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自覚者達の芸道 09

島 青櫻

 結局、侘びは、空間性における情の顕れ、一方、寂びは、時間性における情の顕れ、といってもよい。芭蕉の一笠一杖の身ひとつの佇まいが、空間性即是時間性∞時間性即是空間性の境における究極の侘びとするならば、銀椀裏の雪、と世阿弥が喩えた銀椀裏の沈黙は、空間性即是時間性∞時間性即是空間性の境における究極の寂び、といえよう。侘びと寂びとは、空間性即是時間性∞時間性即是空間性の心法の境における二様の美の顕れであり、その根柢においては一如の美の異なる顕れに他ならない。利休の茶の湯は、極貧の数寄の佇まいに顕れる有相の美である侘びと、一期一会の邂逅における命の交感に顕れる無相の美である寂びとが一つである美的境域の創作であった、と観取することができる。

 利休の侘び茶は、一期一会の邂逅と命の交感を可能にする手立て、すなわち茶の湯の営為は、命の交感を成立させる一種の言語、本質的に、詩歌の言語と同じである。定住的漂泊者としての利休の茶の湯における、主と客との一期一会の命の交感は、茶室という侘び数寄の時空の間において、茶の湯という、いうなれば、示言の作品を通して実践される。この時、主は茶会を興行する茶人であり、客は茶会に招かれた茶人、といえる。主の仕立てた一碗の茶の湯は、客への挨拶であり、呼掛け、といってもよい。また、主の差し出した一碗の茶の湯を呑む客は、主の呼掛けとしての作品を鑑賞する応答者、といってもよい。それは、茶の湯という作品を通しての、自覚的漂泊者の事事無碍の間における心の共鳴、すなわち、心法に基づく真の自己を成就する当為の営み、言い直せば、茶の湯を手立てとする一種の修行、といえよう。茶の湯の物的情趣、すなわち味わいは侘び、また、茶の湯の心的情趣、すなわち風味は寂び、ともいえよう。言い直せば、利休の茶禅一味の茶の湯は、侘びの味わいと寂びの風味とが一つになった、三昧境における美的当為、といってもよい。すなわち、心法における茶の湯の作法の営みは真的当為であり、また、主と客との意向的交感の営みは善的当為、とするならば、侘び数寄の時空の間における茶の湯の情趣的鑑賞の営みは美的当為、といってもよい。

7―――心法に基づく真の営み

 『般若波羅密多心経』(唐三蔵法師玄奘訳)の「色即是空。空即是色。」――サンスクリット原文 rūpaṃ sā śūnyatā yā śūnyatā tad rūpaṃ――の件は、大乗仏教の法、すなわち仏法の法理を最も端的に総合した命題、といえる。仏教にいう(daharma・達磨)は、一般的に「正しい理法、存在の法則性」、或は、「正義、善、正しい行為」等を指す。また、仏教の謂う心法は、「心に属する存在、心のはたらきの総称」をいい、心法に対極する色法は、「物質的存在」をいう。言い換えれば、色法に対極する心法は、空法ともいえる。また、色法は物の法ということからすれば、「色即是空。空即是色。」の仏法の法理命題は、物法と心法との法理を示す命題、すなわち「物即是心。心即是物。」の命題、ともいえる。また、法身のカテゴリーでいえば、物は方便法身、心は法性法身、物と心とは、基の法身の対極的な顕れ、ともいえる。この場合、基の法身は、法理そのもの、造化ともいえる無量の生命的はたらき、といってもよい。結局のところ、仏法は、空法のことであり、空法はとりもなおさず心法のこと、といえる。すなわち、端的に言い直せば、仏法の意義は、心法の意義と同一、といって差し支えない。然して、心法の基のはたらきは、際限なく生成を履行する生命的はたらきであることからすれば、心法は命の原理、すなわち命法、ともいえよう。すなわち、仏法は心法であり、更に、心法は命法、といっても間違いない。

