2024年2月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の軸
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)2月号の特集「日本橋と俳句」は〈「日本橋倶楽部俳句会」が句誌刊行千号を迎えたことを機に、日本橋と俳句をテーマとし、継承する力の重要性を伝え〉ることがその趣旨で、そこに石寒太主宰が当企画の総論を執筆、「いまもむかしも日本橋」と題して、〈私にとっての日本橋が、とても親しみのある地に感じられるようになったのは、ここで開かれている「日本橋倶楽部俳句会」の第十七代の選者に招聘され、必ず月に一度日本橋コレド室町Ⅲの日本橋倶楽部を訪れて句会をするようになってからのことである。日本橋の老舗創業者たちを中心として出発した「日本橋倶楽部俳句会」が百年を超え句誌も千号を迎えることが出来たのは、慶賀にたえない。俳諧という詩形式は、大岡信氏をはじめ俳文学者たちも述べているように
宴 と孤心 によって育まれ進化を重ねてきた。宴とは宗匠を中心とした連衆(仲間)たちが切磋琢磨する研鑽の舞台であった。孤心は連衆のもとに詩心を高めそのこころを研ぎすます個の力である。さまざまな困難を乗り越えて「日本橋俳句会」が延々と継続されてきたのは、やはり俳諧によって育てられた衆と個の双方の力にある。皆で切磋琢磨する集団の力の庶民性が交響し、その中でひとりひとりが個をみつめること、その双方が相俟ってひとつひとつの時代を乗り越えていく、それがこの俳諧(俳句)の特殊性につながっている、そう思うのである〉と述べています。 - 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)2月号の「今月のハイライト」というコーナーが、創刊35周年を迎えた「炎環」を、石寒太主宰の一句《亡き父に詫びのひとこと初日記》と主宰ポートレート、過去から現在までの4葉の集合写真と同人25人それぞれの1句を掲載し、紹介しています。
炎環の炎
- 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)2月号「四季吟詠」
・秋尾敏選「秀逸」〈長き夜や狼が尿舐めにくる 松橋晴〉
・浅井愼平選「佳作」〈今生はめぐりてまはる葛根掘る 松橋晴〉
・上田日差子選「佳作」〈秋の蚊を打ち損じたる妻の声 阪上政和〉
・山本鬼之介選「佳作」〈内向きの話は外で菊日和 森山洋之助〉 - 「NHK俳句」12月24日放送
・題「靴」高野ムツオ選「一席」〈新しき雪靴まづは手を入るる 鈴木正芳〉=〈雪靴は高価、しかし、雪国には不可欠。愛用していた靴がだいぶくたびれてきた。思い切って新調した。まずは手を入れて履き心地を確かめる。今冬、よろしく頼むよとの声が聞こえそうだ〉と選評。 - 読売新聞1月22日「読売俳壇」
・小澤實選〈薬喰営業課女子四人組 谷村康志〉=〈営業課の女子の四人組が、肉鍋を囲んで忘年会をしている。酔うにつれて、課長の悪口も出るか。全部漢字で入り込めない感じも出た〉と選評。 - 毎日新聞1月29日「毎日俳壇」
・西村和子選〈除夜の湯に手術の痕をさすりけり 谷村康志〉 - 毎日新聞1月29日「毎日俳壇」
・井上康明選〈社内誌に知る友の死や室の花 谷村康志〉 - 日本経済新聞2月10日「俳壇」
・神野紗希選〈延命を望まぬ母に蜜柑むく 谷村康志〉 - 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)2月号の「忙中閑談」に山岸由佳が「「わたし」を超えて」と題してエッセイを寄稿、〈二年前に引っ越してきた今の街は、玉川上水が近くに流れ、散歩するには気持ちの良い緑道が伸びている。駅を降り、上水の方へ歩いて行くと小さな喫茶店がある。六十年以上、地元の人に愛されている喫茶店だ。ある日、隣の席の客が水原秋櫻子の話をしているのを、夫がたまたま耳にしたのをきっかけに、また、喫茶店のオーナーも独学で俳句を作っていた時期があったそうで、偶然が偶然を呼び、いつの間にか、喫茶店の閉店後に月に一度句会が開かれるようになった。俳句は初めてという人もいるが、何よりみんな楽しそうだ。時代を牽引するような俳人は一握りかもしれないが、俳句という短詩を支えているのはこうした幾つもの小さな場であるように思う。作句は孤独で良いが、誰かに読まれて成り立つこの形式の豊かさを以前より強く感じている。先日、喫茶店のオーナーの夫人に、西田俊英「不死鳥」展が良かったと聞き、夫と最終日に観に行って来た。一年間屋久島に移住し、写生を続けたという西田氏の絵は、二階の壁一面を使い、屋久島の命の循環が絵巻物のように描かれた壮大な作品であった。「何も創らなくていい。原生の自然に抱かれたときほんとうの絵が生まれる」とは西田氏の言葉である。自己を超えた大きな力が働いた時、作品にも大きな力が宿る。さて私はというと、ふだんは仕事や生活が大きく時間を占め、自己を超えるような大自然の中で過ごしてる訳でもない。社会の中の私、家族のなかの私、いろいろな私がいる。俳句の中の「わたし」を時に鬱陶しく思うこともある。一方で、誰にも媚びず、強い自我と向き合った末、私を超えた「わたし」に出会うこともあるかもしれない。絵画とも文学とも異なる俳句形式の中で〉と叙述。
