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しらべの不思議 Ⅴ

永田 吉文

暫くお休みしていました。申し訳ありません。再開します。前回は「脇」の句(二番目の句)までだったと思います。

  • 第三 二番草(にばんぐさ)取りも果たさず穂に出でて 去来

季節は、二番草(二番目の田の草取り)で夏。田の草取りは、六月頃の田植えから七月頃までの間に、三、四回行なう。稲穂の出始めるのは、例年なら三番草の頃なのである。しかし、この年は例年にない暑さのため稲の生育が早く、二番草を取り終わるか終わらないうちに、もう穂が出始めたというのである。発句と脇では、都会の風景が描かれていたが、第三では(脇と合わせて)田舎の風景へと変化させている。発句と脇とを合わせて読むと「あつしあつし」と言っているのは都会の街中の声と読めるが、脇と第三とを合わせて読むと、「あつしあつし」と言っているのは農夫であると読める。さらに、発句は夜の景であるのに対し、第三は昼の景と読める。

発句と脇では、都会の夜の一場面を切り取っている一つの作品であり、第三と脇は、農村の昼の一場面へと変化させている別の作品となっている。発句と脇を作った作者には思いもよらなかった句を、第三の作者が「付ける」ことにより、意外な展開、驚くような変化のある句へと「転じ」てくれている。その驚きと感動、それこそ連句の醍醐味と言える。

こういう風に一句(脇)置いた前の句(発句)のことを「打越(うちこし)」と言い、打越から変化させることを「転じる」という。そしてこれ以後、どんどん転じていくのが連句の醍醐味と面白さと言える。つまり、前の句に「付ける」、そして打越から「転じる」この二つのベクトルによって進行してゆくのである。それ故連句は「付けと転じの文芸」と言われている。

第三の句末にも決まりがあり、「に」「て」「にて」「らん」「もなし」のどれかにせよと言われている。発句と脇の景から別の景へと転じる為、そして次の四番目の句と合わせて一つの景を作るその橋渡しをし易くする為に決められたルールと言える。特に「て」留めは、連歌の時代から多く使われ、今日においても第三の句末として連句人達に愛用されている。

発句、脇、第三の三句は、このように特別な詠み方や名称で呼ばれているのは、それだけ重要な句であるからで、連句を巻く(実作をする事をそう呼んでいる)時は、いつもこの三句は丁寧に付け合うのが常である。後の句は、最後の句である「挙句(あげく)」以外全て、「平句」と呼ばれている。

  • 四 灰うちたたくうるめ一枚 兆

これは季節のない句、「雑」の句と呼ぶ。うるめ鰯自体は冬の季語であるが、ここは「一枚」という事から干物であると解かる。故に季節に関係のない句として扱われている。式目では、夏の季の句は、一句から三句まで続けて良い事になっているので、第三までで夏の句は付け終わっている。尤も、夏の句は一句でも良いというのは平句の時で、発句で夏の句を出した時は、脇も必ず夏の句を付けなくてはならない。それは、発句が一座への挨拶の句だからであり、脇はそれに挨拶を返す句であるので、同じ季節の季語を入れなければならないからである。勿論、第三では季節のない雑の句でも良かった。

季節の句の続けられる句数は、夏と冬が一句から三句までで、春と秋は三句から五句までである。それは連歌の時代から同じであり、勅撰和歌集の部立で夏冬が一巻づつであり、春秋が二巻と倍の量であるのを見れば分かる通り、中世の歌人達が夏冬より春秋を好んだことに由来している。連歌は八百年の歴史があり、俳諧も四百年の歴史がある。現代の連句もその上に営まれている、世界に誇れる日本固有の文芸と言える。それ故、和歌や連歌の伝統が生きている。

四の句に戻ると、燠火で直に炙ったうるめ鰯の干物を、炉端で灰をたたき落としながら食事をしている、農夫の気ぜわしい日常を描いている。前句の草取りという農事に対し、その農民の食事風景を切り取った句となっている。一句前の打越の脇句は、外の景であったのに対し、この句は家の中(囲炉裏端)へと転じている。この様に、どんどん転じて行く、変化してゆくのが連句の詠み様である。

これは、連句の根底に流れる「輪廻(りんね)を断つ」という仏教思想に基づいている。打越の句と同じ趣向の句になる事を「観音開き」と言って嫌う。そうなってはいけないと。同じ趣向、輪廻になることを避け続けてゆくのが、連歌や俳諧の基本である。

この一巻には、伊賀上野芭蕉翁記念館が所蔵している『草稿』が伝わっていて、「破れ摺鉢にむしるとびいを(飛魚)」となっている。この初案では、「破れ摺鉢」に侘しい農家の生活が出ているが、前句にある農繁期の気ぜわしさの余情が受け取れていないとされる。「灰うちたたく」にはそこの所が良く響いている。芭蕉の斧正(ふせい)、添削と思われる。

一巻の作品としての責任は宗匠(そうしょう)にある。現在では「捌さばき」がそれに当たる。一巻が巻き上がると、捌き手がこれを校合(きょうごう)する。連句を巻いている最中には、式目や語句の不備などを見逃すことが意外にある。連句の実作の最中は、流れの停滞を恐れ、その場では不十分なままでも、付合の進行を重視する場合がある。それは芭蕉の時代も今も同じである。