2023年8月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の炎
- 「俳句で詠みたい文京区」(文京区観光協会)がたくさんの応募作品から佐怒賀正美選により特選3句、入選10句を決定し、7月31日ホームページに発表。
○「入選」〈黄落やドームすれすれ飛行船 田辺みのる〉 - 「宇多喜代子&星野高士の句会コース」(NHK学園)「2023夏句会」
・題「夏の雲」宇多喜代子選「秀作」〈戦跡を巡る父子よ夏の雲 たむら葉〉 - 機関誌「俳句春秋」(NHK学園)173号(夏号)「俳句倶楽部・課題詠」
・題「茄子」三村純也選「入選」〈水はじき光はじきて初なすび たむら葉〉 - 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)8月号「四季吟詠」
・浅井愼平選「特選」〈花冷の香炉の灰の白さかな 曽根新五郎〉=〈万物は有情である。灰の色にさえ、こころは揺れる。作者はそのような感情を逃さず捉えた。そしてその背後にあるものは深々とした人生への眼差しだ。花冷えの透明感が満ちていた〉と選評。
・浅井愼平選「佳作」〈クスクスと空を食ひをり楠若葉 松橋晴〉
・上田日差子選「秀逸」〈万緑や鴉は黒しその影も 阪上政和〉
・秋尾敏選「佳作」〈堕天女は星を忘れしさくら餅 松橋晴〉 - 総合誌「俳句界」(文學の森)8月号「投稿欄」
・西池冬扇選「秀逸」〈電柱に鴉の巣ある町に越す 小野久雄〉 - 読売新聞7月11日「読売俳壇」
・矢島渚男選〈岸に着くまでの一服藻刈舟 谷村康志〉 - 読売新聞7月17日「読売俳壇」
・宇多喜代子選〈指で拭くほどの泪や走馬灯 谷村康志〉 - 毎日新聞7月17日「毎日俳壇」
・西村和子選〈吟行の膳に露打ち偲ぶ会 谷村康志〉=〈「膳に露打つ」とは懐石料理の季節の工夫。涼しげな趣向に故人の人柄もしのばれる〉と選評。
・井上康明選〈理不尽な死がまたひとつ蓮の花 谷村康志〉 - 読売新聞7月24日「読売俳壇」
・矢島渚男選〈涼風や俄か仕立てのタコ焼屋 谷村康志〉 - 毎日新聞7月24日「毎日俳壇」
・小川軽舟選〈梅雨寒や昇降機なき雑居ビル 谷村康志〉=〈エレベーターのない古い雑居ビル。何の商売かわからない入居者もいそうだ〉と選評。 - 産経新聞7月27日「産経俳壇」
・宮坂静生選〈菓子折を賄賂のやうに夏座敷 谷村康志〉 - 毎日新聞7月31日「毎日俳壇」
・井上康明選〈夏草や摩滅はげしき磨崖仏 谷村康志〉 - 毎日新聞8月7日「毎日俳壇」
・片山由美子選〈工場の廃墟と化して月見草 谷村康志〉 - 産経新聞8月10日「産経俳壇」
・寺井谷子選〈夏負けの漢方薬の苦味かな 谷村康志〉 - 日本経済新聞8月12日「俳壇」
・神野紗希選〈ひとり食む苺や古き母子手帳 谷村康志〉 - 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)8月号の大特集「日常も詩へ、推敲のコツ」における「推敲ポイント」の中の、「視点や場面」というテーマを岡田由季が担当、「推敲というセルフ・カウンセリング」と題して、〈一般に俳句を推敲すると言えば、細かな措辞や語順を整えるというイメージがある。どこからどこまでを推敲と呼ぶかにもよるが、一句がその着想から完成形に至るまでの間には、措辞や語順を整えるという範疇を越えて、その視点や場面を見直し、時には内容を変えてしまう場合もある。私の場合はどうやら、実景の描写から作句しはじめ、それを整えていくだけでは一句として成立しないと思ったときに、視点や場面を見直しているようだ〉と述べて、自身の句〈スカートに鏡ちりばめ冬の園〉〈雉の駆け込みし玉ねぎ小屋の裏〉の2句(いずれも句集『中くらゐの町』所収)について、着想から推敲の過程をつぶさに披露、そのうえで〈このように書いてみると、私の場合、一句の視点や場面を変えるケースというのは、極めて個人的な事情や感覚に基づいており、苦し紛れの行き当たりばったりの結果であり、とても作句方法として提示できるようなものではない。しかしこの四苦八苦の作業は、ほんとうに書きたかったもの、句のエキスのようなものを探す道のりにも思えるのだ。最初に句材に目を留め、俳句としてまとめようと思ったときに、無意識にまとわりついているもやもやとしたものがある。作句の隠された動機のようなものである。推敲において何を捨て何を残すか考える際、ときには、実景よりも、そのもやもやの方が重要で、それを中心に据えることでより自分の書きたかった世界に近づくことがある。場面や視点を変えるというのはそういうことではないだろうか。未完成の句を客観的に眺め、作句動機や、それに叶う表現を探るのは、一種のセルフ・カウンセリングのようなもので、自分の内面への気付きになる〉と論述。
