2024年8月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の軸
- 結社誌「ひいらぎ」(伊藤瓔子主宰)7月号の「現代俳句の鑑賞」(岸本隆雄氏)が、《円いつか紙切れとなり夏至の朝 石寒太》を取り上げ、〈日本は人口の減少が続き、経済が低迷し、大企業は利益を上げているが、労働者の賃金は上がらず、国民の多くは苦しい生活を送っているのが今の日本、円の価値がどんどん下がりいつしか紙切れになるのではないかと心配だ。これに反してアメリカは情報通信技術革新が進み好景気を謳歌している。夏至は陽暦六月二十二日ごろ、これからやって来る暑い夏をどうして過ごそうかと庶民は考える。時間、場所を切り取りその一瞬を表現した句〉と鑑賞します。句は「俳句」5月号より。
- 結社誌「山繭」(宮田正和主宰)7月号の「現代俳句鑑賞」(福田容子氏)が、《花廻りひと生ひと代のをんなかな 石寒太》を取り上げ、〈黒田杏子と前書がある。「花巡る一生のわれをなつかしみ」(花下草上)を踏まえた句であろうか。おかっぱともんぺがトレードマークで、華麗な人脈を持つ行動派俳人として知られた。最期に倒れたのが講演先であったことも黒田氏らしい。ずいぶん前になるが、伊賀にお迎えして講演を聞いたことがある。出雲崎の漁師で「斉藤凡太」さんという俳人のお話をされた。それが私にとっての一期一会で、まさに掲句の「ひと生ひと代のをんな」らしい、希有な俳人の風格があった〉と鑑賞します。句は「俳句」5月号より。
- 結社誌「風樹」(豊長みのる主宰)7月号の「現代俳句月評」(古藤みづ絵氏)が《珠洲の浜さくらの瘤にさくらの芽 石寒太》を取り上げ、〈〈珠洲の浜〉、今年元日の能登半島地震によって甚大な被害を蒙った地であり、亡くなられた方も多いと聞く。あの日から早や七ヶ月。被災された方々のご苦労、心労は如何ばかりか。掲句、〈さくらの瘤にさくらの芽〉の〈さくら〉のリフレインには〈瘤〉から〈芽〉、やがて〈花〉へとのいのちの再生・連環への祈りが籠められており、珠洲のみならず、能登全ての人の希望のシンボルであれとの石寒太氏の切々たる十七音であろう〉と鑑賞しています。句は「俳句」5月号より。
炎環の炎
- 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)8月号の「作品8句」に本田巖が「いのち」と題して、〈病歴は生きる証よ返り花〉〈蒔く種の指にありたる快楽かな〉〈木枯しの音癌病棟の長廊下〉など8句を発表。
- 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)8月号「四季吟詠」
・二ノ宮一雄選「佳作」〈兄さんと呼ばれ西瓜買いたるよ 本田巖〉
・秋尾敏選「佳作」〈むずむずと宙に湧き出づ柿若葉 松橋晴〉 - 総合誌「俳句界」(文學の森)8月号「投稿欄」
・辻桃子選「特選」〈逃水を飛び出してくるバイクかな 松本美智子〉=〈きらきらした逃水の中からバイクがこちらに飛び出してきた。幻想的な世界からいきなり現実の世界に飛び出てきたようで面白い〉と選評。
・角川春樹選「秀逸」〈逃水を(前掲)松本美智子〉
・鈴木しげを選「秀逸」〈漉きかさね紙の白さを漉きゆけり 本田巖〉 - 新潟日報6月3日
・中原道夫選〈棒立てて春の歪みを測量す 鈴木正芳〉
・津川絵理子選〈控へ目な妻に一鉢桜草 鈴木正芳〉 - 新潟日報6月9日
・津川絵理子選〈道徳の授業バスケットに子猫 鈴木正芳〉=〈子猫の出張授業なのだろうか。命の大切さを学ぶ道徳の授業とバスケットの子猫の意外な取り合わせ〉と選評。 - 新潟日報6月17日
・津川絵理子選「一席」〈ハンカチ軽しうれし涙を拭けばなほ 鈴木正芳〉=〈「うれし涙」が効いている。ハンカチの軽さと、晴れやかな気持ちが通じ合って、面白い効果を生んだ〉と選評。 - 産経新聞7月18日「産経俳壇」
・宮坂静生選〈梅雨寒の図書館の灯や離職票 谷村康志〉
・対馬康子選〈太宰忌や戸籍に残る小さき傷 谷村康志〉 - 日本経済新聞7月27日「俳壇」
・横澤放川選〈まどしさの天井のしみ昼寝癖 谷村康志〉 - 毎日新聞7月29日「毎日俳壇」
・片山由美子選〈月涼し窓開けて聴くドビュッシー 谷村康志〉
・小川軽舟選〈人悼む決まり文句や汗拭ひ 谷村康志〉 - 産経新聞8月1日「産経俳壇」
