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自覚者達の芸道 02

島 青櫻

 無自覚的芸道者の詠む歌は、先にみたごとく、無常の世を生きる悲哀や寂寥を詠歎する歌や、現世の縁を断ち遁世に住む憧れや願望を詠んだ歌が多い。一方、同じ無常の世を自覚をもって生きた西行の歌は、如何なるものであったか。「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさよの中山」といった無常を生きる悲哀を詠歎した歌、「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕ぐれ」といった寂寥を詠んだ歌、「浮かれいづる心は身にもかなはねばいかなりとてもいかにかわせむ」、或は、「鈴鹿山うき世をよそにふり捨てていかになりゆくわが身なるらむ」といつた遁世への憧れと不安を詠んだ歌、更に、「願はくば花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」といった遁世における願望を詠んだ歌等は、無常の世を果敢なみ、現世を遁れ過した無自覚的芸道者の歌と一見、同じ様にみえる。無自覚者の歌と、自覚者である西行の歌とは、どこが異なっているのだろうか。

 一般に、自覚者に開かれている経験世界は、一心裡における一個の中心という自覚に基づく、只中の世界である。そこは、無常の境(此岸)と恒常の境(彼岸)とが相即する一如の世界である。自覚者の発心と出家は、己という存在は斯様な一如の世界の裡に被投された限りのある命、という覚醒の自覚を契機とする。出家とは、事実的には、家を出て仏門に入ること、或は、俗世間を捨て僧となり、仏道修行に入ることを意味する。しかしながら、出家という既住の住処を捨てて他処に移る行為は、本質的に捉えれば、一心という無量の住処の裡に己の命を投げ入れ、一心の理法に帰依することによる真の命の実現にある。修行とは、真の命の実現を求めての真理(仏法)の実践行為である。出家における修行には、仏門内の集団的場における、覚悟を会得する往行的修行と、門外における社会的場における会得した覚悟を実践し深める還行的修行とがある。西行の諸国遍歴遊行は、この還行的修行、それは、一心という無量の命の住処に滞在し彷徨することによる、己というたった一人の命の真の実現行為といえる。門内の集団的場における往行的修行は、いわば、人間一般の普遍的な真の命の会得の修業であるとすれば、門外の社会的場における還行的修行は、他の誰でもない、己という今・此を生きる唯一の命、いうなれば、無量の命から授かった命運的命における、自己凝視と真の自己実現の実践、求道の営為といえる。自己凝視は、覚醒の自覚時に伴った悲哀の心情に由来する底深き真の命の資質といえる。また、真の自己実現の実践は、一心裡における他己との言語を介在しての交感によって行われる。西行においては歌を詠むことが、すなわち和歌という文芸作品を仲介にして、命運的命の真を成就する手立てに他ならなかった。西行にとって歌を為すことは、一心の理に随伴しつつ、真に生死するもっとも単純な、真の自己を成就する術であった。歌を作ることは、一心という無量の住処に滞在する、いわば、己の命を預け託す身ほとりの、小さな住処の建立ともいえる。つまり、歌を作る営みは、玉響の命の安らぎの場所、明日へ向かう英気を養う拠所の創作であり、其処に住まうことによって真の命を実現する営為であった。

 一心という無量の命の境、及び歌という有量の命の境を住処とした求道的自覚者西行の心に去来する様々な想いは、先にみた歌に現れている。「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさよの中山」にみられる命運を悲哀する想い、「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕ぐれ」にみられる自然の寂寥を感取する想い、「鈴鹿山うき世をよそにふり捨てていかになりゆくわが身なるらむ」にみられる世を捨て出家の境遇に命を晒す不安の想い、「願はくば花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」にみられる遁世における祈願の想い、斯様な想いを詠んだ歌の詞からみる限り、無自覚的芸道者の情緒的・詠歎的な歌の詠み振りと異なるところがないようにみえる。

