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しらべの不思議 Ⅰ

永田 吉文

曇りがちの一日、時間がとれたので、日頃考えている事を整理してみた。家に籠もって静かな時間に浸るのもいいものである。

芭蕉が作った句は俳句ではなく発句(地発句を含む)であり、彼は現代でいう俳人ではなく俳諧師であった事は、今日では大学生でも知っている。俳文学の専門家のいる文化系の大学では、それがきちっと教えられている。現代では連句と呼ばれている俳諧之連歌こそ「老翁が骨髄」とまで芭蕉は言っている。五七五の発句だけで芭蕉を語るのは、彼にとっても不本意であると言えよう。俳句しか詠まない現代俳人が発句のみしか論じないのは当たりまえなのだが…。もっとも現代では連句も実作する俳人が増えつつある。寒太先生もその一人で、連句協会の方々と楽しまれているようだ。ご存じの方もあると思う。

俳句は詩である、と誰しも認識して疑うものは無い。俳句は五七五の定型であり、その音数律ゆえに「詩」であると。ならば、五七五の定型に嵌っていれば詩になる、と言えば嘘になる。内容に詩がなければ俳句とは言えない。ポエジーが必要と言える。ならばポエジーのある短句が詩なら定型はいらないのでは…。定型が詩の前提ではない。定型だから詩なのではなく、定型に詩を込める故に詩となる。詩にとって定型は必然ではないように思える。ならば定型とは何なのか。これはあくまで「日本の文芸において」と言う事を抜きにしては語れない。

西洋の文学理論で日本の詩歌を割り切ろうと論じても、一見矛盾無く構成できたかに見えるが、しかし何時しか深い落とし穴に陥っているように思える。西洋の文学理論で、まず詩(韻文)と散文とに二分して考えるところから、私には違和感がある。現代教育で教わって来たことが自分の実感とは違う、そんなことを言っても信じてもらえないと思うが…。しかし日本の独自の文芸である詩歌を理解するには、そこから見直す必要があると思う。ならば、「五七五/七七の文芸」とは如何なるものなのか…。

俳句の英訳は、見事に詩になっているに違いない。それは、訳した元の俳句の意味を英詩に翻訳したに過ぎない。しかし出来上がった訳には「五音・七音・五音」の「しらべ」は無い。俳句は一行でいいのに多行書きにし、しかも縦書きではなく横書きにしている。そのことも違和感を感じざるをえないが、それは省いて先へ進む。「五七のしらべ」は俳句の本質に関わるものであるような気がしてならない。「五・七・五」のしらべなくして俳句と呼べるのだろうか。意味や象徴性は訳せても、「しらべ」は訳しようがない。そこに忘れてはならない「俳句」の、ひいては「日本の詩歌」の特色と魅力と不思議がある。俳句が、ただ詩だけのものであるなら、完璧に翻訳可能のものであろう。無論、英詩として。しかし、俳句が詩であるという認識故に、英語で訳し得たと思い込んでいるに過ぎない、と私は思う。その本質にかかわるものとして「五七のしらべ」があるが故に、完全な翻訳は不可能であり、俳句も単純に「詩」であるとは言い切れないものがあると知れる。それは短歌も同じことが言える。ならばその「五七のしらべ」とは如何なるものなのか…。

江戸時代の文人の松永貞徳や西山宗因、芭蕉の師だった北村季吟は、和歌も詠み、連歌もし、俳諧の宗匠でもあり、当然発句も詠んだ。それが自然と思えるのは、私自身その全てを現在同時にチャレンジし続けているので、自分のこととして理解できるのである。彼らは超人ではなく、努力してその全ての形式のテクニックを身につけたと想像される。それは、私自身平凡な一市民でありつつ、それらを楽しむことが出来ることで分かる。俳句・短歌・連歌・川柳の全てと、何の違和感なく向き合うことが出来るのである。時間をかけて精進すれば誰にでも出来る、と私は信じている。二兎を追うものは一兎をも得ず、と言われるが、私は、「五七五/七七」の一兎しか追っていないのであり、五七のしらべの世界の中に、短歌も連歌も俳句も連句も川柳も入っているに過ぎない。江戸時代の文人が出来ることは、現代人も出来るのは当然で、それを阻んでいるのは間違った教育と、現代人の偏見にすぎない。

私はいま還暦だが、二十代の頃「詩」を作っていた。ボードレールやヴァレリーの詩を岩波文庫の鈴木信太郎訳で読み、中原中也・丸山薫・村野四郎や草野心平から黒田三郎・石原吉郎・吉原幸子・石垣りん・茨木のり子から谷川俊太郎や清水昶・荒川洋治など様々な詩人達を読んだ。詩誌「歴程」の夏合宿にも何度か行き、その時の吉原幸子さんの印象をよんだ詩が当時の「歴程」に載っている。そして、友人達と詩の同人誌をつくり十数冊出した。詩のことは少し知っているので、三十歳から三十年間、短歌を詠み続けているが、短歌を始めて間も無く「詩」と「短歌」は違うということに気づいた。詩は自由詩。定型はいらない。無論、型はあっていいが、それが詩である条件ではない。もともと日本には「和歌のしらべ」はあったが、詩という概念はなかった。中国から漢詩がもたらされ、「詩」という言葉と概念がもたらされ、日本に「詩」というものが意識されるようになった。当時の日本人にとって詩は「漢詩」だった。しかし「五七のしらべ」はそれよりも前に既に存在していたのである。もともとあった「五七のしらべの文芸」を、中国や西洋の「詩」の概念に無理やり当て嵌めた所に大きな間違いがあったように思うが、どうだろうか…。

では、俳句とは何か。定型とは何か。それを知るためにも、俳句のルーツである連句を、次回から解き明かしていきたいと思う。お楽しみに。ごきげんよう。