ホーム
+PLUS

自覚者達の芸道 03

島 青櫻

 芭蕉の述懐「ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむとにはあらず。やや病身、人に倦んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り来し拙き身の科を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。」(「幻住庵の記))は、芸道を意向する資性を賦与された命運の自覚、といえる。俳諧を介した、すなわち創作物を手立てとする他己との情的交感を求める資質は、芸道者の根本気質であり、基本姿勢を示すもの、といえる。それは、常に風雲に身をせめたてて花鳥に情を労じる営為、すなわち、終生、風狂と漂泊の境涯に生きる、自覚的芸道者の行動に共通する心的傾向、といってもよい。命運の自覚は、根拠における個別的自己の情意を拠点とする、自問自答における直覚に他ならない。それは、禅における公案、或は禅定における、一般的自己、すなわち個別的自己を滅却した知性を拠点とする自問自答における覚悟の自覚や当為の自覚とは、意識的次元の異なる自覚、とみなければならない。覚悟や当為の自覚は、仏道者としての自覚であるとすれば、気付きにはじまる覚醒や命運の自覚は、芸道者としての自覚、といえよう。しかし、いずれの自覚も、命を宗とする自覚であり、広義的にいえば、宗教的自覚と括っても差し支えない直覚、といってもよい。

〔個己の根源にある〕超個の人(にん)が本当の個己である。『歎異抄』にある「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と言う、この親鸞一人である。……真宗の信者はこの一人に徹することによりて、日本的霊性の動きを体認するのである。……ここに真宗的または浄土系的日本霊性と禅的日本霊性との動きに、相異った方向または方面を認めることができる。前者はいつも個己の方向に超個の人を見、後者は超個の人の方向に個己を見るのである。それで臨済は「一無位の真人」と言う。ここには知性的な響きがきこえる。真宗では「親鸞一人」または「われひとり」と言う。個己の姿が現れている。固より禅の場合でも、一棒一喝の上に個己を出現させている。また真宗の方でも「南無阿弥陀仏のみぞ」と言うのである。が教学全体の立て方からいうと、禅は知性的――一般に言うのとは違うが――その方面に転進していき、真宗は情性的方面にその経験を傾かしめる。知性的なところには、いくらか概念性のものが加わってくる。情性的なところには、具象のいちいちに取りすがる。一般には、禅者は浄土系思想を理解せず、念仏しての極楽往生がその究極だと思うのが、それだとしている。禅者には、浄土往生の念仏はわかっても、真宗のわれ一人のための本願はわからぬ。しかし方向の異なるところにあまり囚えられないで、日本的霊性は超個の人でまた個己であるというところに自覚がありさえすれば、それで事足るということがわかればよいのである。……超個の人(これを「超個己」と言っておく)が個々の一人一人であり、この一人一人が超個のひとにほかならぬという自覚は、日本的霊性でのみ経験せられたのである。

(鈴木大拙『日本的霊性』)

 真宗の自覚は、気付きを発端とする覚醒と命運の自覚、すなわち個々の自覚に傾向した宗教的自覚であり、また、禅宗の自覚は、覚悟を契機とする当為の自覚、すなわち超個の自覚に傾向した宗教的自覚、ということができる。

 歌人であり僧侶でもあった西行の自覚の経歴は、如何なるものであったか。芸道者としての覚醒や命運の自覚は、個己的凝視に傾向する情的自覚であり、また、仏道者としての覚悟や当為の自覚は、超個己的凝視に傾向する知的自覚、といえよう。歌人としての西行の覚醒と命運の自覚は、何事も分別を入れず、あるがままにみる資質に起源をもつ。一方、僧侶としての西行の覚悟と当為の自覚は、出家後の仏門での往行的修行を契機とする。仏道者としての西行の自覚は、専ら、真言密教の教義の会得による自覚、といってもよい。真言宗の教義は、後の禅宗や真宗や、その他の諸々の教義を包含する、仏教の基本的教理からなる。西行文学の研鑽者目崎徳衛は、小文「西行の虚実について」のなかで、「仏教文学の研究者山田昭全氏はこの一首〔ひほてるや凪ぎたる朝に見わたせば 漕ぎ行く跡の浪だにもなし〕をくわしく論じ、それが『般若心経』などに説かれた〈空観〉による〈開悟〉であると結論された(「西行最晩年の一首をめぐって」)。西行が長期にわたる真言密教の教理学習を通じて空を観ずるに至ったという新説は、すこぶる説得力に富んでいる」、と西行の真言密教を通しての空観開悟説に賛同を示している。