 自覚的芸道者である西行の歌は、如何なる境涯において詠われているのか。また、無自覚的芸道者等の歌は、如何なる境涯において詠われているのか。自覚的芸道者である西行の立ち会っている世界は、先にみたごとく、一心裡における一個の中心という自覚に基づく只中の境界といえる。其処は不条理の世界を捨離し、条理の世界に命を投じた処に開かれる境界、言い換えれば、真理即道理の法理の働く脱自の間ともいえる。西行の生涯は、一心の法理に帰依したところの命の営みといえる。西行が捨てた世は、半可通の仏教理解者達のいう無常の世界といってよい。西行の出家は、現世と隠世、此岸と彼岸、穢土と浄土といった二元性の虚偽の世界を離れ、無常即恒常の法理の世界に帰依し、法理と一つになった真の境涯、すなわち一心裡の只中に己の命を晒すところにあったといってもよい。

 無量の命の只中に漂う命運の命、其処に去来する様々な想い、時に悲哀の想い、時に寂寥の想い、時に漠たる憂慮の想い、時に祈願の想い、こうした様々な想いの底には、法理に帰依したところからくる安堵と感謝の情意、いわば、真の命の本質ともいえる愉悦の心情が働いている。愉悦は、すべてを肯定する心性、善の心ともいえる。西行の歌の余韻余白に余情として感取される悲哀や憂慮、その底には、様々な想いのすべてを善とする愉悦の心があるといってよい。斯様な歌の奥底にある心の声を聴きとることが出来るは、心眼の目をもって歌に接するときに限る。心眼とは物事の本質の裡に開けた意識作用の眼差しをいう。物事のみを見る眼差しを肉眼と呼ぶならば、心眼は物事と物事の本質とを一体的に合わせ見る眼差し、すなわち自覚者の直観の眼差しに他ならない。自覚者的芸道者西行の歌は、自覚者の眼差しを以って賞翫するとき、はじめて本当に聞き取ることができるといってもよい。

 一方、無自覚的芸道者の歌は、如何なる境涯において詠まれているのか。無自覚者の境涯は、己は一心裡における一個の中心という、覚醒の自覚経験をもたぬ、無明の心に開かれる境界である。無自覚的芸道者の歌は、自己という有限的な意識活動に執着する境涯において詠まれる歌といえる。それは、認識対象(客観)と認識主体(主観)とが乖離したところの認識、すなわち主観の分別に基づく知識と、それに付随する私意的心情といってもよい。定家や長明といった芸道者に共通する無常観、或は厭世観といった現世拒否の思想は、斯様な無自覚の意識に基づくものであり、遁世の生活へと繋がる土壌といえる。言い直せば、無自覚芸道者達の立ち会っている世界は、己の命の根拠である一心という無量の命を喪失した、何も彼もが余所余所しい疎外の境界といえる。其処は、現世にたいする隠世、此岸にたいする彼岸、或は穢土にたいする浄土、といった二元性の境界を前提にした相対的世界、諸行無常という、理不尽に由来する不条理な世界に他ならない。斯様な無自覚の意識に映る物事はみな幻影であり、幻影を目の当たりにする無自覚的芸道者に去来する想いは、虚無の境界を怨嗟し呻吟する想いであり、また、そこからの逃避としての虚妄の幻想といってもよい。