 「色即是空。空即是色。」は、仏法の法理の命題、また、「物即是心。心即是物。」は、心法の法理の命題、仏法の空法を心法と読み替えた法理であり、本質的には同一の法の原理の命題、といってもよい。命題の表記形式は、相矛盾する判断内容の二つの命題が、一拍の空白(句点、サンスクリット原文はyā)を挟み、二つの命題文が線状にならべた詞章からなる。これをどう読み解くか。心法の法理命題でみるならば、「物即是心」は、物はそのまま心であることをいう命題文、また、「心即是物」は、心はそのまま物であることをいう命題文、すなわち主語は述語である形式の命題文、いわば、始めと終わりのある、一方向に展開する有限性の直線的な構文形式、ともいえる。しかし、「物即是心。心即是物。」、相反する判断内容の命題文を、一拍の空白(間)を挟むワンセットの命題文と解するとき、事態は一変する。すなわち、「物即是心 心即是物。」は、物はそのまま心である、同時に、心はそのまま物であることをいう命題文となる。言い換えれば、物が心に帰結するやいなや、反転して、心が物に帰結する、矛盾的自己同一の命題文、といってもよい。それは、形状的観点で喩えれば、メビウスの帯のごとき、無限性の二重螺旋をなす環状的な命題構文、また、運動的観点から喩えれば、ウロボロスのごとき、無限性の往還運動を繰り返す命題構文、といってもよい。端的にいえば、この無限性の環状的往還的構文自体が、心法の法理、すなわち命の原理の実相、言い直せば、密教にいう真理を表す秘密の言葉、すなわち真言の命題、ともいえる。無限の往還的環状構造からなる作用が命の原理、といってもよい。それは、対極する命の相互が、呼応的交感を繰り返しつつ、永遠に止むことなき自己生成を遂げる仕組、ともいえよう。斯くして、そこにおける呼応的交感は、常に途上における交感であり、その行迹は二重螺旋をなす。その交感は、身体的には息の出入りであり、心体的には気の出入り、と観取することができる。

 門弟の服部土芳が師である芭蕉の言葉を聞き書きした著書、いわゆる『三冊子』の「わすれみづ(黒本)」の冒頭の件、「発句の事は行て帰る心の味也。たとへば、山里は万歳おそし梅の花、といふ類なり。山里は万歳おそしといひはなして、むめは咲くるといふ心のごとくに、行て帰るの心、発句也。山里は万歳の遅といふ計のひとへは平句の位なり。先師も発句は取合ものと知るべしと云るよし、ある俳書にも侍る也。」は、発句の仕組を実に平明且つ適確に述べた文言、といってよい。就中、「発句の事は行て帰る心の味也。」は、まさに往還的環状構造における命の交感の在り様を示唆している、といえる。言い直せば、「発句の事は行て帰る心の味也。」は、発句の法理を端的に捉えた命題、といってもよい。直言すれば、芭蕉の謂う誠の俳諧における発句の法理は、心法の法理、すなわち命の原理であることを芭蕉は見抜いていた、といっても差し支えない。序にいえば、発句には、一句一章のいわゆる一物仕立の句と、今聞いた二句一章のいわゆる取合の句がある。前者は理事無碍における交感の句、後者は事事無碍における交感の句、とみることもできる。

 宗祇の連歌、芭蕉の連句、その詩句の展開形式は、対向する限りある命の相互が呼応的交感を繰り返しつつ、永久に止むことなき自己形成を遂げる形式、すなわち命の原理に基づく仕組からなる構文、といってもよい。例えば、発句の仕組は、呼掛ける者としての汝と、呼掛けに応える者としての私との往還の交感、といえる。一般的にいえば、連歌や連句の仕組は、前句としての汝と、前句に対する付句としての私との往還の交感、といえる。発句は、最初の前句としての汝、といえる。連歌・連句の展開は、発句を始めとする汝と私との往還の交感の繰り延べ、といってもよい。すなわち、命の原理である二重螺旋環状の仕組からなる連歌・連句の展開は、常に途上にある対向する二つの命の交感の行迹に他ならない。

