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自覚者達の芸道 16

島 青櫻

 いわゆる自然(じねん)の運行は、命の法に基づく運動、ともいえる。それは年々歳々、永劫に反復する命の生成活動、といってもよい。命の生成活動は、生死を繰り返す往還的反復運動、いわば、不連続の連続による命の形成行為、といえよう。往還的反復を繰り返すことによって、有量の命は継続を遂げるとともに、命の進化と新化と深化と真化等の変遷を成就する、といってもよい。命の法における命の営みは、芭蕉の口吻をもっていえば、不易流行の営為、すなわち、無常即是恒常∞恒常即是無常の自己矛盾の法理における生成活動、ともいえる。

 斯様な命運的な時節を生きる有量の命のことを時分の花、と世阿弥は呼んだのにちがいない。命の法における時分の花は、その時節に去来する却来花であり、真の花、といえる。が、闌けたる位には、いまだ至っていない途上の花、といってもよい。然して、一個の命運的命の最晩に去来する花は、最も進化と新化と深化と真化を遂げた究極の花、すなわち、最も闌けたる位における却来花に他ならない。それは、「さしてなき能の、さびさびとしたるうちに何とやらん感心の有る」(『花鏡』)能、世阿弥のいう「心より出で来る能」、「無心の能」、「無文の能」の究極の侘びの美であるとともに、究極の寂びの美と一如になったところの花、といえる。最も闌けたる位に至った却来の花は、命の果ての花、果てに至った花は、一度(ひとたび)命の基に回帰し、そこから再び、時節に去来する時分の花となって却来するのが、命の法における掟、といってもよい。

 世阿弥が希求し、そして達成した能の道は、西行の歌の道、宗祇の連歌の道、利休の茶の道、芭蕉の俳諧の道と一貫するところがあった、と桑田忠親はいう。然らば、一貫するところととは何処か。此処までの経緯を振り返れば、一貫するところは、いずれの芸道者も命の法の境に帰依帰命するとともに、己の命運を自覚し私意を離れて誠意をもって為す芸の道、ということができる。その営みは、真の命の自由なる遊戯(ゆげ)、言い直せば、無量の命の只中における詩境の創造に他ならない。

 世阿弥は、能の理論書ともいえる伝書を数多く著作した思想家であるとともに、能の脚本ともいえる謡曲の作詞作曲家でもあった。謡曲は、台詞があり、謡があり、筋書があり、オペラの楽章とよく似た戯曲、一種の文芸作品、ともいえる。したがって、謡曲は、読み物として鑑賞することも出来るが、本来の目的から考えれば、実際に上演されることによって、はじめて命を得る文芸作品、といってもよい。そのことは、言示文字(表音文字)で書かれたオペラの楽譜は、劇場で演奏されることによってはじめて命を持つ作品となるのと同じ、といえる。本来的には、どこまでも、演劇の台本に他ならない。

 能の曲目は、①神+脇能(「翁」・「高砂」)、②修羅[武将](「忠度」・「敦盛」等)、③女[かぶりもの](「井筒」・「羽衣」・「遊行柳」等)、④物狂[世話物](「道成寺」・「葵上」・「隅田川」等)、⑤鬼[切能](「融」・「望月」等)の五曲からなる。

 曲目の展開は、いわゆる序破急の法則からなる。能の上演、一曲の構成、全ての演技に通底する、いわば、一サイクルの道交の法理、ともいえる。序は道行の始点,破は経回る過程、急は終点、とみることもできる。序破急の範疇を漢詩の構成法である起承転結の範疇と比較するならば、序は起承に当り、破は転に当り、急は結に当たる、ということもできる。

 先に挙げた五つの曲目に序破急を当て嵌めるならば、①は序、②③④は破、⑤は急、といってもよい。更にいえば、②③④の破の曲目、修羅と女と物狂は、物事に執着する無明の人間を主題とする曲目であり、纏めて一つの題目でいうならば、物狂の曲目、ということもできる。