 無自覚者の幻想は、睡眠時における夢想に似ている。無自覚者の幻想は、覚醒時の夢想といえなくもない。睡眠時における夢想と、覚醒時における幻想とはどこが異なるのか。睡眠時の夢想は、覚醒時の表層意識である分別識から解放された意識活動、その法理は、非合理的、非因果的、非時空的、すなわち恣意的で偶然的な意識活動といえる。夢想に湧出する幻影は、過去に経験した光景や未経験の境域の映像であり、それらを目の当たりにする意識活動が夢想といえよう。すなわち夢想は、非秩序的、迷宮的、出鱈目で不可思議な経験、眠りの瞑目によって分別識を遮断した、個別的な命の裡に現れる意識活動である。その経験の在り様は、自覚者であろうと無自覚者であろうと変わりない、直観における意識活動といえる。一方、無自覚者の覚醒時の幻想は、覚醒時の表層意識である分別識を、瞑目することによって遠ざけ、ひたすら孤独の自己の裡に去来する回想的幻影の境域を彷徨する主観における意識活動といえる。而して、その表現である歌は、幻影と幻想とからなる孤独者の自己対話(モノローグ)、いわば、自照の詩ともいえる。斯様な見解に従うならば、無量の命の只中に彷徨する命の想いを詠む西行の歌は、無明の自己を放下し、一心に帰依したところに邂逅する同胞との交感、すなわち実相としての汝と直観としての私との直接的相互対話、いわば、相照の詩ともいえる。

 無自覚的芸道者の出家、或は、隠遁は、斯様な虚無的世界からの逃避、若しくは、遁世といってもよい。西行の出家は、不条理の虚無の世界を捨離し、条理の真の世界に帰依する命の営みであったのに対し、無自覚的芸道者の出家は、不条理の虚無の世界から距離をとるための、一種の方便である。無自覚者の修業は、神仏のめぐみ――浄土への帰還――を求めて、穢土に功徳を積む在家者の営みと、本質的に同じといえよう。結局のところ、無自覚的芸道者の出家、或は、隠遁は虚無の世界の裡における回避に他ならない。不条理の世界とどんなに距離をとろうと、所詮、相対的な事柄であって、不条理の無明の世界の裡に留まっている事実には変りがない。何処まで行っても不条理の世界と縁の切れぬ、無自覚の孤立した命のままである。

 不条理の世界の裡にとどまる無自覚的芸道者の歌は、孤立する心中に去来する幻影と幻想との交感、本質的に、自照の対話の表出、すなわち虚構であり、その創作行為は、いわば、虚妄の遊戯ともいえよう。然して、虚妄の遊戯を徹底するとき、其処には、定家の「霜まよふ小田の仮庵の小筵に月とも分かずいねがての空」のごとき、一種の虚構の美的世界が開かれるといえよう。

 無自覚的芸道者の半可通の無常観に基づく悲哀、寂寥、憂慮、願望等の想いは、不条理の世界に命を封じたところの意識活動、すなわち虚妄に流離する疎外の命の情趣といってもよい。その底には、無量の命の只中に彷徨漂泊する命が抱く愉悦の情趣は見当たらない。あるのは、救われ難き命に弥漫する、諦めにも似た虚しさといえよう。

 求道的自覚者とは、真理の覚醒と命運の覚悟、という二つの自覚を契機にし、ひたすら当為を追求する個別的命をいう。言い直せば、求道的自覚者は、一心、すなわち無量の命の只中に解き放たれた有量の命といえる。心という観点からいえば、己という個別的心性の心的境界が取り払われて、無量の命、すなわち一心の裡に開けた一個の中心が求道的自覚者。一心裡に開けた一個の中心としての個別的存在者は、自己という物的な制約から抜け出でて自由自在となった心、いわば、脱自存在ともいえる。脱自存在とは、姿・形のない心の存在形式といえる。一心は心、一心裡の一個の中心も心、すなわち脱自存在は、一心裡における心の出会いを求めて憧れ出でた融通無碍の心をいう。それは、己の身体を住処とし、一心裡をひととき彷徨する一心の分心ともいえよう。脱自存在の身体が最も小さい辺の住処であるとすれば、一心は最も大きな辺の住処である。脱自存在は、最も小さな辺の住処である身体に暫し滞在し、最も大きな辺の住処である一心裡に暫時漂泊する命、ともいえよう。

