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主宰・石 寒太

寒太独語 2016年~2021年

「炎環」主宰・石 寒太による俳句の箴言を毎月ご紹介します。

2021年11月(No.105)

マスクをしっかり着けて
東京句会再始動の日

見たままだけを十七音に写す。
それは報告。

そうではなく、自分だけがそこに存在しているか否か、
それを立ち会って確かめる。
自分の息が、俳句の中に通っているか否か。
そこだけが肝心。

俳句になるか、報告か。
その一点で、俳句は決まる。
それがあなたの俳句。

2021年5月(No.99)

こどもの日、俳句の未来を抱いて
阿佐谷ナイト句会

近代、明治になって、俳句は一本立ちし屹立した。
いいことではあるが、喪ったものも大きい。

例えばイロニーもそのひとつ。
他人への思いやりも、そう。

それを、ひとつひとつ回復させていくのも、
現代俳句の役目。

そういう句を、復活させていきたい。

2021年2月(No.96)

一年の安からんことを願い
川越七福神めぐり

少し俳句に慣れてくると、
技術でつくって安心する。
楽になると、初心のときのように
ドキッとしなくなる。

これがテクニックになり、
小手先、頭でひねるようになる

        

が、初心の緊張感が大切。
安心してしまうと、もう前進はない。
つねに初心に立ち返ること。

2021年1月(No.95)

ももちどり句会200回記念吟行
保渡田古墳群を巡り

俳句は、五・七・五の型と季語の詩型。
それで俳句らしくなる

実はそれが落とし穴。
型ではなく、作る人のこころ。
俳句の型と同じように、
作る人間の中身が大切。

新鮮なおどろき、
こころの中に動き出し、
燃えだしたものを
一瞬のうちにとらえるのだ。

2020年9月(No.91)

2017年秋の義仲寺にて
この秋は旅の日々も懐かしく

俳句には、むずかしいことばは、いらない。

いつでも口にして、いつも使っている
平凡なことば。

それを好きになり、
それを俳句にしたい。
好きになることばは、
こころに沁みて深い。

それを、俳句に書き留めたい。

2020年8月(No.90)

表現の自由の制限から始まること
忘れてはならぬ八月

朝起きると、
きょうはどんな俳句と
会えるだろうか、と楽しくなる。
つくる句はもちろん、
目にふれた句を、選ぶことも-。

生きている瞬間。
それは、出会うまで、
予測も予感もない。
でも必ず一日のなかで、
生まれてくるものなのだ。

   

2020年7月(No.89)

伊香保温泉河鹿橋にて
懐かしい旅の日々

俳句は、そのひとのすべて。
人生があらわれる。

つくった人は気付かなくても、
ことばの深奥には、その人がいる。
だから面白い。
しかも怖い。

        

隠していても、すべてがみえる。
それがその人の俳句

2020年6月(No.88)


外出自粛要請がつづく。
会いたい人にも会えず、
ゆきたいところへも行けず、
在宅ばかりのつづく朝。

でも、みんな伝わっている、
俳句のこころ。
思いはみんな、つながっている。

俳句をつくっている人は、みんな仲間、
いつでもどこでも・・・・・・。

2020年5月(No.87)


俳諧の教えに「乞食の袋」の言あり。
頭陀袋のこと。
石三(せきぞう)のことば

転じて和歌や俳諧において、知識を増やし、詩嚢を肥やす意。
俳諧(俳句)のみに終始しないこと。
知識を蔑視せず、あらゆることに興味をもち、
さまざまな知識をたくわえておく。

それがいつか、自分の俳諧(俳句)に、
必ずや生きてあらわれる時が、来る。

2020年4月(No.86)


選句の葉書に目を通すと、
誤字、脱字、かなづかい、送り仮名のまちがいが多い。

俳句は十七音の世界最短詩型。
一字でまったく異なった句になってしまう。
たった十数字で成り立っている俳句。
投句する前に必ず「辞書」に当たり
「歳時記」に当たって確かめること

これが自分の俳句を大事にすること。
ひいては選者に対して礼をつくすことでもある。

2020年3月(No.85)


俳句は森羅万象、
あらゆることが詠める。
この宇宙に存在する、さまざまなことを。

しかし、最終的には、
生と死につきる。
このごろそう思うようになった。

ということは、
自分もそろそろ、死に近づきつつある、
ということなのであろうか。

2020年2月(No.84)