 世阿弥の謡曲は、和漢の詩歌、物語、説話、等の古典から得た題材を基本にしたものであるが、その基調は、神仏思想に基づく世阿弥独自の作品に仕立てられている。作品の多くは、総じて物狂、仏法の働きに繰られる命(霊性)の真実を主題にしている。言い直せば、世阿弥の謡曲の筋書は、仏道に纏わる話、輪廻(六道・三界・三世)の道、縁起の道、仏果に至る道に絡み付く出来事を中心とする曲目からなる、ともいえる。

 所で、能楽の能とは何か。漢字の一般的意義は、【能㈠①{動・助動}あたう(あたふ)。よくする(よくす)。よく。物事をなしうる力や体力があってできる。たえうる。りっぱにたえて。しっかりと。②{名}事をやりうる力。はたらき。③{形}やりての。仕事たっしゃな。④{動}ゆるす。やんわりとたえる。柔らかに接する。㈡①{動}たえる(たふ)。物事をなしうるだけの力がある。また、仕事をなしうる力があって任にたえる。②{名}ねばり強いかめ。(『漢字源』)】とある。然らば、芸事としての能の意義は何か。著者の知る限り、明確に答えた見識は見当たらない。「能楽とは神の来現の仕方をまねしたもの」という折口信夫の見解を慮り、著者の思慮を加味するならば、能とは、阿弥陀の機能(はたらき)の芸事、と命題してみたい。すなわち、芸事としての能の意義は、無量の命の意向的働き、と覚えたい。無量の命の働きは、可能性としての能力(Vermögen)、姿・形のない作用であり、その究極的本質は、善、と考える他ない。斯くして、能楽は、無量の命の善の芸事、と定立することにする。云うまでもなく、此処にいう芸事とは、無量の命に相即した有量の命の仕業(はたらき)のことに他ならない。

 謡曲「井筒」は、複式夢幻能と呼ばれる世阿弥の能楽構成の典型的な作品、ともいえる。『伊勢物語』を底本とする「井筒」は、三番目物(髪物・女物)に分類される、いわゆる物狂の物語、といってもよい。その構成と梗概は、次の通りである。

⑴ ワキの登場  諸国一見の僧(ワキ)が在原寺に立ち寄り、業平夫婦を偲んで弔う。
⑵ シテの登場 里の女(前シテ)が現われ、秋の夜の古寺に仏法帰依の心を述べる。
⑶ ワキ・シテの応対 僧は古塚に回向する女の素性を問う。女は業平の昔を懐かしむ風情を見せる。
⑷ シテの物語り 女は『伊勢物語』の歌をめぐる業平と紀有常の娘の純愛について語る。
⑸ シテの中入り 女は、自分が井筒の女とも言われた紀有常の娘のであると名乗って、井筒の蔭に消える。
⑹ アイの物語り 里の男(アイ)が僧の尋ねて業平と紀有常の娘のことを物語り、弔いを勧める。
⑺ ワキの待受け 僧は夢に見ることを期待して寝る。
⑻ 後シテの登場 業平の形見の衣を着た紀有常の娘(後シテ)が現われ、人待つ女とも言われた業平への一途の純愛を示す。
⑼ シテの舞事 業平思慕の移り舞。
⑽ シテの立働き・結末 われとわが身を井筒に映して業平を偲ぶ昂まりの中で、夜明けとともに僧の夢は覚める。

(新潮日本古典集成「謡曲集 上」)

 われわれは先に、狂態は、自覚無自覚を問わず、無分別の意識に出来する情態であることをみてきている。また、夢は、睡眠時に狂態がみる意識現象であり、幻は、覚醒時に狂態がみる意識現象であることもみてきている。言い直せば、夢における情態が夢想、幻における情態が幻想、ということもできる。

