ホーム
+PLUS

自覚者達の芸道 12

島 青櫻

わたしは、古代的なものの中世的変化を幽玄に認め、また、近代的なものの萌芽を非幽玄的なるものの発生に認めた上で、この両者の対立から止揚された様式として、中世的なものの成立を跡づけている。それは、和歌や和歌的連歌などを貫く幽玄とは違った、能・狂言の幽玄で、これが生活芸術としての利休の「わび茶」を経て、芭蕉の俳諧に至っている「さび」の系列であると考え、そこに中世文学史の中心をおくことによって、初めて、古代文学とも違い、近代文学とも区別される中世文学の創造とその史的展開が跡づけられると考えている。

(西尾実『道元と世阿弥』)

 西尾の歴史的時代区分は、一般的歴史学上の年歴的区分とは異なる、専ら、文芸上の思想に基準を当てた区分である。歴史学的には、近世に括られる江戸時代を生きた芭蕉が中世に繰り入れられるのは、その所為にある。西行の和歌や宗祇の連歌は、西尾のいう古代文学に入るのか否かは明らかではない。また、雪舟の名が見えないにしても、茶の利休を経て、芭蕉の俳諧を一つの文芸思想に貫かれた精神活動とみる点においては、西尾の見識と「笈の小文」の芭蕉の見識とは一致しているといえる。しかし、ここで最も留意すべきことは、中世的なるものの源流として能・狂言の芸事、換言していえば、世阿弥の歌舞芸能を西尾が挙げていることである。一方、芭蕉の「笈の小文」には、利休の名はあっても世阿弥の名はみあたらない。何故に、芭蕉は、「貫通するものは一つなり」として、世阿弥の能における芸事を挙げなかったのか。

 『世阿弥と利休』の著者桑田忠親は、「世阿弥の存在が日本文化史上の問題となり、その芸術や詩才が研究家の対象となったのは、実は近々四十年来のことであって、明治四十一年四月に吉田東伍博士が『世子六十以後猿楽説儀』と題する考証を能楽文学研究会で発表され、翌年二月に旧大名兼秘伝の『世阿弥十六部集』を校註して出版されて以来のことである。稀世の大芸術家世阿弥は久しく埋もれた宝石であった。だから、芭蕉が『笈の小文』で世阿弥のことに触れなかったのは、当然ともいえる」、と解明している。

 まことにそうなのか。『笈の小文』で、能における世阿弥を挙げなかった訳は、世阿弥文学の核心ともいえる『風姿花伝』等の伝書を目にしたことがなかったが為に、世阿弥の名が挙がらなかったのであろうか。仮に、そうであるならば、雪舟や利休には、世阿弥の『花伝書』に当たる芸術論の著書がない。尤も、利休には、南坊宗啓が、利休の言行を記録したといわれる『南方録』がある。すなわち服部土芳の『三冊子』に当たる聞書、といえる。元禄のころには、立花寶山によって書写本が流布していたというからには、芭蕉の眼にふれ、利休の茶の湯の精神を会得した可能性はなくもない。また、『千利休』の著者唐木順三によれば、利休が生きた天正年間には、世阿弥の伝書『風姿花伝』や『至花道』の写本が世間に出回っていたという記録があり、その記録がまことであれば、利休ばかりではなく、芭蕉も、世阿弥の能の精神を会得する機会が全くなかったとはいえまい。そうした可能性が考えられるにもかかわらず、『笈の小文』には、絵における雪舟、茶における利休、と一般的には文芸とは異にする芸道者の名はあっても、世阿弥の名はみえない。

 『花伝書』自体は、一種の文学作品、また、世阿弥が創作した数々の謡曲の作品も文芸作品、といえる。或は、雪舟の『秋冬山水図』や『慧可断臂図』等の絵画は、一般的にはいわゆる芸術作品、といえる。しかし、芸術の本質は詩作行為、そればかりか、日常の茶飯事の本質はすべからく詩作行為、といってもよい。文字や絵は示言(形象からなる視覚性の言葉)も、歌や音楽は言示(音声からなる聴覚性の言葉)も、薫りや味わい等は気配ともいえる暗示(嗅覚や味覚といった非相の感覚性の言葉)もすべて心の影としての広義の言語、と考えるならば、雪舟の絵は一種の文芸作品、ともいえる。禅者とすくなからぬ接触をもった芭蕉は、何処かで雪舟の絵画、すなわち文芸作品に出合った可能性は十分考えられる。

 然らば、利休の茶の湯は如何であろうか。先にみたごとく、利休の茶の湯の目的は、喫茶という日常茶飯事を介在する、主と客との一期一会の交感にある。凡そ、文芸の実践の目的は、作品創作過程であろうと、また、作品鑑賞過程であろうと、本質的に、作品、すなわち言語を介しての私と汝との事事無碍の間における呼応的交感と、それによる更なる自己形成にあるならば、利休の茶の湯は、茶の湯という言語を介しての文芸の実践であり、それは同時に、とりもなおさず心法の実践でもある。芭蕉が『笈の小文』に、利休の名を挙げたのは、利休が窮め完成させた文芸作品としての茶の湯を何時か、何処かで経験したことによる、と考えるのは、あながち、妄想、とは言い切れまい。