 西行の遊行的漂泊の生涯は、求道的自覚者の心的資性に付随する脱自的滞在性に由来するといえる。一心裡に解き放たれて、そこに働く理法に従い漂泊する脱自存在者を、境遇の側面からみるならば、一心の法理、すなわち心法の弥漫する境界に投げ入れられ、その法に付き従う命、いうなれば、被投的随伴者ともいえる。芭蕉の心、「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮べ、馬の口とらえて老を迎ふる者は、日々旅にして旅を住みかとす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれかの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず。」(「おくのほそ道」)は、とりもなおさず西行の心であり、時間的経緯からいえば、西行を発端とする心といってもよい。そして、それは「貫道するものは一つなり」(「笈の小文」)の「一つ」に他ならない。この場合、「月日は百代の過客」にいう月日は時、われわれの言葉でいえば、一心の永劫回帰、乾坤の理、すなわち心法といってもよい。また、日々旅にして旅を住みかとする漂泊者は、一心裡を彷徨する一個の中心としての脱自的滞在者であり、被投的随伴者といってよい。西行最晩年の一首、「にほてるや凪ぎたる朝に見わたせば 漕ぎ行く跡の浪だにもなし」は、永年一心裡を彷徨して来た脱自的滞在者の遊行における想いであるとともに、被投的随伴者の生涯への万感の述懐に他ならない。

 真の個人、すなわち己の命運を自覚し、その道をひたすら歩む、唯一なる自己の形成は、西行の行跡にみるごとく、まさに自覚するところからはじまる。西行の自覚は、己の存在根拠の情的直覚、すなわち覚醒の自覚を発端とし、その後出家し、存在根拠の理の知的直覚、すなわち覚悟の自覚に至る。一言でいえば、広義の宗教的自覚といえる。而して、覚醒の自覚は、今・此に命を授かった唯一の天命としての命運の自覚へと繋がり、また、覚悟の自覚は、まさになすべきこと、まさにあるべきこと、として当為の自覚へと繋がるのである。

 僧侶西行の自覚、すなわち宗教的自覚は、当時の仏教、就中空海を開祖とする密教の一派である日本真言宗の教理修得に依る所が多い。真言宗の教理は、朝家や公家の信仰の拠所であつた。西行の後半生、武家の時代に台頭し、宗祇・雪舟・利休、そして芭蕉等の芸道者の思想の根拠であった禅宗の教理の影響は少ないと思える。むしろ、浄土宗、或は真宗の、「働きかけてくる無礙の慈悲の光の中にこの身をなげ入れる」(鈴木大拙)というような、一般庶民が信仰の拠所にした情的直覚に通じる自覚といってもよい。

 僧侶としての西行の自覚は、覚悟の自覚、普遍的な理、すなわち仏法の会得、いわば、知的直覚による自覚といえる。仏法の自覚は、人間一般、誰しもが帰属し遵守すべき道徳を示唆する自覚、すなわち当為の自覚へ通じる。結局、出家による覚悟としての宗教的自覚は、宗門という組織団体における超個人的理の知的直覚といえよう。しかし、ここには芸道に命を投ずる命運の自覚はない。命運の自覚、すなわち今・此に命を授かった、唯一の己の天命の濫觴は、己の存在根拠と、その存在根拠に被投された、限りある命としての己の存在に気付く覚醒の自覚にある。覚醒の自覚は、いわば、あわれともいえる悲哀の感情を伴った自己凝視における情的直覚といえる。覚醒の自覚から命運の自覚へ繋がるのは、根拠における自己存在の自問自答――根拠における対話は、本質的に自問自答であらねばならない――するところにある。自問自答の対話は、根拠としての一心と、根拠裡における一個の中心としての自己との無言の呼応からはじまり、同じ根拠裡に同居する他己との言語(広義の言葉)を介しての呼応に及ぶ。言を介しての他己との呼応は、情意による交感といえる。この情意的交感の中から得られる自覚が命運の自覚といってよい。すなわち自己という存在は、言語を介して他己との情意的交感を意向する資性を賦与された運命の命、と直覚することに他ならない。


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