2024年9月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の炎
- 山岡芳遊(本名岡山芳壽)が句文集『火曜の句会、週末のシネマ』を百年書房より8月に刊行。「キネマ歳時記」「エッセイ「映画の虜」」「山岡芳遊句集」の三部構成。「キネマ歳時記」は炎環誌に4年間43回にわたり連載されたもので、これについて本書のあとがきで、〈丑山編集長から「映画と俳句について何か書いてくれませんか」と言われ、好きな映画ならと二つ返事でお引き受けした。だが、映画と俳句となると意外と難問で、数日間悩んだ末に、季語と映像の連想的な文章なら書けるのではと思い、「キネマ歳時記」がスタートした。初めの一年間こそ順調に推移したが、二年目以降は季語に見合った作品選定に苦労した。自分の好きな映画が基本であるが、余りにマニアックな作品は外し、ある程度知名度があり、水準以上の出来栄えの映画という条件が難しい〉と叙述。全編に著者の俳句141句を収載。
- 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)9月号「四季吟詠」
・山崎聰選「秀逸」〈咲き満ちて何やら寂し雪柳 森山洋之助〉
・水内慶太選「佳作」〈病む妻の謝るしぐさ春袷 森山洋之助〉 - 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)9月号「令和俳壇」
・白岩敏秀選「秀逸」〈鎌倉にリュックぞろぞろ五月くる 氏家美代子〉 - 新潟日報7月1日
・中原道夫選〈誤植せず終はる記者らの田植かな 鈴木正芳〉 - 新潟日報7月8日
・津川絵理子選〈けんけんぱけんぱけんぱや梅雨晴間 鈴木正芳〉 - 新潟日報7月15日
・中原道夫選「一席」〈質種に生ま物は不可初鰹 鈴木正芳〉=〈その昔、江戸の庶民は「褞袍を質に置いても初鰹」というくらい時期になれば、初鰹を好んだ。そのうち誰かがひねって女房を質に入れても―と変化して笑わせてくれるが、生ま物は無理というもの〉と選評。
・津川絵理子選〈愛情に深度ありけり熱帯魚 鈴木正芳〉=〈水槽にちらばる熱帯魚を見て、愛情の深度という言葉を思いついたのか。この飛躍が面白い〉と選評。 - 読売新聞7月22日「読売俳壇」
・正木ゆう子選〈プールより上がる無駄なき身体かな 鈴木正芳〉 - 読売新聞8月12日「読売俳壇」
・矢島渚男選〈汗拭ひつつ焼香の列長き 谷村康志〉 - 毎日新聞8月12日「毎日俳壇」
・西村和子選〈足腰に旅の疲れや合歓の花 谷村康志〉 - 産経新聞8月15日「産経俳壇」
・宮坂静生選〈正直に生きて貧乏白がすり 谷村康志〉 - 総合誌「俳句界」(文學の森)の連載「俳人の本棚」を今年担当している田島健一が、9月号で取り上げた本はジャック・ラカン著(小出浩之・新宮一成・鈴木國文・小川豊昭訳)『精神分析の四基本概念』。〈本書はフランスの哲学者で精神分析家のジャック・ラカンが精神分析の基礎となる「無意識」、「反復」、「転移」、「欲動」の四つの概念について語ったセミネール(セミナー)の記録である。こうした概念を通してラカンが考察するのは、「主体」と「他者」との関係であり、それは「人間存在」そのものでもある。俳句もまた、書かれた句を通して、それを書いた「主体」とそれを取り巻く「他者」との関係性が重要な文芸であり、それにまつわる「人間」が常に問題になるのだと考えれば、ラカンが語る精神分析の基本概念は、そのまま俳句における基本概念としても当てはまると言って差し支えないだろう。俳句における「人間」とは、俳句で「人間」を主題化することではなく、俳句を書く行為が「人間」として主体化することである。それは「人間」というものが一句の中に所与のものとして書かれるのではなく、その句が生み出されたプロセスの内に無意識として構造的に書き込まれるものなのだ。