自覚者達の芸道 04
島 青櫻
不条理の世界の裡にとどまる無自覚的芸道者の歌は、孤立する心中に去来する幻影と幻想との交感、本質的に、自照の対話の表出、すなわち虚構であり、その創作行為は、いわば、虚妄の遊戯、ともいえよう。然して、虚妄の遊戯を徹底するとき、其処には、定家の「霜まよふ小田の仮庵の小筵に月とも分かずいねがての空」のごとき、一種の虚構の美的世界が開かれる、といってもよい。
無自覚芸道者の半可通の無常観に基づく悲哀、寂寥、憂慮、願望等の想いは、不条理の世界に命を封じたところの意識活動、すなわち虚妄に流離する疎外の命の情趣、といえよう。その心の底には、無量の命の只中に彷徨漂泊する命が抱く愉悦の情趣は見当たらない。あるのは、救われ難き命に弥漫する、諦めにも似た虚しさ、といってもよい。
求道的自覚者とは、真理の覚醒と命運の覚悟、という二つの自覚を契機にし、ひたすら当為を追求する個別的命をいう。言い直せば、求道的自覚者は、一心、すなわち無量の命の只中に解き放たれた有量の命に他ならない。心という観点からいえば、己という個別的心性の心的境界が取り払われて、無量の命、すなわち一心の裡に開けた一個の中心が求道的自覚者、とみなければならない。一心裡に開けた一個の中心としての個別的存在者は、自己という物的な制約から抜け出でて自由自在となった心、いわば、脱自存在、ともいえる。言い直せば、脱自存在とは、姿・形のない心の存在形式、といってもよい。一心は心、一心裡の一個の中心も心、すなわち脱自存在者の心境は、一心裡における心の出会いを求めて憧れ出でた融通無碍の心境をいう。それは、己の身体を住処とし、一心裡をひととき彷徨する一心の分心ともいえよう。脱自存在の身体が最も小さい辺の住処であるとすれば、一心は最も大きな辺の住処、といってもよい。脱自存在者は、最も小さい辺の住処である身体に暫し滞在し、最も大きな辺の住処である一心裡に暫時漂泊する命、ともいえよう。
西行の遊行的漂泊の生涯は、求道的自覚者の心的資性に付随する脱自的滞在性に由来する、とみなければならない。一心裡に解き放たれて、そこに働く理法に従い漂泊する脱自存在者を、境遇の側面からみるならば、一心の法理、すなわち心法の弥漫する境界に投げ入れられ、その法に付き従う命、いうなれば、被投的随伴者ともいえる。芭蕉の心、「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮べ、馬の口とらえて老を迎ふる者は、日々旅にして旅を住みかとす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれかの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず。」(「おくのほそ道」)は、とりもなおさず西行の心であり、時間的経緯からいえば、西行を発端とする心、といってもよい。そして、それは「貫道するものは一つなり」(「笈の小文」)の「一つ」に他ならない。この場合、月日は百代の過客である月日は時、われわれの言葉でいえば、一心の永劫回帰、乾坤の理、すなわち心法、といえる。また、日々旅にして旅を住みかとする漂泊者は、一心裡を彷徨する一個の中心としての脱自的滞在者であり、被投的随伴者、といえる。先にもみた西行晩年の一首、「にほてるや凪ぎたる朝に見わたせば 漕ぎ行く跡の浪だにもなし」は、永年一心裡を彷徨して来た脱自的滞在者の、また、被投的随伴者の万感の述懐に他ならない。
真の個人、すなわち己の命運を自覚し、その道をひたすら歩む、唯一なる自己の形成は、西行の行跡にみるごとく、まさに自覚するところからはじまる。西行の自覚は、己の存在根拠の情的直覚、すなわち覚醒の自覚を発端とし、その後出家し、存在根拠の理の知的直覚、すなわち覚悟の自覚に至る。一言でいえば、広義の宗教的自覚、といえる。而して、覚醒の自覚は、今・此に命を授かった唯一の天命としての命運の自覚へと繋がり、また、覚悟の自覚は、まさになすべきこと、まさにあるべきこと、として当為の自覚へと繋がる、とみるべきであろう。