- 総合誌「俳句界」(文學の森)の連載企画「俳人の本棚」を今年は田島健一が執筆しており、2回目(2月号)ではエマニュエル・レヴィナス著(合田正人訳)『全体性と無限―外部性についての試論―』を挙げ、〈レヴィナスの思想と「俳句」とを短絡的に結びつけ、三十代の頃の私は俳句を、「他者」のことばとして見つめ直していた。二〇〇六年の頃のことである。本書は、レヴィナスの第一の主著である。過不足なく理解するのは至難の業だが、本書はところどころで私に不思議な感動と新しい視座を与えてくれた。当時の私には、レヴィナスの言おうとしていることを「レヴィナス入門書」で理解するのではなく、理解できないながらもレヴィナス自身が書いたテクストの律動に身をゆだねていたい、という思いがあった。レヴィナスの思想は難解で、哲学の素人の私にとっては、本当に手強いものだった。しかしその一方で、それによって身に付いたこともある。それは、「解らないものを、解らないままに読む」技術だ。そしていま思えば、それこそが俳句を読む技術だったのだ。俳句を読むということは、俳句を理解することではなく、俳句の「謎」に触れることだ。その句が持つ固有の亀裂によって、書かれた句と、その外部にある余情とが関係するということ。それを発見するのが俳句の歓びであり、俳句を書く動機なのではないか。もちろんレヴィナスは俳句のことなど語っていないに決まっている。でも、どうもレヴィナスはそれに似たようなことを論じているような気がするのだ。そんな手前勝手な読み方で、レヴィナスの問題意識を「俳句」と関連づけて考えるようになった。その頃から、それまで自分が思っていた以上に俳句というものの射程は広いのではないか、ということに次第に気づき始めていたのであった〉と叙述。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)の連載「現代俳句時評」を担当する岡田由季が、2月号では「俳句にまつわるバリア」と題して、〈スマートフォンの普及もあり、二〇一〇年代に電子書籍の市場は拡大したが、句集においてはどうだろうか。現在改めて検索してみると、電子書籍の句集も徐々に増えてきているようだ。筆者が句集の電子書籍化について、最も期待している役割は、絶版の対策だ。句集は元々の発行部数が少なく、すぐに絶版になり、古本で高額となってしまうことも多い。電子書籍ならば、書店に流通させたり、在庫を保持しておくための費用もかからず、比較的長期間、継続して提供をすることが可能だろう。個人の句集については、ほぼ自費出版だ。そして流通するのはごく一部で、多くが謹呈される。いわゆる謹呈文化だ。この自費出版・謹呈の仕組みについては、関わっている人の多くは、恩恵を受けながらも、どこかで少し、もやもやとしたものを抱えているのではないだろうか。この「もやもや」のひとつに、自費出版に高額の費用がかかることがあげられる。電子書籍のみで出版すれば、費用は安く抑えられる。しかしこれには、受け手の方がまだ成熟していない。電子書籍のみでは「句集」として受け入れられない場面も多く、広く読まれることが難しい。俳句には純粋読者がいない、つまり俳句の実作者以外に読者はいないと言われてきた。その理由として、歴史的仮名遣いや季語により、俳句を作らない人にとっての読みにくさがあることなどが指摘されてきた。しかし、そもそもそれ以前の問題として、現状では謹呈先以外には、俳句作者や、すでに俳句に関心のある層にさえ、十分に句集が届いていないように思える。読む側からすれば、書店や図書館に句集が少なく、触れる機会が少ないこと、情報不足、入手のしにくいこと、一冊の価格の高いことなど障壁は様々ある。句集の作り手は、俳句界の既知の人のみを句集の読み手に想定することで、知らず知らずに内向きの姿勢になってはいないだろうか。少しでも他にニーズがありそうなら、そこに届ける努力をした方がよい。最初から読者不在とあきらめず、届くような方法や、作り方にも意識を向けるべきではないだろうか〉と論述。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)2月号の大特集「省略――ものごとの核心を摑む」において、田口茉於氏が「「捨てる」と「選ぶ」」と題した文章を認め、〈省略しつつもこの詩形を存分に生かす方法をいくつかあげ〉た中の一つで、《クリスマスケーキの上が混雑す 岡田由季》を引き合いに出し、〈クリスマスケーキの上のサンタクロースやトナカイなどの飾りを描いて〈混雑す〉と表している。「混雑」にクリスマスシーズンの街の華やかさも、自宅でのあたたかなクリスマスの食事も全てが圧縮して閉じ込められているようだ。日常的な言葉を常套的な使い方からはずして使うことを目指したい。その言葉が置かれた驚きからも、省略された多くの情景を想起させることができるのではないだろうか〉と記述。また、同特集において「省略の利いた名句50選」をまとめた西村麒麟氏は、50句の一つに《能面は顔より小さしきりぎりす 岡田由季》を入れ、〈能面が顔の大きさより小さい、というのは当然の事実に過ぎない。人は完全に能面の中に収まることは不可能である、という宿命を感じ、きりぎりすは寂しさを助長している〉と鑑賞。
- 結社誌「ランブル」(上田日差子主宰)11月号の「現代俳句羅針盤」(高瀬瑞憲氏)が《人形の着崩れている夜の秋 近恵》を取り上げ、〈描かれているのは、子どもが遊び倒した後の人形。「着崩れている」ということは着せ替えのできるような、○○ちゃん人形の類でしょうか。秋の夜ですので、着実に秋に近づく涼しさ、さびしさが着崩れた人形にも等しく訪れています。さてしかし、その人形は本当に遊びの果てに着崩れたのでしょうか、もしかすると持ち主の子が寝静まった後で着崩れたのかもしれません、などと読むと一気にホラーテイストになりますね〉と鑑賞。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)2月号付録『季寄せを兼ねた俳句手帖二〇二四〈春〉』が《ほがらかに道汚しゆく耕耘機 齋藤朝比古》《付け爪の春風つまむ指づかひ 関根誠子》を採録。