 人間西行の自覚の核心は、歌人として芸道に生きる命運を担った己を覚ったところにあるといえる。しかし、「貫通するものは一なり」と芭蕉に聴きとられた箴言「造化にしたがひ、造化にかへれとなり」は、仏道者西行の自覚、すなわち真理の覚りとしての覚悟の自覚と、道理の覚りとしての当為の自覚があってはじめて会得される箴言、とみなければならない。斯くして、歌における西行の本質は、個己凝視による命運の自覚、すなわち芸道者としての自覚と、超個己凝視による覚悟と当為の自覚、すなわち仏道者としての自覚とを併せ持つ、言い直せば、個己的存在者であると同時に、超個己的存在者であった、といえる。

 

 一般に、自覚者に開かれている経験世界は、一心裡における一個の中心という自覚に基づく、只中の世界、といえる。そこは、無常の境(此岸)と恒常の境(彼岸)とが相即する一如の世界、といえる。自覚者の発心と出家は、己という存在は斯様な一如の世界の裡に被投された限りのある命、という覚醒の自覚を契機とする。出家とは、事実的には、家を出て仏門に入ること、或は、俗世間を捨て僧となり、仏道修行に入ることを意味する。しかしながら、出家という既住の住処を捨てて他処に移る行為は、本質的に捉えれば、一心という無量の住処の裡に己の命を投げ入れ、一心の理法に帰依することによる真の命の実現にある。修行とは、真の命の実現を求めての真理の実践行為に他ならない。出家における修行には、仏門内の集団的場における、覚悟を会得する往行的修行と、門外における社会的場における会得した覚悟を実践し深める還行的修行とがある。西行の諸国遍歴遊行は、この還行的修行、それは、一心という無量の命の住処に滞在し彷徨することによる、己というたった一人の命の真の実現行為、といってもよい。門内の集団的場における往行的修行は、いわば、人間一般の普遍的な真の命の会得の修業であるとすれば、門外の社会的場における還行的修行は、他の誰でもない、己という今・此を生きる唯一の命、いうなれば、無量の命から授かった命運的命における自己凝視と、真の自己実現の実践、求道の営為、といえよう。自己凝視は、覚醒の自覚時に伴った悲哀の心情に由来する底深き真の命の資質、といえる。また、真の自己実現の実践は、一心裡における他己との言語を介在しての交感によって行われる。西行においては、歌を詠む、すなわち和歌という文芸作品を仲介にして、命運的命の真を成就することに他ならない。言い直せば、西行にとって歌を為すことは、一心の理に随伴しつつ、真に生死するもっとも単純な、真の自己を成就する術に他ならない。歌を作ることは、一心という無量の住処に滞在する、いわば、己の命を預け託す身ほとりの、小さな住処の建立、ともいえる。つまり、歌を作る営みは、玉響(たまゆら)の命の安らぎの場所、明日へ向かう英気を養う拠所の創作であり、其処に住まうことによって真の命を実現する営為に他ならない。

 一心という無量の命の境、及び歌という有量の命の境を住処とした求道的自覚者西行の心に去来する様々な想いは、先にみた歌に現れている。「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさよの中山」にみられる命運を悲哀する想い、「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕ぐれ」にみられる自然の寂寥を感取する想い、「鈴鹿山うき世をよそにふり捨てていかになりゆくわが身なるらむ」にみられる世を捨て出家の境遇に命を晒す不安の想い、「願はくば花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」にみられる遁世における祈願の想い、斯様な想いを詠んだ歌の詞からみる限り、無自覚的芸道者の情緒的・詠歎的な歌の詠み振りと異なるところがないようにみえる。

 自覚的芸道者である西行の歌は、如何なる境涯において詠われているのか。また、無自覚的芸道者等の歌は、如何なる境涯において詠われているのか。自覚的芸道者である西行の立ち会っている世界は、先にみたごとく、一心裡における一個の中心という自覚に基づく只中の境界、といえる。其処は不条理の世界を捨離し、条理の世界に命を投じた処に開かれる境界、言い換えれば、真理即道理の法理の働く脱自の間ともいえる。西行の生涯は、一心の法理に帰依したところの命の営み、ということができる。西行が捨てた世は、半可通の仏教理解者達のいう無常の世界に他ならない。西行の出家は、現世と隠世、此岸と彼岸、穢土と浄土といった二元性の虚偽の世界を離れ、無常即恒常の法理の世界に帰依し、法理と一つになった真の境涯、すなわち一心裡の只中に己の命を晒すところにあったのである。