僧侶西行の自覚、すなわち宗教的自覚は、当時の仏教、就中空海を開祖とする密教の一派である日本真言宗の教理修得に依る所が多い。真言宗の教理は、朝家や公家の信仰の拠所であつた。西行の後半生、武家の時代に台頭し、宗祇・雪舟・利休、そして芭蕉等の芸道者の思想の根拠であった禅宗の教理の影響は少ないと思える。むしろ、浄土宗、或は真宗の、「働きかけてくる無礙の慈悲の光の中にこの身をなげ入れる」(鈴木大拙)というような、一般庶民が信仰の拠所にした情的直覚に通じる自覚、といってもよい。
僧侶としての西行の自覚は、覚悟の自覚、普遍的な理、すなわち仏法の会得、いわば、知的直覚による自覚、といえる。仏法の自覚は、人間一般、誰しもが帰属し遵守すべき道徳を示唆する自覚、すなわち当為の自覚へ通じる。結局、出家による覚悟としての宗教的自覚は、宗門という組織団体における超個人的理の知的直覚、といえる。しかし、ここには芸道に命を投ずる命運の自覚はない。命運の自覚、すなわち今・此に命を授かった、唯一の己の天命の濫觴(らんしょう)は、己の存在根拠と、その存在根拠に被投された、限りある命としての己の存在に気付く覚醒の自覚にある。覚醒の自覚は、いわば、あわれともいえる悲哀の感情を伴った自己凝視における情的直覚、といえよう。
覚醒の自覚から命運の自覚へ繋がるのは、根拠における自己存在の自問自答――根拠における対話は、本質的に自問自答――する契機がなければならない。自問自答の対話は、根拠としての一心と、根拠裡における一個の中心としての自己との無言の呼応からはじまり、同じ根拠裡に同居する他己との言語(広義の言葉)を介しての呼応に及ぶ。言語を介しての他己との呼応は、情意による交感に他ならない。この情意的交感の中から得られる自覚が命運の自覚、といってもよい。すなわち命運の自覚とは、自己という存在は言語を介して他己との情意的交感を意向する資性を賦与された命、と直覚することに他ならない。
今一度、省みるならば、芭蕉の述懐「ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむとにはあらず。やや病身、人に倦んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り来し拙き身の科を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。」(「幻住庵の記」)は、芸道を意向する資性を賦与された命運の自覚に他ならない。
俳諧を介しての他己との情的交感を求める資質は、芸道者の根本気質であり、基本姿勢を示すもの、とみなければならない。それは、常に風雲に身をせめたてて花鳥に情を労じる営み、いわば狂者の振舞、ともいえる。斯様な傾向は、終生、風狂と漂泊の境涯に生きる自覚的芸道者の行動に共通する心的傾向、とみなければならない。すなわち命運の自覚は、根拠における個別的自己の情意を拠点とする直覚、とみなければならない。それは、仏頂禅師との公案における覚悟――真如実相を捉える慧眼の開眼――、すなわち禅における公案、或は禅定における一般的自己、すなわち個別的自己を滅却した知性を拠点とする自問自答における覚悟の自覚や当為の自覚とは、意識的次元の異なる自覚、といわなければならない。覚悟や当為の自覚は、仏道者としての自覚であるとすれば、気付きにはじまる覚醒や命運の自覚は、芸道者としての自覚、と見なければならない。しかし、いずれの自覚も、命を宗とする自覚であり、広義的にいえば、宗教的自覚、と括っても差し支えないまことの自覚、とみるべきである。
4―――連歌における宗祇
【宗祇…室町末期の連歌師。号は自然斎・種玉庵。俗に姓を飯尾(いいお)とする。和歌は東常縁(とうのつねより)より古今伝授を受け、また連歌を心敬らに修め、称「花の本(もと)」を許された。当時連歌の中心指導者。編著「竹林抄」「新撰菟玖波集」「萱草(わすれぐさ)」「雨夜談抄」など。(1421~1502)『広辞苑』】が、連歌における宗祇の一般的プロフィールである。ここには、宗祇が禅宗の僧徒でもあったこと、諸国を遍歴し連歌を興行した旅客であったこと、心法による有心の連歌を詠んだこと等は、一切記載がない。
