2023年10月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の炎
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)10月号の「作品12句」に岡田由季が「クローゼット」と題して、〈塩害のガードレールと花カンナ〉〈秋海棠崖安全に見せてをり〉〈秋の蚊がクローゼットにゐる一夜〉〈友にただついてゆく旅青蜜柑〉など12句を発表。
- 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)10月号「四季吟詠」
・冨士眞奈美選「佳作」〈広島の市電ぐらりと八月へ 阪上政和〉
・宮坂静生選「秀逸」〈ジオラマのやうな小島の星まつり 曽根新五郎〉
・山本潔選「秀逸」〈富士を見てキャンバスを見て夏帽子 森山洋之助〉
・川村智香子選「佳作」〈螢の夜鍵の小鈴を外し置く 山本うらら〉
・渡辺誠一郎選「秀逸」〈父拾ふ青水無月の喉仏 曽根新五郎〉
・渡辺誠一郎選「佳作」〈既視感は身の内にある飛瀑かも 松橋晴〉 - 総合誌「俳句界」(文學の森)10月号「投稿欄」
・能村研三選「特選」〈天水をつかひし島の大暑かな 曽根新五郎〉=〈島国では古来から水を得るために苦労した歴史がある。生活用水のほとんどを天水に頼っていた。今は浄化した水道水が十分に使えるかどうかはわからないが、大暑を乗り切るには充分な生活用水が必要である〉と選評。
・柴田多鶴子選「秀逸」〈天水を(前掲)曽根新五郎〉 - 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)10月号「令和俳壇」
・題「始」夏井いつき選「秀逸」〈秋蝶の始点解らぬ風の中 木下周子〉 - 読売新聞9月12日「読売俳壇」
・小澤實選〈白桃をすする恥ぢらひ空手女子 谷村康志〉 - 朝日新聞9月17日「朝日俳壇」
・大串章選〈孤独死のうわさの屋敷こぼれ萩 谷村康志〉 - 朝日新聞9月24日「朝日俳壇」
・小林貴子選〈叡山の僧兵のごと稲雀 谷村康志〉 - 日本経済新聞9月30日「俳壇」
・神野紗希選〈名をすべて言ひ当てる母草の花 谷村康志〉=〈秋に草々のつける花を総称し「草の花」と呼ぶ。雑草の名をよく知る母。身辺を愛する姿勢にあらためて畏敬の念を〉と選評。 - 産経新聞10月5日「産経俳壇」
・対馬康子選「特選」〈胸に灯のともる手紙や秋風鈴 谷村康志〉=〈胸に灯りがともる素晴らしい手紙をもらった。美しい手紙の言葉がこころの灯の下で秋風に揺れる風鈴の音と重なる。祈りのような音を誰かとともにしたい〉と選評。 - 日本経済新聞10月7日「俳壇」
・横澤放川選〈鈴虫のこゑを得てより老い支度 谷村康志〉 - 総合誌「俳句界」(文學の森)10月号の特集「俳句にある「生」」における「「生」をテーマに考えて詠んだ句の自句自解」に内野義悠が寄稿、自句《小鳥来るしやつくりがまだ生きてゐる》を掲げ、〈生家がお寺であり、私自身も僧侶という職業柄、日頃から色々な意味で“死”というものに近い場所で暮らしているなと感じています。それは同時に、“生”をも常に意識させられる環境でもあります。私が今、“生”を最もリアルに感じるのは、微かな違和感が不意に身体を通り抜けるとき。掲句に詠み込んだ「しゃっくり」も、その違和感のひとつ。あんなに小さな生理反応に、身体をおおきく揺さぶられる苛立たしさ。一度は止まったように思えても時間をおいてまたぶり返す、まるでそれ自体が生きているかのような感覚。そしてそれに共鳴して、やがて鳥たちも集まって来そうな予感も。そんな“生”のエネルギーを内包するイメージを、掲句に込めました〉と自解。
