しらべの不思議 Ⅱ
永田 吉文
連句の実作について具体的に述べるのは次回になりますが、その前に確認しておきたい事がありますので少し述べます。
俳句は連句の発句(第一句目)が独立したものですが、その連句は、江戸時代まで「俳諧之連歌」と呼ばれていて、私はその現代の連句の実作を十年続けています。そして私の修行した連句は、蕉風の伊勢派の流れです。蕉門十哲の一人である立花北枝(たちばなほくし)(生年不詳~一七一八)の論じた「自他場(じたば)」を利用して転じています。それを使って変化をつける目安にしています。「じたばたする」の語源ともなっているもので詳しくは次回に述べます。
芭蕉(一六四四~一六九四)は『笈の小文(おいのこぶみ)』(没後出版)で、「西行の和歌における、宗祇(そうぎ)の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、其貫道する物は一なり」と言っていますが、何故漢詩人の名がないのでしょうか。江戸時代は版本の出版が盛んになされた時代で、芭蕉も漢詩集を読んでいたことは、彼の残した数々のものから分かっています。尊敬する漢詩人もいたと思うのに、どうしてここにその名がないのか…。それは漢詩が、俳諧とも和歌や連歌とも違うものである、という認識を持っていたのではないか、と思うのです。しかし、そう簡単に結論づけるのも早急にすぎると言えますね。もう少し調べてみましょう。
芭蕉自らは俳論を書き残していません。が、直弟子の何人かは書き残していて、芭蕉生前の俳論をうかがい知る事ができます。芭蕉の門人の一人・服部土芳(はっとりどほう)(一六五七~一七三〇)の著した俳論書『三冊子(さんぞうし)』(一七〇二)の一冊『白さうし』の巻頭には、「俳諧は歌なり」とあります。皆さんはどう思われますか。俳諧は歌であると…。初めてそれを見た時、私はびっくり仰天し、数日間そこから先が読めず、何度もその言葉を反芻していました。和歌は万葉集(八世紀中頃の成立)以来、芭蕉達の生きた江戸時代まで九百年歌い続けられ、今日の私達まで千二百年の歴史を持つ、日本を代表する文芸の一つです。俳諧がその歌であると…。何故「俳諧は詩である」と書かなかったのでしょうか…。
万葉の時代には既に漢詩も輸入され、貴族や僧侶達に盛んに読まれ、実作もされていました。それは江戸時代まで続いていたはずです。なのに中世の歌論書にも「歌は詩である」とは書かれたことはありませんでした。漢詩をあれだけ享受していた人々が、何故「和歌は日本の詩である」と書き記さなかったのか…。やはり漢詩と和歌、詩と歌は異なるとはっきり認識していたのではないか、と私は考えます。
短歌を二十年以上詠み続けていたその時の私にとって、「俳諧は歌である」という言葉は、全く思いもしなかったことでした。間もなく知ったことですが、それは十四世紀の北朝の関白であった、歌人で連歌師の二条良基(にじょうよしもと)(一三二〇~一三八八)の残した連歌論書『僻連抄(へきれんしょう)』(一三四五)とその改定判である『連理秘抄(れんりひしょう)』(一三四九)の巻頭にも「連歌は歌の雑体(ざってい)なり」とあり、土芳の『白さうし』はこれを踏襲しているのです。江戸時代の俳諧師・土芳の「俳諧」は。勿論「俳諧之連歌」であり「俳諧歌」ではありません。あくまでも俳諧は連歌であり、歌の一体である、という認識なのです。当時、五十歳を過ぎ初めてそれを知った私は、現代短歌しか知らなかった事に忸怩たる思いでした。
① 咳をしても一人(6/3)
② 霜とけ鳥光る(4/5)
(『尾崎芳哉句集』岩波文庫より)
③ 夏草の深さに牛の尾は耽り(5/7/5)
④ 雲中の野蜂もいつから結晶に(5/8/5)
『増補・安井浩司全句集』沖積舎より)
二十代三十代で詩を書いていた私は、これらを大変面白がって読んでいました。この二人は俳句で詩を書いている、と自覚していたように思います。俳句で詩を書けばこうなる。詩としての俳句を見事に描いていると私は思います。ファンも多い。①には咳という、②には霜という冬の季語がある。しかし五七五の定型には合っていない。西洋の詩論から言えば、定型ゆえに詩と言えるのが俳句なら、これは俳句とは呼べないでしょう。しかし①も②も詩といえる。詩は自由に表現することが出来、内容が詩であるからです。しかし、季語があっても俳句とは言えない。定型になっていないからです。では、浩司の句はどうか…。③夏草(夏)も④の蜂(春)も季語であり、ほぼ定型であり、俳句の要素は備えていて、詩になっています。俳句で詩を書けば浩司のようになります。詩は自由なフォルムでいいので、五七五の定型でもいいし、季語を入れてもいいのです。しかし、私が思う俳句とは違っています。浩司は、季語をいれた定型の詩を作っていても、それは俳句ではないと私は思うのです。尤も、詩人は定型に縛られることを嫌い、多くの詩人は短歌も俳句もつくりません。日本において詩は、現代詩は定型を嫌い、自由な表現形態を選びます。私達は既存の文学論や詩論俳論によって惑わされているように思えるのです。