 無量の命の只中に漂う命運の命、其処に去来する様々な想い、時に悲哀の想い、時に寂寥の想い、時に漠たる憂慮の想い、時に祈願の想い、こうした様々な想いの底には、法理に帰依したところからくる安堵と感謝の情意、いわば、真の命の本質ともいえる喜悦の心情が働いている。喜悦は、すべてを肯定する心性、善の心、ともいえる。西行の歌の余韻余白に余情として感取される悲哀や憂慮、その底には、斯うしたすべての気分を善とする愉悦の心が働いている。斯様な歌の奥底にある心の声を聴きとることが出来るは、心眼の目をもって歌に接するときである。心眼とは、物事の本質の裡に開けた意識作用の眼差し、といってもよい。物事のみを見る眼差しを肉眼と呼ぶならば、心眼は物事と物事の本質とを一体的に合わせ見る眼差し、すなわち自覚者の直観の眼差しに他ならない。自覚者芸道者西行の歌は、自覚者の眼差しを以って賞翫するとき、はじめて本当に聞き取ることができる、といってもよい。

 一方、無自覚的芸道者の歌は、如何なる境涯において詠まれているのか。無自覚者の境涯は、己は一心裡における一個の中心、という覚醒の自覚経験をもたぬ、無明の心に開かれる境界、といえる。無自覚的芸道者の歌は、自己という有限的な意識活動に執着する境涯において詠まれる歌、といってもよい。それは、認識対象(客観)と認識主体(主観)とが乖離したところの認識、すなわち主観の分別に基づく知識と、それに付随する私意的心情、といえよう。定家や長明といった芸道者に共通する無常観、或は厭世観といった現世拒否の思想は、斯様な無自覚の意識に基づくものであり、遁世の生活へと繋がる土壌に他ならない。言い直せば、無自覚芸道者達の立ち会っている世界は、己の命の根拠である一心という無量の命を喪失した、何も彼もが余所余所しい疎外の境界、といえる。其処は、現世にたいする隠世、此岸にたいする彼岸、或は穢土にたいする浄土、といった二元性の境界を前提にした相対的世界、諸行無常という、理不尽に由来する不条理な世界、といえる。斯様な無自覚の意識に映る物事はみな幻影であり、幻影を目の当たりにする無自覚的芸道者に去来する想いは、虚無の境界を怨嗟・呻吟する想いであり、また、そこからの逃避としての虚妄の幻想、といってもよい。

 無自覚者の幻想は、睡眠時における夢想に似ている。無自覚者の幻想は、覚醒時の夢想といえなくもない。睡眠時における夢想と、覚醒時における幻想とはどこが異なるのか。睡眠時の夢想は、覚醒時の表層意識である分別識から解放された意識活動、その法理は、非合理的、非因果的、非時空的、すなわち恣意的で偶然的な意識活動、といえる。夢想に湧出する幻影は、過去に経験した光景や未経験の境域の映像であり、それらを目の当たりにする意識活動が夢想、といえる。すなわち夢想は、非秩序的、迷宮的、出鱈目で不可思議な経験、眠りの瞑目によって分別識を遮断した、個別的な命の裡に現れる意識活動、といってもよい。その経験の在り様は、自覚者であろうと無自覚者であろうと変わりない、直観における意識活動、といえる。一方、無自覚者の覚醒時の幻想は、覚醒時の表層意識である分別識を、瞑目することによって遠ざけ、ひたすら孤独の自己の裡に去来する回想的幻影の境域を彷徨する、主観における意識活動、といえる。而して、その表現である歌は、幻影と幻想とからなる孤独者の自己対話(モノローグ)、いわば、自照の詩ともいえる。斯様な見解に従うならば、無量の命の只中に彷徨する命の想いを詠む西行の歌は、無明の自己を放下し、一心に帰依したところに邂逅する同胞との交感、すなわち実相としての汝と、直観としての私との直接的相互対話、いわば、相照の詩、ともいえよう。

 無自覚的芸道者の出家、或は、隠遁は、斯様な虚無的世界からの逃避、若しくは、遁世、といえよう。西行の出家は、不条理の虚無の世界を捨離し、条理の真の世界に帰依する命の営みであったのに対し、無自覚的芸道者の出家は、不条理の虚無の世界から距離をとるための一種の方便、といってもよい。無自覚者の修業は、神仏のめぐみ――浄土への帰還――を求めて、穢土に功徳を積む在家者の営みと、本質的に同じ、といえる。結局のところ、無自覚的芸道者の出家、或は隠遁は、虚無の世界の裡における回避に他ならない。不条理の世界と如何に距離をとろうと、所詮相対的な事柄であって、不条理の無明の世界の裡に留まっている事実には変りがない。何処まで行っても不条理の世界と縁の切れぬ、無自覚の孤立した命であることに変わりない。


前のページ << 自覚者達の芸道 02

次のページ >> 自覚者達の芸道 04