新しく独自のどっきりを探して
炎環新年句会にて

いい俳句はすっきりしている。
美しい調べに仕上がっている。

句会でいつも言う。
すっきり、はっきり、どっきり。

すっきり、はっきりまではなんとかできる

いちばん大切なのは、
最後のどっきりの感動。
このために、われわれは、俳句をつくる
それが自分の俳句。

2020年1月(No.83)

27年が経ち、新たな旅の始まり
創刊五周年記念行事にて

俳句づくりのたのしみは、
自分では思いもよらない句が、できてしまうこと。

場に臨み、物にぶつかり、
事に即して、一気に句になる。

そんな時、計らいのない句ができる
自分でもびっくりする。
そこがたのしい。

埒外の一瞬のたのしみ。
至福の時間。

2019年12月(No.82)

一年の失敗も落胆も笑顔に溶けて
阿佐谷ナイトひよこ句会の忘年会

初心者は(いや初心者でなくとも)
俳句は、いっぱいつくって、多く捨てること

句会に参加し、いい俳句を読むこと。
雑誌への投句は、怠らず続ける。
失敗、落胆することを恐れない。

うまくなってから、といっていると、
上達などない。

多作・句会・投句。
始めたらつづけること

2019年11月(No.81)

懸命に作り真摯に選び真剣に論じる
炎環東京句会にて

俳句をつくることは、
自らを覚り、その人生を確認すること

自然を知り、旅や日常の中で、
己の人生を確かめること。
自らの求心的風貌を示す。

詩は感情ではなく、
経験をことばで実証すること。
俳句は、ある時のある経験や風物を
ものやことに託して
詠み上げることだ。

2019年10月(No.80)

奥の細道の足跡を巡る旅も佳境に
酒田・山居倉庫にて

俳句は遊び。
ただ、真剣な遊び。

俳句の「俳」は、ふざけ、遊び、ウィット。
戯遊のこころが大切。

リラックスの中の緊張感!
そういう生き方が俳句になる。

いのちの俳句は、
そんな中から生まれる。

2019年9月(No.79)

環の会総会後の懇親会にて
細くて太いふしぎな絆で結ばれて

世の中で、いちばん太い絆は、
俳句です。
いちばん細い絆も、
俳句です。
たよりないのも、
俳句です。

だから俳句は面白いのです。
そう感じてつくりはじめたとき
はじめて強い絆になります。

それが、あなたの俳句です。

2019年8月(No.78)

四方に関ある甲斐の国へ
山蘆吟行での鼎談

ことばにいのちはない。
それを与えるのは、あなたの俳句。

言霊によって、いのちが吹き込まれ、
あなたのこころが、投影され一句になる。

生きていることばが、
たましいのふれあいを求め、
一句に結晶し
あなたの俳句になる。

2019年7月(No.77)

生きていてこの日の句座を共にして
笹塚句会句会後の懇親会

生きていると、ひどく落ち込むことが時々ある。
悲しみの淵に立たされることも。

でも、そんな時も、俳句を作らなければ。
そんな時だからこそ、いま、つくらなければ……。

生きていると、ある。
生きているから、出会う。

それを、記録する。
それが、あなたの
一句になるのだ。

2019年6月(No.76)

杉木立ちのなかの八角三重塔と主宰
洋洋句会夏の吟行にて

ひとりで俳句をつくるのもいい。
でも、ある程度俳句をつくることを経験したら、
思いきって、自分の俳句を、他の人に見せること。

そのためには、句会に出ること。
吟行に加わること。

勇気をもって、人の環に入ること。
その勇気が大切。

それが、あなたの俳句を、
ひろめることになるのである。

2019年5月(No.75)

明るい句座は俳句のゆりかご
吉井句会四万吟行

俳句づくりの楽しみは、いま、自分のことばで、
何ができてくるかわからないところ。

事に即し、ものに対峙すると
思いがけない俳句が即刻浮かんでくる。
その面白さが、俳句の快。

あらかじめ用意した俳句には、計らいがある。
瞬時にできた俳句こそ、
本当にその人の俳句。

2019年4月(No.74)

加藤楸邨の墓所九品仏浄真寺にて
「寒雷太郎」として

俳句は十七音の結晶。美しい厳しい定型詩。
ことばの組み合わせとリズム。

ひら仮名、カタ仮名、漢字、その他。さまざまのバランス。
それが、モノやコトとひとつになり、詩になるのだ。

詩にならない俳句は、イメージもリズムも乏しい。
すべて美しい詩となり奏でる。
それが完成された俳句。

2019年3月(No.73)