さみだれを集めて早し最上川
芭蕉(一六八九年・奥の細道)
流れ行く大根の葉の早さかな
虚子(一九二八年・五百句)
この二句は、私の大好きな句で、どちらも立派な俳句と言えるでしょう。ただ内容は、眼前の景色を言っているだけです。五月雨が降り、それ故に早く流れ下ってゆく最上川。目の前の流れを大根の葉っぱが流れていくということをいっているに過ぎません。見たままを五七五の定型にあてはめているだけです。そして、詩人の目、放哉や浩司の目からみれば、この二句は詩ではないのは明らかでしょう。しかしそれは目の前に恰も目に見えるように一つの景色が描かれています。優れた俳句と言えるでしょう。それは叙景詩であるのだろう、と言う方もあると思います。ならば叙景詩を書くのに、何故わざわざ定型を選ぶのでしょうか。放哉はそう答えるでしょう。五七五の定型を使わず、それより短い叙景詩は、詩人なら書けるでしょう。定型である必要はないと詩人はそう言うでしょう。定型に嵌まってるから詩である、とも最早言い得ないでしょう。日本の文芸を、詩と散文に二分する文芸論は、現実とは乖離していると言えるように思えますが、いかがでしょうか。では、俳句とは一体何なのか、それは、連句の解説が終わった後で、最終回に詳しく述べたいと思います。
西行法師(一一一八~一一九〇)は、百人一首にも歌が載っている誰もが知る有名な歌僧です。新古今和歌集随一の入集数九四首の大歌人でもあり、その歌集の一つの『残集(ざんしゅう)』を岩波文庫の『西行全歌集』で見てみると、次のようにあります(詞書一部省略)。
(舟の渡りの所で-以下も()は筆者注)
空仁
はやく筏はここに
これは友人の空仁(生没年不詳)の「(渡し場で川を渡ろうとしたら)おや、もう筏がここへ来たよ」という驚きの句(七七の下句)に、「大堰川の上流には筏を堰く井堰はなかったのか」とこたえる句(五七五の上句)を西行が付けています。これは現在でいう短連歌(たんれんが)(二句一組)と言えます。十二世紀頃は、五七五の上句に七七の下句を付けるだけでなく、七七の下句を詠み掛け五七五の上句をこたえる短連歌も行なわれていました。それらが連なっていって、鎖のように長く続いていったものが連歌(鎖連歌(くさりれんが))であり、現在の連歌のルーツです。
連歌も連句も構造は同じです。簡単に言うと、五七五の句(長句)と七七の句(短句)とを交互に詠み続けていく文芸です。しかし、西洋の文芸と大きく異なるのは、それを一人の人が詠むのではなく、複数の人が詠み連ねてゆく即興の合作であるという事です。最初に誰かが五七五の長句(発句)を詠み、別の人が七七の短句を詠み、さらに違う人が長句を詠む、というように、長句と短句を異なる人が詠み連ねていく連想の文芸なのです。前の人の句に自分の句を「付ける」と言い、これを「付合(つけあい)の文芸」とも言っています。
連句が、他の文芸とも又西洋の文芸とも異なるのは、「テーマが無い、テーマがいらない」、ということです。それは西洋の文芸からは考えもしない物でしょう。全く主題が無いし、いらないのです。それ故「タイトル」もありません。西洋の詩で主題・テーマの無いものは、単なる行の羅列にすぎないものとなってしまうのではないでしょうか。それをも「詩」と呼ぶとしたら何か変に思えるのは私だけでしょうか。
現在の連句にも「○○の巻」と書かれていますが、それは他の作品と区別する符牒に過ぎません。なのでそれの多くは、発句の上五をとって付けています。好き勝手に巻名を付ける方もありますが、それは現代の連句人の好みに過ぎず、本来の付け方ではありません。芭蕉の時代には「巻名」などありませんでした。主題など無いから当たり前なのです。
連句には統一したテーマはありませんが、一巻(全体)を構成する要素として「序・破・急」という詠み方の基準があります。それはまた次回以降に詳しくのべます。まずは西洋の文芸との違いが多々あるということを知っておいていただければと思います。
では最後に、連句にはどんな魅力があるといえるのか概略を述べておきます。まず、①一句一句の芸術性、面白さがあり、②他人の句に自分の句を付けて、一つの歌的世界(五七五/七七、あるいは、七七/五七五)を描く醍醐味と快感があり、さらに③打ち越し(前句のさらに前の句)とは異なる世界を描く「転じ」のスリリングな変化の鮮やかさと美しさがあり、④その場その時の即興による頭脳的スポーツとも言える魅力があるのです。さらに⑤その根底には「輪廻(りんね)を断つ」という仏教観に基づいた一つの思想性によって貫かれていて、神羅万象を詠み込むことを目標としています。巻き上がった(完成した)作品を記録したものを懐紙(かいし)と言いますが、それは、将棋のプロ棋士の棋譜にも似た芸術性があります。複数の人間(連衆と言います)が心を一つにし共同して作成する「和」の文芸なのです。それは詩とも散文とも異なる世界にも珍しい日本独特の文芸と言えます。次回から、連句について具体例を通して解説してゆきたいと思います。お楽しみに。ごきげんよう。