 斯様な観点から「井筒」の筋書きをみるならば、⑴~⑹は前場、幻の境界、⑺~⑽は後場、夢の境界、一曲が幻の境と夢の境からなる複式夢幻能、といえる。命の働きという観点から見れば、ワキの旅僧は、自覚的生霊、すなわち覚悟者の耳目をもつ人物、その耳目は、現在霊(生霊)ばかりではなく、過去霊(死霊)とも交通できる命、ともいえる。前場は、現(うつつ)の境界、ワキの旅僧と過去霊の幻影である前シテの里の女との出合いにおける呼応の交感、といえる。この場合、里の女は主、旅僧は客の立場にある。主は幻影の命、客は現実の命、主と客の交感の出来事は、現における幻、といってもよい。また、中入りを境とする後場は、夢の境界、旅僧の夢中の出来事、旅僧の夢中に入り込んできた後シテの紀有常の娘の意向的想い、といってもよい。すなわち、前場は、旅僧の目覚めにおける幻影と幻想の出来事、現の幻における生霊と死霊との命の交感である。また、後場は、旅僧の眠りにおける夢影と夢想の出来事、夢の幻における死霊と死霊との命の交感、ということもできる。

 夢幻能「井筒」は、物狂いの女の物語、仏法の働きに繰られる運命の命の働きを主題にした物語、といえる。『能の表現―その逆説の美学』の著者増田正造は、「能は〈夢幻能〉と今日呼ばれている手法を完成させることによって、人間の情念の永遠性をうたいあげることに成功し、トータルな人間の一生を、あるいは、運命そのものを収めうる視野を獲得した。………無常というフィルターを通すことによるこの実在の把握は、能の根本をなすものである。」といい、夢幻能は「時間と空間を超えた存在の活躍する能」、と見極める。増田の達観をわれわれの見識をもって解釈すれば、「時間と空間を超えた」の意は、夢幻能の物語(出来事)が展開する境域は、いわゆる形而上学的時空間、すなわち相対的な有限の場所ではなく、超形而上学的時空間、すなわち絶対的な無限の場所、絶対無ともいえる無量の命の間を指示している、ともいえる。時間と空間を超えた境域は、過去と現在と未来とが、同時に一緒にある無量の境、一如の境域、といえる。言い直せば、時間と空間を超えた境域における時間と空間とは、基は一つである間における二つの性質の異なる間、すなわち時間と空間を超えた境域は、統一的無量の間、ともいえる。結局、時間と空間を超えた無量の間は、命の法の働く間に他ならない。したがって、時間と空間を超えた存在とは無量の命のことであり、また、「存在の活躍」は、有量の命を通しての無量の命の働き、つまり、可能性としての能力、或は繰る働きに他ならない。而して、物狂とは、無量の命に繰られる有量の命、ということができる。

 世阿弥の謡曲の多くは、己を超えた霊的働きに繰られる無明の魂魄の彷徨の物語、ともいえる。繰られる霊魂が身に装う品々、衣裳や扇や面等は、繰られる霊魂をうつし・・・た心影(イメージ)、ともいえる。就中、能面は、霊魂の抱える煩悩を最も映した心影、ともいえる。この場合、ひとつの表情に凝固した能面は、霊魂の抱える諸々の煩悩をひとつの表情の裡に、いわば、秘する手立て、ともいえる。それは、「秘すれば花」、世阿弥の美的理念の実践、ともいえよう。主体者(シテ)の情意を秘することによって、逆に主体者の真の花、すなわち心境が、情念の佇まいとなって顕れる、といってもよい。それは、せぬ・・ひま・・の美学にも通ずる手立て、といえる。

 しかし、自覚者である世阿弥は、何故、妄執の命をテーマにした謡曲を創り、また、演じたのか。自覚者とは、あらゆる諸法の基の万法、言い直せば、われわれが命の法と名付けた仏法乃至心法を会得し、また、己の命運を覚悟した実存を指すとするならば、自覚とはまったく正反対の境位にある無明者の命に注目し、それを謡曲に仕立て、無明の命に成り切り、演じようとした世阿弥の意図は何処にあったのか。その解明の糸口は、舞台に立ち、謡曲のシテを謡舞している者は一体誰なのかを問い、観照するところにある。