- 毎日新聞7月12日のコラム「季語刻々」(坪内稔典氏)が《一人でも食べることありかき氷 岡田由季》を取り上げ、〈最近、積極的に一人で食べている。スーパーのフードコートやファミリーレストランで。ときどき注文でまごついたり食器の返却を間違えたりする。以前はもっぱらなじみの店で食べていたが、まごつくことをエンジョイしている〉と鑑賞。句は句集『中くらゐの町』より。
- 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)8月号の「俳句へのまなざし」(大西朋氏)が《蛇穴を出る大きな風のあるインド 田島健一》を取り上げ、〈最近、旅系ユーチューブをよく視聴している。自分ではなかなか行けない国々の今を見ることはとても刺激的で面白い。中でもインドの壮大さ、混沌さ、ユニークさは別格である。昔『インドの大道商人』という本を読み、あらゆる職業が路上で営まれ、衝撃を受けたことがある。「大きな風が吹くインド」ではなく掲句の「大きな風のあるインド」の「ある」が正に何でもあり、何でも受け入れるインドという国を描写し得ている。更に本来自然に出て来るはずの蛇も、インドでは蛇使いの音でコントロールされ穴から出てくるようで面白い〉と鑑賞。句は「俳句」6月号より。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)8月号の「合評鼎談」(奥坂まや・津髙里永子・堀本裕樹)の中で、同誌6月号掲載の田島健一作「白い雲雀」について、〈堀本「《蛇穴を出る大きな風のあるインド》 インドの〈大きな風〉の中で、撓うような蛇の姿が見えてきました。インドで蛇と言うと、仏陀を守る蛇神の意味もありますので、〈インド〉という国名が効いている。観念的でありながらリアルな息吹も感じられて、インドの風景が想像されて惹かれました」、奥坂「スコールも凄いでしょうし、インドには〈大きな風〉があると思います。大きな風に相応しいような蛇が、穴から現れる姿も想像できました。地名が効いている句ですね。 《はるばるを体が聞いて桃の花》 田島さんは独特の感覚をお持ちですね。〈はるばるを〉耳が聞いているのじゃなく、〈体が〉聞いている。〈桃の花〉も日本の神話では、イザナギが黄泉の国から戻る時に、追いかけてくるものたちに桃の実をぶつけて逃げました。桃というものに特別な思いがある。中国なら桃源郷という言葉もあるくらい、異界ともつながっています。満開の桃の花によって、〈はるばる〉という時空間を、体が聞くことができる。〈桃の花〉ということで納得しました」〉と合評。
- 結社誌「澤」(小澤實主宰)7月号の「窓 俳書を読む」(木内縉太氏)が三輪初子句集『檸檬のかたち』を取り上げて、《三朗の上の次郎よ終戦日》《たふれ癖のこけし立たせむ弥生尽》《みやげなく竜宮からの昼寝覚》の3句を引き、〈一句目。三好達治の高名な詩「雪」を踏まえているのだろう。その詩を、作者は周到に換骨奪胎している。「終戦日」としたのは、達治が戦中、戦争詩を発表し続けたことに対する批判だろうか。とすれば、提出句の太郎の不在を、太郎は戦争に取られてしまった、というふうな恐ろしく、アイロニーに満ちた物語として読み取ることもできるかも知れない〉と鑑賞。
- 機関誌「現代俳句」(現代俳句協会)8月号の「第6回『現代俳句年鑑2023』を読む」において、清水健志氏が感銘10句抄の中の一句に《王羲之の永字八法蒼鷹 たむら葉》を選出。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)8月号付録『季寄せを兼ねた俳句手帖二〇二三〈秋〉』が《長き夜や母のほとりに布集まり 齋藤朝比古》《手のひらの闇をひらきし涼新た 三輪初子》《田仕舞の煙盆地の真ん中に 岡田由季》を採録。