紀子氏の特別寄稿を掲載、「子ども俳句―その現状と可能性―」と題するその論考の中で、氏は《非正規は非正規父となる冬も 西川火尖》を引用し、〈労働市場の流動化は多くの非正規雇用で働く若年層を生み出し、正規雇用への転換の道は依然狭きままである。この背景を踏まえないと、この句は理解しきれないだろう。現代の子育てを詠んだ句を鑑賞するために、今身近に子どものいない人であっても、現代の子どもや子育て世代を取り巻く社会情勢に関心を持ち、街中で見かける子連れの人たちの様子を俳人の目を働かせて見てほしい。それは自分が子育て中でなくとも、子どもの俳句を詠める可能性も拡げる〉と論述。句は句集『サーチライト』より。
- 結社誌「浮野」(落合水尾主宰)7月号の「ひびく句・ひらく句」(龍野龍氏)が《普段着のすこし余所行きめく帰省 齋藤朝比古》を取り上げ、〈俳句では「帰省」は夏の季語、実際には八月の旧盆のイメージが強い季語である。また、同じ帰省とは言え、若い世代の帰省と、年配者の帰省とでは、様相が随分違ってくるものである。掲句は後者の句である。帰っていく実家の状況も変わって、いわば世代交替もあっただろう。昔のように「普段着」ではなく「すこし余所行き」と感じる年齢になったということである。歳月の流れを感じさせる「めく」を効果的に使った巧みな諷詠である〉と鑑賞。句は「炎環」2021年10月号より。
- 雑誌「月刊社会教育」(旬報社)6月号の「俳句の風景」(棟方武城氏)が《ともだちの流れてこないプールかな 宮本佳世乃》を取り上げ、〈プールを詠んだ俳句としては異色である。遊園地のプール開きは6月末には行われる。作者は友だちと早速プールへ連れ立って出かけた。そして流れるプールの別々の口から同時に歓声を上げながら滑り降りた。作者がプールへ滑り降りたが、居るはずの友だちがいない。一瞬不安になった作者の感覚が巧みに表現された、まるで青春の一ページを見るかのような一句である〉と鑑賞。句は句集『鳥飛ぶ仕組み』より。