ラカンの有名なテーゼ「無意識はひとつの言語のように構造化されている」とは、そのように理解されるべきだろう。「人間」を詠んだ句とそうでない句が相対的に存在するのではなく、俳句は常に「人間」的であり、主体と他者との関係性の中で、俳句は「人間」そのものになる、のである。それは、「人間」によって俳句的な空間が生み出されるのではなく、五七五という限られた長さの詩形において生み出された俳句的空間こそが、遡及して「人間」的なものを生み出すのだということだ。俳句が「人間」的なものであるからこそ、俳句は「ことば」なのである〉と論述。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)9月号の「合評鼎談」(辻村麻乃・横澤放川・抜井諒一)の中で、同誌7月号掲載の関根誠子作「街角ピアノ」について、〈横澤「《花屑に下りて雀の浅蜊色》 〈浅蜊色〉がよい。雀の可憐さと、それに対する愛情がよく出ています。 《麦秋の香に励まされ生家あり》 〈麦秋の香〉がするというだけではなく、〈励まされ〉が一句の焦点になっている。生家を処分するという話が今、いろんなところで聞かれる時代。まだまだ長らえてくれという気持ちです」、辻村「《なま干しのジーンズにほふ花菜風》 〈なま干し〉は、生乾きということでしょうか。〈花菜風〉の匂いと生乾きの臭いの組み合わせは面白い。でもそんな組み合わせが、かえって心地いい風を感じさせてくれます」、抜井「〈なま干しのジーンズ〉は、確かに〈花菜風〉のムワッとした匂いと響き合っている。「ジーパン」とせず、〈ジーンズ〉としたところも言葉に丁寧。というのは次の句、 《鶴帰ることを教育テレビジョン》 句意としては、鶴が帰ったことをニュースなど教育テレビで見たのか。「教育テレビ」でもよかったはずですが、〈教育テレビジョン〉としている。つまり、和製英語の「ジーパン」ではなく〈ジーンズ〉を、略語の「テレビ」ではなく〈テレビジョン〉を選択している。この句はそれが効果的に働いて詩性が宿り、句が立っています」、辻村「《鯉料理花びらの浮く生簀見て》 鯉のあらいや鯉こくなど、美味しくいただく鯉料理。その生簀を見ると花びらが浮いていた。そんな優雅な鯉の姿を見た後で、鯉料理をいただく。 《粛々と薫風を押し横断幕》 〈横断幕〉なので何かの開会式でしょうか。〈粛々と薫風を押し〉と言っているのが、見事で晴れやか。おめでたい景色が浮かんできました」、抜井「《リラ冷えや街角ピアノに忘れ傘》 表題句ですが、これも〈リラ冷え〉が効いている。街角ピアノの音色が聴こえてきそう。瑞々しい雨上がりの街が浮かぶ。いかにも街角ピアノがありそうな瀟洒な街並みが浮かびます。 《明日ありと信ずれば混む冷蔵庫》 上五から中七までは非常にカッコいいけど、〈混む冷蔵庫〉で一気に生活感が出てくる。カッコいい季語をつけなかったことが面白い。買った物を冷蔵庫にいっぱい詰め込んでいる。それが、自分の生きていく明日に繋がっているという実感があります」〉と合評。またその同じ鼎談で同誌6月号の「令和俳壇」から辻村氏が、《春キャベツばりばり割れば水の音 氏家美代子》を取り上げ、〈作者は包丁ではなく、手で春の柔らかなキャベツを割っている。水分が多いから割れる。〈水の音〉という着地で、その瑞々しさも伝わってきました〉と鑑賞。
- 結社誌「秋麗」(藤田直子主宰)9月号の「現代俳句を読む」(川本美佐子氏)が〈春雷や脳の抽斗すこし開け 鈴木正芳〉を取り上げ、〈経験や知識や思い出がこれでもかと詰まった脳。なのにここぞという時に出てきてくれない。ここは雷の力でも借りて、眠っている記憶を引っ張り出そうということか。春を告げる雷は、古い記憶のみならず、新しい発想をも刺激してくれるかもしれない〉と鑑賞。句は「炎環」6月号より。