今日でも、宗祇が禅宗の僧侶であったことを裏付ける確たる伝記や古文書は極めて乏しい。「後年には禅師と呼ばれているから、禅宗に帰依していたらしく、事実後述するかれの紀行『筑紫道記(つくしみちのき)』の中に、長門(ながと)の国の船木(ふなぎ)というところで、昔、相国寺(しょうこくじ)で〈折々たのみ侍る人〉が住んでいる寺を訪ねるところがあるから、京都の臨済宗の巨刹(きょせつ)に修行したことがあり、禅を学んだと考えられる。」(井本農一『宗祇――浪漫と憂愁』)、と宗祇の宗教的足跡は今日に至ってもおぼつかない。
一般的史実をたどれば、宗祇が生涯を過ごした室町時代は武家社会、代々の権力者の精神的拠り所とした仏教は、朝家や公家が擁護した真言宗、武家の擁護する禅宗が興隆した時代、といえる。文化の面では、禅宗の思想の影響を受けた、いわゆる五山叢林の文学をはじめ、諸々の芸道が開花した時代、といえる。文化としての芸術は、精神的支柱である宗教と密接な関係がある、といってもよい。宗祇の連歌も、当然、時の宗教、禅宗の教学に負うところの芸道であることは、宗祇の遺した言葉や行跡をつまびらかに見るまでもなく、芸の底にはたらく思想を内在的直観をもって見るならば、明白な事実、といわなければならない。
宗祇が「吾妻問答」に「歌の道は、只慈悲を心にかけて、飛花落葉をみても生死の理を観ずれば、心中の鬼神もやはらぎて本覚真如のことわりに帰るべく候。背興㆓実相㆒不㆓相違世と侍れば、何の道に心を寄せむ人もこの心に不レ可レ違候也」といふものは、宗教的観念が、すべての道を達する根本の真実であり、……「連歌は、前念後念をつがず、また盛衰憂喜のさかひをならべて移りもて行くさまに異ならず。昨日と思えへば今日に過ぎ、春と思へば秋になり、花とおもへば紅葉にうつろうさまなどは、飛花落葉の観念もなからむや」とあるのは、連歌の形式それ自らに、飛花落葉の理を見出したのであつて、宗祇が自然の中に観じた無常を、ここでは、逆に詩の形に自然の変転を観じてゐる。……「無明とは煩悩の事也。此元初の一念が、一切の根源、萬物之濫觴也。されば無明の一念より歌もいでくる物也。しかれば無始より今日にいたりて終劫共に人の心を種とするのみち也」(十口抄)といふものは、明らかに詩の濫觴を元初の人性においてゐるのみならず、今日・終劫に至つて、なほ人間の無明、煩悩の一念に詩の根源を認めるものである。しかし宗祇は、いつまでもこの切実な、特異の文学理論にに安住しようとはしない。……宗祇は、仏教観の文学への止揚点を寂静或は澄心に求めた。
(荒木良雄『宗祇』)
連歌師宗祇は、西行、雪舟と同じく、出家し、仏道修行によって仏法を会得した自覚的実存、ともいえる。宗祇の連歌、たとえば、連歌の発句「今日ははや秋のかぎりになりにけり」は、無明者にとっては、ただ無常の世界に生死する無明者の悲哀の表現として映るが、覚悟者の眼にとっては、無常即恒常の真の理の世界、すなわち愛と美、自由と悦びにみちた真如の世界の表現、と賞翫できる。それは、「はかなきものに愛を感じ、美を見』(荒木)る覚悟者の耳目をはじめとする諸感覚が捉える真如の世界、といってもよい。言い直せば、はかなきものに愛を感じ、美を見る眼差しは、自覚的実存の物(有為・無常・事)と心(無為・不易・理)とを一体的に合わせみる覚悟者の心眼、といってもよい。それは、虚無的な無常の世界が宗教的自覚によって、無常即恒常の真の理法の世界、すなわち心法の世界に止揚されたことを意味している。心法の世界においては、「観念と実在、理想と現実との間の矛盾相剋が、詩や一般文学の母胎となるのである。理論を持たない、また理論を持つ必要を感じないままに、単純に発達して来た日本文学は、中世に至って始めて、それに対抗する宗教的意識によって、その存在価値を問はれ、一応仏教観に順応する詩論、乃至文学論を持つたのである」、と荒木が指摘するごとく、宗教的自覚に基づく芸道の誕生、という一大転換をなす出来事、といってもよい。
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