 上に見てきたごとく、命の原理ともいえる仏法、すなわち心法の法理は、『般若波羅密多心経』に最も簡素に表現された命題、「色即是空空即是色。」乃至「色即是空。空即是色。」――本稿では、命題の無限性の往還的環状構造を示すべく、∞の記号を補足した色即是空∞空即是色で表記――である。心法の法理は、様々な対極的要素(例えば、物性と心性、空間と時間、流行と不易、無常と恒常等)に置き換えて読み解くことができる。いま、法性そのものを法身とする法相学の法身の範疇でみるならば、色は方便法身、有相の空間性における身体的生命活動、すなわち真実の作用、また、空は法性法身、無相の時間性における心体的生命活動、すなわち真理の作用、ともいえる。そして、心法の法理は、斯様な対極的要素が相互に絡み合いつつ相即するダイナミックな仕組、ともみることもできる。この場合、有相の空間性における身体的生命活動と、無相の時間性における心体的生命活動とは、法性そのもの、すなわち基である唯一の心的生命活動の二体の顕現、といってもよい。言い直せば、有相の空間性における身体的生命活動は真実の活動、無相の時間性における心体的生命活動は真理の活動、また、基の無量の心的生命活動は真(まこと)そのものの活動と読み替えるとき、心法は、真実と真理という対極的な法身が絡み合いつつ相即する真の生成の理法といえる。つまり、真実と真理とは真そのものが分岐した作用、とみてもよい。然して、真実の作用は、真実における三位一体の知・情・意の心的生命活動、いわば、有量の命のはたらき、といえる。また、真理の作用は、真理における三位一体の知・情・意の心的生命活動、いわば、無量の命のはたらき、といえる。

 更にまた、心法の法理は、生成的生命の経験の法理、と読み解くこともできる。宗祇は、連歌の道は心法の実践と考えた。宗祇の連歌の興行は、自覚者の他者との邂逅と交感における直接経験の詩作行為であり、その営みは、とりもなおさず心法の修行的実践と宗祇は見做した、といってもよい。換言すれば、連歌の定型法式は、心法の理法に基づいていると看破していた、といってもよい。真実の生命の経験とは、生成的生命が、偶邂逅した相手との言語を介しての直接的交感による自己生命の心身の形成活動、といってもよい。すなわち、心法は、真実である有量の命と真理である無量の命とが、或は、真実である有量の命同士が、相互直観の交感、すなわち直接経験を通して、更なる生命の形成を遂げる活動の法理、といってもよい。端的に言い直せば、心法は、真(まこと)の間における生成的命の経験の法、とみることができる。

 心法における有量の命の経験の実際は、相互直観の際にはたらく知的心性、相互交感の際にはたらく情的心性、更なる生命形成の際にはたらく意向的心性、この三つの心性が三位一体となった意識活動、とみることができる。斯様な心性のはたらきは、時空一如の間に、価値を伴った出来事として性起する。一つは、経験者の身体的事柄としての価値の性起、いま一つは、経験者が創出した作品(言語)の物体的事柄としての価値が性起する。すなわち、直観における知的心性は真的価値として、交感における情的心性のはたらきは美的価値として、創作における意向的心性は善的価値として性起する。心性の性起としての出来事は、斯様な三つの価値が一如となった様相、すなわち、先にわれわれが詫びと呼んだ佇まいの風姿、といってもよい。

 生命的観点からいえば、自覚的芸道者は、真理としての無量の生命の間に、暫し滞在する、真実としての有量の生命、ともいえる。この場合、無量の生命とは、姿・形を持たない無相の命を指し、また、有量の生命とは、姿・形を持つ有相の命を指す。心法は、この真理としての無量の生命と、真実としての有量の生命とが、絡み合い相即する生命の法理とも読み替えることができる。仏法、すなわち色即是空∞空即是色との対照でいえば、真実としての有量の生命は色に該当し、また、真理としての無量の生命は空に該当する。したがって、生命的観点から心法を表記すれば、有量的命即是無量的命∞無量的命即是有量的命、と表記することができる。われわれが先にみた間――風景の間(方便の間)と背景の間(法性の間)――の側面からいえば、有量的命即是無量的命∞無量的命即是有量的命は、背景の間(法性の間)、すなわち理と事とが一如である理事無碍の間における法式、といってもよい。また、有量的命相互が邂逅し命の交感を営むのは風景の間、すなわち風景の間は背景の間を根拠とする有量的命同士の間、事と事とが一如である事事無碍の間、ということができる。したがって、事事無碍の間における心法の表記は、有量的命即是有量的命∞有量的命即是有量的命、と表すことができる。而して、風景の間と背景の間とが重畳融通する間が光景の間(法身の間)、すなわち、光景の間は、風景の間と背景の間の基である唯一の間、といえる。斯くして、心法に帰依・帰命した自覚的芸道者は、風景の間と背景の間とが絡み合いつつ相即する光景の間に、真から授かった命運、すなわち己の使命を果たすべく、邂逅と交感求め、暫し光景の間に滞在する有量の命、ということもできる。