・宮坂静生選〈時折はカメラ目線の滝行者 谷村康志〉 - 総合誌「俳句界」(文學の森)の連載「俳人の本棚」を今年担当している田島健一が、8月号で取り上げた本はロジャー・ペンローズ著(林一訳)『皇帝の新しい心』。〈本書は、理論物理学者のロジャー・ペンローズが「量子論」によって「人間の心」の秘密を解き明かそうとする実に面白い一書である。著者の「意識的思考は非アルゴリズム的で、謎めいた無意識の方こそアルゴリズム的だ」という指摘は、ジャック・ラカンの「無意識はひとつの言語のように構造化されている」という有名なテーゼを思い起こさせる。量子論と精神分析が、「人間」について類似した指摘をしていることは大変興味深い。量子論は「実験」によって、精神分析は「臨床」によって理論構築されているように、俳句は「書くこと」によってその謎が明らかにされる。仮に、全く同じ思考をする「人間の知能(A)」と「人工知能(B)があり、それぞれが「私は人間である」と主張したとしよう。Aの主張は、もちろん「正」である。けれども、それと全く同じ思考をするBの主張は「偽」となってしまう。逆にもしもBの主張が「正」だとしたら、その人工知能はバグっている。つまり「私は人間である」と正しく主張できるのは、「人間の知能」か「バグった人工知能」だけなのだ。「私は人間である」と主張する「人間の知能」は「バグった人工知能」に等しい。そして、驚くことに、この「バグっている」ということこそが、実は人間の条件なのである。俳句を書くことは、バグった人間による行為である。そして、そこに書かれた句は、それを書いた人間の「バグ」の在処を示している。「人工知能」は、そうしたバグった人間を映し出す高性能な鏡に他ならないのだ〉と論述。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)8月号の「合評鼎談」(辻村麻乃・横澤放川・抜井諒一)の中で、同誌6月号掲載の山岸由佳作「ムスカリの坂」について、〈抜井「《見下ろせる春日の家の奥も家》 街を俯瞰して見ているよう。春の日が差し込んでいる住宅街。それらの家の奥にもさらにぎっしり家がある。模型を見ているような面白さがあります」、辻村「高台から住宅地が見渡せる場所。そこから、濃い紫色をしたムスカリの咲く坂を下りていったのでしょうか。見下ろしている家並みのさらに奥も家というのが写真のように映し出されていきます」、抜井「《春闌くる草の奥より手を戻し》 下五の〈手を戻し〉という表現が、面白いと思いました。〈春闌くる〉で、夏も近いような季節に、鬱蒼とした草の奥に手を入れていた。そして、奥から手を戻した。何をしていたのか分かりませんが、草の匂いや質感が伝わってきました。一体草の奥に何があったのだろう、と思わされる」、辻村「《腕に傘かけムスカリの下り坂》 表題句です。傘が邪魔にならないように腕にかけて、ムスカリの咲いている坂を下りていく作者が見えてきます」〉と合評。
- 結社誌「百鳥」(大串章主宰)7月号の「今月の名句」(森賀まり氏)が選んだ5句のうちの1句に《天牛や遊びの中の王と臣 西川火尖》。
- テキスト「NHK俳句」(NHK出版)8月号には、同月第4週の同テレビ番組に出演する岡田由季が寄稿、「句会いろいろ」と題し、〈句会に出ることなく俳句を作っている方もたくさんいらっしゃると思うのですが、私の場合は句会が大切で、句会が無かったら今まで俳句を続けてこられなかったと思います。初めて句会に参加したのは、一九九八年です。当時、俳句に興味があり、少し作ってみたり、入門書を読んだりしていました。そのうち句会に出てみたくなったのですが、世の中にどんな俳句の会があって、どういう会が自分に合っているのかも分からず、知人に相談して、彼女の出席している句会に連れていってもらうことにしました。会場に入ると、ロの字に机が並べられていて、三十人くらいの人がいました。一端に同じような年恰好の人が何人か並んでいて、その中にいた、下駄を履いている人が先生だと教えてもらいました。それが今も所属している会の石寒太先生との出会いです。その日、何人か私の句をとってくださる方がいて、また自分がとった句の感想を求められ、緊張もしましたが、初心者ながら、その場の一員として参加できている感じが嬉しかったものです〉と筆を進めて、その後、さまざまなタイプの句会に参加した経験を綴り、最後に〈こうやって振り返ってみると、どの句会も特色があって、学びがありました。しかし共通しているのは楽しいということで、これが一番重要だったかもしれません。楽しかったから、二十数年も続けてくることができたのでしょう〉と述懐。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)8月号付録『季寄せを兼ねた俳句手帖二〇二四〈秋〉』が《のびのびと退屈したり盆帰省 岡田由季》《集まらぬ日の椋鳥の楽しさう 岡田由季》《友にただついてゆく旅青蜜柑 岡田由季》を採録。