- 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)10月号の「今月の華」に谷村鯛夢が登場。自句《初空や龍馬のブーツ海へ向く》を大見出しに掲げ、見開きの右ページには「土佐の高知は「泥酔文化」」と題した谷村の短章と、「私の愛蔵品」として谷村の父が70年以上使い続けた三省堂刊高浜虚子編『新歳時記』の写真、対する左ページには、全面に同誌発行・編集人西井洋子氏の撮影による谷村のポートレート。谷村は短章で〈龍馬の句を揚げておいて、いきなりべたな話で恐縮ですが、私、高知県出身者なんですね。本籍地の室戸市室戸岬町はいわゆる台風銀座で、環境省制定の「日本の音100選」に「室戸岬の海鳴り」が入っています。浪は高いけれど、空はどこまでも青くて明るい。紫外線がきつい。この空を指して「高知は日本のカリフォルニア」と言う人もいます。高知の風土が気にいって移住した映画監督の安藤桃子さんも「高知を日本だと思わない」。紀貫之が『土佐日記』にこの国は童まで酔っぱらっていて困ったもんだと書いた「酒の国・土佐」の人間は、桃子監督によれば「土佐の人はウーロン茶でも泥酔する」と。つまり、何でも泥酔状態で夢中になる気質。坂本龍馬は「日本の夜明け」に泥酔し、下戸の牧野富太郎は「植物学」に泥酔した……。幕末の俚諺に「薩摩の重厚、長州の怜悧、土佐の与太」がありますが、与太は自由人。ただ、与太が泥酔すると迷惑かも(笑)。 〈わが側を龍馬駆けゆく花芒 ちせい〉 これは「龍馬脱藩の道」でのちせい先生(現代俳句協会賞受賞者のたむらちせい)の一句。ここから泥酔状態で人生を突っ走った龍馬のブーツのつま先は、桂浜の立像に代表されるように、今も自由の海へ向いているよね、という掲句(自句《初空や》)。「炎環」新年句会で石寒太主宰の天賞、自分でも大好きな一句です〉と叙述。
- 総合誌「俳句界」(文學の森)10月号の特集「俳句にある「生」」において、「生」を感じた俳句をテーマに岩田奎氏が「令和の生」と題し、《いくつかの出勤経路かいつぶり 岡田由季》《あらゆるルール若葉二重に映る窓 山岸由佳》など5句を示して、〈岡田句、家と職場を結ぶ複数のルートの一つに鳰の池が接している。なぜこの鳥なのかは、そうだったからとしか言えない。山岸句、いまこの硝子にはあらゆる規則や法則に加えて若葉が映る。… 真摯に情景に向き合ってはいるが、まさにその真摯さゆえに十分にわかりきらないものになっている。普遍的な意味での詩語の必然性より前に、作者にとっての詩語の必然性が感じられる手触りの句である。俳句甲子園的な、すなわち説明可能性に向けて押しひらいていくような句柄の探究がいったん飽和を迎え、書き手はそれぞれの内側へ回帰したのだというパラフレーズもあるいは可能だろうか。ほんらい人の生というのはおよそどうでもいい、そうでないこともありえた体験の束である。その中で風景に紛れこんできた季題を遇するにあたってあきらかな必然性を持たせるような付け方をすれば過剰演出にもなりかねない。書き手の生の断片が飾られることなく生き写しになり、それが不思議な生生しさを獲得しているような句に最近はよく出会う。句の説明可能性=生の代替可能性を超えるというのが令和初期の命題なのかもしれない〉と論述。岡田句は句集『中くらゐの町』に、山岸句は句集『丈夫な紙』に所収。
- 結社誌「空」(柴田佐和子主宰)第107号(8月20日発行・隔月刊)の「俳句展望」(深川淑枝氏)が《バンザイのあとの双手や昭和の日 三輪初子》を取り上げ、〈昭和といえば上五の〈バンザイ〉は、兵士を戦場に送る時や、束の間の戦勝に酔った時のものと思えるが、その時に挙げた双手はどうなったか。〈バンザイ〉はまた万策尽きた時にもするが、その双手はどうなったか。昭和の日の趣旨「……昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」はどうなっていくのか。現在、戦争前夜との指摘も出だした中、この〈バンザイのあとの双手〉の置きどころを考えさせられる〉と鑑賞。句は句集『檸檬のかたち』より。