 自覚的芸道者は、無自覚的自己存在を放下し、心法に帰依し、暫しの間、唯一の命である真(まこと)裡に随伴する有量の命、いうなれば、無自覚的実存の無明の境を脱却し、本来の自由の境域に回帰した脱自的実存ともいえる生命、といってもよい。つまり、自覚的芸道者は、唯一の命の間に、彷徨漂泊する有量の命、といえる。有量の命の彷徨漂泊の在り様は、時に、出逢いと交感を求めての彷徨であり、時に、己が命運を遂げんがための漂泊、といってもよい。

 心法に基づく自覚的芸道者の命の滞在とその活動の実際は、住まいを介しての営み、ともいえる。住まいは、住間居、命の居所、命が滞在する間、といってもよい。一般的に、命の最も身近な住まいは、自身の身体の間、といえる。次なる住まいは、身体の間を包摂する家屋の間、といえる。更なる住まいは、森羅万象、自然の諸々の事物を包摂する事事無碍の間、すなわち風景の間、といえる。そして、なお一層の住まいは、風景の間を包摂する理事無碍の間、すなわち無色透明な背景の間であり、それらが重畳した光景の間、といえる。然して、自覚的芸道者の有量の命は、斯様な重層する入れ子構造の住まい裡に滞在し、邂逅と交感を求めて己の命を独り費やす命運を担った有量の命に他ならない。

 詮ずる所、心法に生死する有量の命の身体の間、家屋の間、そして風景の間は、事物からなる住まい、といえる。こうした事物からなる住まいの身際の醸し出す様子が佇まい、といってよい。つまり、佇まいは、有量の命の心性の空間的顕れ、若しくは形象的現れ、ともいえる。一方、佇まいの回り、或は余白、すなわち有量の命相互が形成する風景の透き間の醸し出す雰囲気が、有量の命の響き合い(反響)としての余情、ともいえる。つまり、余情は、有量の命の心性の時間的顕れ、若しくは非形象的現れ、といえる。そして、更に、風景の奥底にある、風景の間そのものを包み込む無量の透き間、すなわち背景の透き間のそこはかと無く醸し出す気配が、無量の命そのものの響きとしての余韻、ともいえる。つまり、余韻は、唯一の命である真(まこと)の心性の絶対的顕れ、若しくは無的現れ、といえる。

 自覚的芸道者、すなわち脱自的実存の佇まいの情況は、様々である。一笠一杖の身なり、いわば、身ひとつの住まいをたよりにして、心法の間に滞在する芭蕉の佇まいは、究極の侘び住まいにおける佇まい、といえる。或は、一畳台目の侘び数寄の茶室を拠所にして、心法の間に滞在する利休の佇まいは、侘び住まいにおける佇まい、といえよう。いずれの佇まいも心法の只中における命の身際が醸し出す実相の美に他ならない。

 西行、宗祇、雪舟、そして芭蕉の各地を経巡る命の滞在は、邂逅と交感を求めての彷徨漂泊、といえる。一方、茶室を拠所とした利休、或は、舞台と芝居(客席)を拠所とした世阿弥の滞在は、いうなれば、一所定住の滞在は、命の邂逅もさることながら、専ら命の交感を求めての逗留的漂泊、ともいえよう。彷徨的漂泊も逗留的漂泊も、その意向するところは、命と命の交感にあり、本質においては同一の行為、といってもよい。したがって、その佇まいも同様、といえよう。心法に生死する有量の命の佇まいは、情的心性が具有する有相の美的顕れ、すなわち侘びの佇まいに他ならない。質素かつ簡素の侘びの美は、有量即是無量∞無量即是有量の心法に基づく。いわば、less is moreともいえる貧富同梱の法性の性起、といってもよい。


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