 能の舞台に主役として立つ者は、一つに、謡曲におけるシテとワキとの相互関係においては、主(シテ)としての立場にある者、といえる。いま一つに、能の公演における演者と観客との相互関係においては、主(役者)としての立場にある者、といえる。能の舞台に立つ者は、斯様な二重の主の立場にある者、といえる。例えば、世阿弥の演技による「井筒」の公演という具体的な場合に限ってみれば、「井筒」における旅僧(ワキ)と、公演に立ち会う観客(特定の観衆)とは、主との出会いにおける相互交感者という点では、同じ客の立場にある者、といえよう。旅僧も観客も、出会いと交感を意向する無量の命の只中に滞在する有量の命、すなわち、仏道の途上にある命である点では同じ、といってもよい。

 「井筒」の物語においては、夢幻の中で出会った里の女(前シテ)と紀有常の娘(後シテ)が主であり、旅僧は客の立場にある。物語における主(シテ)と客(ワキ)とは、仏法における相即関係にあり、出会いにおける交感和合の営みは、事事無碍界の物語における出来事、ともいえる。この場合、主(シテ)の謡舞は客(ワキ)への挨拶、ともいえる。また、「井筒」の公演においては、偶然某在所で邂逅した能の主役の演者が主であり、観客は客の立場にある。この場合、公演における主(演者)と客(観衆)とが仏法における相即関係にある時、出会いにおける交感和合の営みは、事事無碍界の現実における出来事、といえる。この場合、主(演者)の謡舞は客(観衆)への挨拶、といえる。

 然らば、旅僧の主(シテ)と観衆の主(演者)とを兼ね備えた者、すなわち、世阿弥は何者なのか。言い直せば、物語の主と公演の主を併合する世阿弥は、如何なる境位における命なのか。物語の事事無碍界においては、里の女及び紀有常の娘の命(死霊)と世阿弥の命(生霊)とは、仏法における矛盾的自己同一の関係にある。すなわち、里の女及び紀有常の娘の命を汝、世阿弥の命(生霊)を私とすれば、仏法の境においては、汝は私ではない私であり、同時に、私は汝ではない汝である、という矛盾する自己同一関係にある。汝と私とは、基では一つである命(無量の命としての阿弥陀)の中に相即する差異の命、といってよい。仏法の法式で示せば、汝即是私∞私即是汝の相依相属関係にある命同士、といってもよい。

 能は、無量の命(阿弥陀)の働き、仏法の間に性起する出来事、ともいえる。無量の命に帰依帰命した有量の命は阿弥陀仏、すなわち成仏した自覚者、といえる。阿弥陀仏は、無明の命を救済する有量の命である時、阿弥陀如来となる。言い換えれば、里の女及び紀有常の娘の命に成りきって演じる世阿弥は、物狂という無明の命を救済する阿弥陀如来、ということもできる。何故にか。物狂の里の女及び紀有常の娘は、無自覚者、いたずらに命を繰られる無明の霊魂(死霊)に他ならない。無明の霊魂は、阿弥陀如来の智慧と慈悲によって救済されるのが仏法、といってもよい。すなわち、物狂いの霊魂(死霊)は、仏法に基づけられることによって成仏する、といってもよい。