若き日の石寒太主宰
炎環のほむらは今も広がり続けて

俳句は誰のためにつくるか?
自分のため。自分のいのちの証。
一瞬の自分のいまを、書きとめるのである。

句会で大勢の人から点を集める、
賛同を受けるため、ではない。
点が集中するのは、うれしいが、
そんなものは一時のこと。

うまくつくれなくてもいい。
自分が納得できたら、それが最高。

2019年2月(No.72)

楸邨山脈に連ならんとする仲間と
笑顔集まる新年句会

たとえば「虫時雨」「落葉時雨」はにせものの時雨。
「青嵐」「芋嵐」も嵐を薫風や芋に託した嵐。

季語によって人の心をそこにあらわすと、
本物の時雨や嵐となって、
俳句となる。
季語とは、そういうものである。

虚と実のごとく見せて、
実より本物らしくなる。

それが季語。
それは、不思議なことば。

2019年1月(No.71)

一茶192回忌全国俳句大会での講演
上々吉の新しき年を

俳句は感覚が大事。
俳句は気力が大事。

でも、一番大事なのは、
継続である。

つづけていくうちに、だんだんと自分が分かってくる。
それから徐々に
自分のものがじわじわと生じてくる。

力がわいてくるのだ。

2018年12月(No.70)

炎環同人のお子さんと
この笑顔から新しい俳句よ起これ

つくり終わって、自分の許を離れた俳句は、
自由にひとり歩きする。
歩かない俳句は狭いということ。

自由に、どこまでもはばたく。
その範囲が広く無限なほど、
その俳句は素晴らしい句。
それこそが潔い句。

みんな、いい句をつくろう。
自由な世界をめざそう。

2018年11月(No.69)

日光の湯滝を浴びて
スタイリッシュな装いで

若い人は若い句を、
齢を重ねた人は老人の句を、
背伸びも、回想もいけない。
その時の句をつくること。

貫くものは人間の真実。
読む人を感動させるのは、
句をつくる人の、感激にほかならない。

いまを、自分のことばで。

2018年10月(No.68)

奥の細道、武隈の松の前で
目さむる心地はしたでしょうか

俳句表現にことばの制限はない。
が、ことばはやさしく思いは深く。
誰にでも伝わるように。

平易なことばは、
ことばを自分のものとする。
感動は、借りものではない。
自分の感動は、
自分のことば以外にはない。

あたりまえのことば。
それがいちばん大切。

2018年9月(No.67)

本の虫たちと連れだって
阿佐谷ナイト句会神田神保町吟行

俳句表現の妙味は、
描いて、
しかも空白の存するにあり。
俳句だけではない。
絵画に於いて、
写真に於いて、
音楽に於いて、
まして、茶、能すべて。

俳句に於いて……。
空白の美、
空白の意味、それが俳句の味なり。

2018年8月(No.66)

信州蕎麦の美味さにしばし無言
洋洋句会蓼科吟行でのひとこま

生き方を示すのではない。
作品の中に生き方があらわれるのだ。
俳句実作においては、作者はいつも、
自分の生き方に対峙している。

だから、とりたてて示さなくても、
その自然さが滲み出る。

態度そのものが、作者を決定し、
それが、俳句としてあらわれるのである。

2018年7月(No.65)

あじさいのよく似合うひとと
環の会鍛練句会前の吟行にて

俳句は、前書き不用の詩型。
よりて世界最短詩とはなれり。
但し、
前書きがありてこれ、
その句に光添ふる時は、
肝にして要あり。
照応の芸術なり。
記録として残さるる刻は、
前書きにて縷々述べる堅し。

さやうに
心すべし。

2018年6月(No.64)

石に刻まれたいにしえの言葉
多胡碑覆堂にて高崎句会吟行

物はことばを待っている。
作者は自分を離れ、果てしなき時空をさまよい、
ひとつの物と出会う。

物とことばはひとつとなり、
永遠の俳句となって結実する。
作者は、永遠のことばで、
つなぎ留めるのである。

この遊心が俳句となる。
それが、心語一如

2018年5月(No.63)