- 結社誌「ランブル」(上田日差子主宰)9月号の「現代俳句羅針盤」(髙瀬瑞憲氏)が《傷みつつ微笑んでゐる苺かな 柏柳明子》を取り上げ、〈掲句の苺はまさに現在進行形で着実に傷みが進みながらも、片や微笑んでいるかのように可愛らしさ(苺らしさ)を忘れない健気な姿に映り、またその微笑みの裏には傷み尽くす最後の最後まで苺たる品格を保とうとする意地さえ感じられるようです。(ちょっと大袈裟かもしれませんが…) 一方で、一物仕立てで苺の様子を詠んだものとは思いつつも、たとえば芭蕉の〈さまざまの事おもひ出す桜かな〉の句の読み方を参考に考えると「傷みつつ微笑んでゐる」のは作者自身であり、そうであるならば目の前の苺に対して「お前も同じだね」と同情している、もしくは苺は自然のままありのまま他を気にすることなく傷むことができるが、作者は痛みの中にあっても微笑んでいなくてはならない(私も苺のように素直に傷むことができたらどんなに良いか…)という解釈もできなくはないです。そしてこの「傷み」は、感傷的・一時的な痛みなのか、はたまた人の世を生きる中で少しずつ傷み進行していると感じた作者の死生観を反映させたものなのか、鑑賞していくほどに深さのある句に思いました〉と鑑賞。句は「俳句」7月号より。
- 結社誌「田」(水田光雄氏)9月号の「俳句展望」(上野犀行氏)が柏柳明子の4句《よく猫に会ふ一日よ若葉風》《傷みつつ微笑んでゐる苺かな》《サラダからはじまるランチ夏館》《糸ほどの水に噴水果てにけり》を取り上げ、それぞれを鑑賞。《よく猫に》については〈何故だかわからないが、朝から何度も猫を目にし、なつかれている。作者の温かい人柄が伝わって来る。「若葉風」が明るさと幸福感を増幅させる〉と、《糸ほどの》については〈噴水が終わることを詠む句は多くあるが、「糸ほどの水」に果てたと把握したところに、独自性がある。儚さを感じさせつつも、最後まで涼し気である〉と記述。句は「俳句」7月号より。
- 結社誌「響焰」(米田規子主宰)10月号の「総合誌の俳句から」(秋山ひろ子氏)が《まだ眠り足りぬ木香薔薇の家 柏柳明子》を取り上げ、〈朝早い時間でしょうか。“木香薔薇”に包まれた家です。ふわふわと欠伸をしたような、浅い眠りの中で夢を見ているような…。ふいにドアが開き人の気配が。愛犬の散歩でしょうか〉と鑑賞。句は「俳句」7月号より。
- 結社誌「森」(森野稔主宰)の「現代俳句月評 俳句武者修行」(古澤桃氏)が柏柳明子の2句《甘藍を噓の見つかるまで剝がす》《まだ眠り足りぬ木香薔薇の家》を取り上げ、それぞれ鑑賞。《甘藍を》については〈キャベツのなかに嘘が隠れているとは驚きです。誰かに不信感を抱く作者がキャベツに当たっているのでは。はたして嘘は見つかったのでしょうか〉と、《まだ眠り》については〈作者の目には、まるで家が白花の木香薔薇に包まれて静かに眠っているかのように映った。句切れなしの一句にされ深い繁みをより強調する。筆者もそんなお家でぐっすり眠ってみたいものです〉と記述。句は「俳句」7月号より。
- 結社誌「繪硝子」(和田順子主宰)10月号の「現代俳句鑑賞」(山口冨美子氏)が柏柳明子の2句《制服に着られてゐる子ひめぢよをん》《瑠璃蜥蜴予言者のごと岩の上》を取り上げ、それぞれ鑑賞。《制服に》については〈子供は成長が早いため両親は大きめの制服を誂えるが、ぶかぶかで制服が歩いているようである。「着られてゐる」の表現が絶妙である。通学路の姫女菀の花が成長を見守っているようだ〉と、《瑠璃蜥蜴》については〈正に岩の上の瑠璃蜥蜴は神秘的であり、一瞬何か考えているように思える不思議な生き物である。対象に真摯に向き合い独自の感覚の一句となった〉と記述。句は「俳句」7月号より。
- 結社誌「藍」(花谷清主宰)10月号の「俳句月評」(中澤矩子氏)が《甘藍を噓の見つかるまで剝がす 柏柳明子》を取り上げ、〈誰のどういう〈噓〉を言っているのだろう。おそらく自らが発した言葉に噓はないか、その心に噓はないかと甘藍を一枚ずつ剝がしながら自問自答しているように思う。甘藍のきゅるっと剝がれる音に快感を覚えているうちに、作者の噓への追及は晴れていったに違いない。中七と下五を一気に詠み、臨場感のある句になった〉と鑑賞。句は「俳句」7月号より。