 然らば、仏法に基づけられるとは、如何様な状態をいうのか。物狂は、己を超えた働きに繰られて成仏できぬ命、真の仏道から逸れた、いわば、偽りの仏の在り様、ともいえる。世阿弥の里の女及び紀有常の娘に成り切っての謡舞の演技は、物狂の命をひたすらに生きる無明者の真のうつし・・・、といってもよい。うつし・・・とは、先にみた如く、移し、映し、写し、遷し等、簡単にいえば、心情や物事を仏法の境界へ転換する作用を謂う。この場合、世阿弥の仏法に基づく謡舞は、物狂に生きる無自覚の命と風狂に生きる自覚の命との仏法における交感和合を成就する手立て(広義の言語)、といってもよい。然し乍ら、物狂にひたすら生きる無自覚者の命と、無自覚者の命を演技する自覚者世阿弥の命も、己を超えたものの働きに繰られ苛なまれる命である点では同じ命、といえる。斯くして、世阿弥の里の女及び紀有常の娘に成り切っての謡舞の演技は、物狂の命をひたすらに生きる無明の命の真実を演じることであり、それはとりもなおさず、里の女及び紀有常の娘を仏法に基づける行為、成仏させる営みに他ならない。すなわち、里の女及び紀有常の娘は、無明の命を真にうつされる・・・・・(移され写される)ことによって成仏する、ということもできる。何故にか。真の境界へ移された無明の命は物狂として仏法を徹底実践する時、言い直せば無明の命を蕩尽する時、時態の反転が起こり、無明の命を解脱し浄土の境界が開くことによる、といってもよい。一方、世阿弥自身は、仏法に基づく能の実践によって、阿弥陀仏として成仏し、また、同時に、無明の命の真実をうつす・・・(移し写す)ことによって、里の女及び紀有常の娘を成仏させる阿弥陀如来として成仏を遂げている、といってもよい。

 既にみてきた如く、絵における雪舟は、仏法に則した方法で絵を描いた。絵を描くことの目的は、成仏することであった。すなわち、描くことは真にうつす・・・こと、命運回帰の祈りを根とする憧憬(アクガル)における自己救済の営み、といってもよい。救済とは、真実の己になることに他ならない。雪舟の山水画は、山水、すなわち自然物との交感和合を成立させる仲介物、広義の言語、といってもよい。雪舟自身は、自然物を移し写すことによって、真の自己実現、すなわち成仏を遂げる、といってもよい。一方、本来無自覚、若しくは無心である自然物は、真にうつされる・・・・・(移され写される)ことによって、はじめて成仏を遂げる、すなわち真の自己を成就する、といってもよい。斯様なことが成立するのは、描く、すなわちうつす・・・営みが仏法に基づいている場合に限る。仏法は、真の人間形成の法理であるとともに、真の自己成就を果たす理法、すなわち救済の理法でもある。

 一方、能における世阿弥は、仏法に則した方法で謡曲を創作した。謡曲は実際に上演されることによってはじめて真の文芸作品となる、といってもよい。其は、言示的文字からなるオペラの楽譜は、実際に上演されることによってはじめて真の作品となるのと同じ事情にある、といえる。

 更にいえば、能における世阿弥は、仏法に則した方法で能を演じた。世阿弥にとって、能を演じることは、仏法の実践に他ならない。演じることの目的は、ひとつに、物語の主の命、物狂いの命を成仏させることにあり、いまひとつに、己自身を成仏させることにある。すなわち、能を演じることは、己の命運回帰の祈りを根とする憧憬(アクガル)における自己救済の営み、といってよい。自己救済は、真実の自己となること、すなわち成仏することに他ならない。

 詮ずるに、世阿弥の謡舞は、無量の命の間に滞在する諸々の霊(過去霊・現在霊・未生霊)的命の交感和合を成立させる仲介物、広義の言語、といってもよい。諸々の霊的命を演じることによって、すなわち諸々の霊的命と交感することによって、諸々の霊的命を救済するとともに、世阿弥自身、自己救済を遂げる、といってもよい。斯様なことが成就するのは、偏に、演じる営みが仏法に基づいている時に限る。一般的に言い直せば、色即是空∞空即是色の仏法は、心身脱落、すなわち真の自己現成の法理であるとともに、脱落心身、すなわち真の自己成就の法理、端的にいえば、救済の法理、ということができる。


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