GWの夜も俳句に更けて
阿佐谷ナイト句会

十七文字で切らずに述べれば、説明文になる。
十七音を二つの部分に分け、それをぶつけ合わせると、
中間にクレパス(空間)が出来る。
そこに読者が入り込む。

そして、ひろがる。

底しれぬクレパスを覗けば、
ひとつの詩(ポエジー)が見え、世界ができる。

俳句の深さとリズムが成立する。

2018年4月(No.62)

落花のなかの飛鳥山お花見吟行会

ひとりひとり顏がちがう。
ひとりひとりの句のつくり方も、当然ちがっていい。
下手もその人の個性のひとつ。
そのうちに、必ずその人の俳句になる。

みんなちがってみんないい。
自信をもって、自分の句をつくろう。

自分の句が、その人の顔になる。

2018年3月(No.61)

創立三十周年記念大会主宰挨拶
また、次の目標に向かって

句会に初参加した人に、「投句してください」というと、
「初心者だから」とか、「下手だから」といい、
なかなか投句までいかない。
でも、「初心者」で「下手だから」学ぶのだ。

俳句に志したら、ともかく皆の中へ入ってみる。
そして、いろいろな意見を聞く、
そこから、はじめての俳句がはじまるのだ。

2017年12月(No.59)

去来祭の落柿舎へ

「もの」により、
「こと」に託し、
自分を発見し、覚醒し、
詩にすることが俳句。

目の前に、流動してやまない、
ことばを、自分で捉え、詩に成す

それが、自分の一句として、
結実する。

2017年11月(No.58)

主宰の必需品
辞典の角はうさぎに齧られたそう

俳句の必需品、
①歳時記
②俳句手帖(句帖)
③国語辞典
この三点は、いつも机の上に置くか、携行するようにしよう。
これは自分のもの。
他人のものを借りているうちは、
自分の句にならない。
それが、俳人の基本。

2017年6月(No.53)

炎環笹塚句会
楽しさと緊張感が句会の醍醐味

なぜ俳句か?

はじめから自分の意志で 俳句を選んだ人は少ない。
が、俳句を選んだからには、俳句で表現する。

その特長を把握すること。
俳句は散文ではない。韻文である。
そのことにまず目覚めること。それが俳句表現の出発となる。

2017年5月(No.52)

炎環編集会議 編集長と談笑中

物語が構築される過程には、虚がよく組み入れられる。
見えない魔性に暗示を託す。

俳句でもしかり。俳句の読み手に委ねられる虚。
それも俳句の質のひとつ。

虚と実のあわいが俳句。
その割合は人によって異なるが、それが隠し味になる。

そのあたりを学んで欲しい。

2017年4月(No.51)

洋洋句会 甲斐吟行での一枚

俳句は短い。

世界最短の、定型の詩。

型があって詩のない俳句。それは抜け殻の十七音。

不用のことばを捨て、核のみ残す。そして詩を入魂
リズムを整え、詩が成る。

それが俳句。俳句は短い。

2017年3月(No.50)

石 寒太主宰 炎環本部句会にて

芭蕉は「俳諧は夏炉冬扇」といっている。
文字通り、夏の炉や冬の扇、この世には何の役にも立たない。
つまり、無用の用である。

俳句でトクをするわけがない。だから、熱中するのである。

俳句でトクをしたり、もうけを求めるなら、もっと他のことをしたらいい。

しかし、自分には、必ず返ってくる。

2017年2月(No.49)

奄美大島吟行

俳句は短い。なぜ短いのか。

ひとりですべていいつくすのではなく、作者と読者がともに分かり合う。その部分を空白で示す。

書かれていないところに、想像がひろがり、真実がある。

あらわれていないことが、いちばんいいたいところ。

2017年1月(No.48)

主宰・石 寒太を囲んで
平成二十九年度 炎環新年会 懇親会

俳句は、その刻々のたましいのつぶやき。

新鮮なるつぶやきが、後の世にも輝きを喪う事なく、
人に感動を与える。

そういうことに、終始して、俳句をつくること。

そういう俳句人生を送りたいと思う。

2016年12月(No.47)

Sara句会 20句作品合評会にて

季節のことばをじっとみつめてみる。
一年中あっても、「トマト」は夏。「朝顔」は秋。

いま、地球の温暖化が叫ばれ、季節のズレが問題の焦点になっている。でも、それは、ことばである以上の、不易流行によって、日本の祖先たちが見極めて定めたもの。美しい造形である。

季節感はうすれても、季節の戸籍として定められたことば。
ひとつひとつを噛みしめてみよう。

2016年11月(No.46)

鬼石の冬桜・紅葉吟行
参加者とそのお子さんと一緒に

俳句はもともと俳諧から出発。人や風土への挨拶が大切。

挨拶とは、おもいやりのこころ。ダイアローグの精神で句をつくる、やさしいことばで思いは深く。
かたちは代わっても、こころは変わらない。

俳句のこころは、人それぞれの中に、生きてことばに生まれ変わる。それが、いまの俳句。

2016年10月(No.45)

新潟・山古志村吟行
晩秋の杜々の森

俳句は魅力があり、面白く、飽くことがない。

でも、もっとすごいのは、俳句をめぐる人の環である。
怖ろしい人がいる、素晴らしい者がいる。

その者たちと出会うことが、実は、
俳句の宝であり、そのものである。
自分のひろがりに絡がる。

2016年9月(No.44)

炎環「環の会」総会

俳句は、私を記録する短詩である。
でも、表現上では私をおもてに出さない。

私を詠むということは、私の独自の視点から捉えること。
私の目から見た、私の目を通し、私が判断し、私の表現になること。

一般の人の視覚ではなく、私を通した表現にする。
それが俳句である。

2016年8月(No.43)

おくのほそ道吟行
最上川舟下り 直前の談笑

俳句は、作るという。書く、という人もいる。また、捻るとも、詠むとも。
あなたはなに派?
が、まれに賜ることもある。

何も考えずに、ことばが天から降ってきて、それがそのまま繋がって、一句に完結。

めったにないが、これが理想かも。こんなときを待って、日々努力を重ねる。

2016年7月(No.42)

隠岐吟行
石 寒太の師、加藤楸邨の句碑の前で

俳句をはじめたら、必ず、句会に出ること。
それが上達の秘訣。

ひとりで作っているうちは、まだまだ時間のムダ。
投句をし、選を受けて、自分の欠点を知ること。

俳句は“座”の文学。
ともに学び、いっしょに伸びてひろがってゆく。

俳句とは、そういう特殊な文芸。
句会に参加したら、つづけ、怠らないこと。

2016年6月(No.41)

炎環 松山俳句大会
子規堂の旅立ちの像

自然は、見えているようで、なかなか見えない。
我を凝らさないと、見えてこない

俳句は季の中にいて、気を乗せつくる。

一季に集中して、一気につくる。

そのとき、季節の自然が、本当に見えてくる。

2016年5月(No.40)

群馬・ももちどり句会
吟行後の歓談を楽しむ主宰

その人の俳句がいいか悪いか。本当のところは、よく分からないもの。でも、分かるのは、その人にとって、俳句が生きて動いているかどうか――。

他人の俳句と同じものは、はじめから死んでいる。あくまでも、作者の感動となって、自分の十七音に切り結ばれているかどうかにほかならない。感動が、自分のものとなって、表現されているからこそ、その人の個性。

自分の感動が全きものになって、はじめてその人の句となる。

2016年4月(No.39)

新宿御苑お花見吟行にて

いちにち いちにち、一瞬(とき)は過ぎ去っていく。

自分の句づくりも、いちにち、いちにち、終わっていく。

だから、昨日のわれではなく、今日の自分を求めて
一瞬を心に刻み 今を俳句にしよう。

2016年3月(No.38)

新宿若葉句会
お気に入りの帽子姿で

俳句づくりの楽しみは、自分にどんな句が出来るか、自分でも、分からないところにある。

そこで感じた一瞬、その場、そのとき、われの感動。
そのひらめきが、即、一句になる。

それは、自分の思いの外にある。
俳句が、天から降りてくる、その一瞬。

2016年2月(No.37)

横浜句会
参加者のお子さんとくつろぐ主宰

俳句の旅は、ふりむかない旅。
詩を求めてのこころの遍歴。

われという存在を探し、ものに触れて、われとものをひとつに。
旅と俳句がひとつにする、根気と覚悟。

「いま」の一瞬をつかむために、俳句は、詩に生むために、時間(一瞬)を切断する、旅だ。

2016年1月(No.36)

主宰・石 寒太
平成二十八年度 炎環新年会にて

いまを生きる充実感。
季節の移ろいを楽しむ満足。
人と会うことの喜び。

俳句は、その時の、その人の生きている実感。
その出会いを信じて、いつも新しさを求めて、新は真なり。

芭蕉はいった「きのふの我に飽く」と。
俳句の風雅とはそういうもの。