 芭蕉の、『笈の小文』に挙げた先達者の作品鑑賞は、心法による賞翫、すなわち、作品に表現されている物的形姿や事象的事実そのものを観るのではなく、形姿や事象的事実を成り立たしめている本質的な作用である心を観る、といってもよい。したがって、「貫通するものは一つなり」は、作品を創作した作者の心とその営為を指している、と聞かなければならない。言い直せば、詩歌であろうと、絵であろうと、また、茶の湯であろうと、如何なる手立てによるものであろうと、作品の裡に息づいているのは創作者の心であり、したがって、芭蕉が挙げた芸道者の作品は、同一の心、すなわち、心法の間における意向的想いから作品が創作されていることをいっている、と聞くべきであろう。

 桑田忠親が云う様に、芭蕉は世阿弥の『花伝書』や謡曲といった文芸作品を読むことはなかったにしても、世阿弥によって創作された、文芸作品としての能楽を実際に観る機会をもたなかったとは、言い切れない。仮に、芭蕉が能を体験したならば、心法をもって能楽を鑑賞したものと想像できる。その時、「貫通するものは一つなり」、と世阿弥の創作した能楽を感取したか否かは、推し測るしかない。然らば、如何にしたら推し測ることができるのか。

 第一部(芭蕉の命題)において、「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その貫通するものは一つなり」の一つなりの究明の手立てとして、芭蕉が挙げた四人の芸道者に共通する内面性、芸道者の本質である資性の特徴を分析し、それを統合する洞察を行った。

 斯くして、芸道者に共通する資性の特性は、求道的自覚性、被投的随伴性、脱自敵滞在性、命運的創作性、の四つに絞り込み、それぞれの芸道者に当たって検討を行った。そして、四つの資性を統合する根本資質として、憧憬(アクガル)の意義に収束させるとともに、その本質を、心法の間における自覚者の意向的想い、と解明した。その結果、一つなりの一つは、自覚的芸道者の意向的想い、とりもなおさず、それは、芭蕉の本質的推理命題「造化にしたがひ、造化にかへれとなり」の造化に帰依し、造化に遵(したが)った誠の命の営為、との見識を得るに至った。世阿弥の芸道の本質的究明においても、斯様な手立てと検討は有効であると思える。芭蕉が挙げた芸道者の資性検討において、われわれは、いわば、不用意な下で、引合い的に世阿弥の資性を垣間見てきたが、ここで、改めて、明確な用意の下で観るならば、能における世阿弥の資質は次の通りにある。

2―――世阿弥の資質

 【世阿弥…室町初期の能役者・能作者。大和猿楽の観世座2代目の大夫。幼名、藤若。通称、三郎。実名は元清。法名的芸名、世阿弥陀仏(世阿弥・世阿)。法名、至翁・善芳。足利義満の庇護を受け、田楽の喜阿弥・増阿弥、近江猿楽の犬王らとともに活躍。父観阿弥やこれらライバルの影響を受け、歌舞中心の幽玄な能の世界を確立した。「風姿花伝」「花鏡」ほか多くの能楽伝書を残し、作能に「老松」「高砂」「清経」「実盛」「井筒」「桧垣」「砧」「融(とおる)」など芸術性の高い多くの作品が伝わる。(1363~1443?)『広辞苑』】が、能における世阿弥の一般的プロフィールである。ここには、仏教、禅宗はもとより浄土教にも造詣が深く、世阿弥能の思想的根幹を形成したことの記述はない。もっとも、事実的記述が辞書の使命であることからすれば、当然のことではあるが。

同朋は、もと童子と書き、寺院に在って住職の和尚に近侍して雑役に従う童形の下僧を指したのである。………[細川頼之が]同胞に何阿弥と名のらせたことは事実であって、将軍義満の側近に侍した 同胞は、みな、阿弥号をもっている。南阿弥・観阿弥・世阿弥が、すべてそうだ。この阿弥号の由来に就いては、南阿弥の場合を見ればよくわかる。南阿弥は南無阿弥陀仏の略号であった。はっきり云えば、「南無阿弥陀仏」のまん中の二字を採ったのである。つまり、僧侶と俗人の中間的存在の者の称呼ということになる。一説によれば、この阿弥号をもつ者は、もと浄土宗の一派である時宗の僧侶の称号であって、単なる出家僧侶ではなくて、寺院で高位住頭職に昇進して栄達することを断念した者、一般の僧侶よりも一歩進んで世を捨てた遁世者であるというが、阿弥号を有する同朋衆は、決して遁世者ではない。そうかと云って、単なる俗人でもない。確かに、その中間を行く者である。………同朋こそ日本の芸術家や学者の元祖だと云ってよい。〔注記:[ ]内は筆者記入〕

(桑田忠親『世阿弥と利休』)

 能楽を生業とする家柄に生を受け、幼少より父観阿弥から能の薫陶を受け育ったのが世阿弥、といえる。父観阿弥の能は、当時の武家社会の精神的拠所であった禅仏教の思想を色濃く反映したものであった。世阿弥の最初の能芸論『風姿花伝』は、父観阿弥から見聞し学んだ能の奥儀を記した伝書であり、その詞の端々には、禅の思想の影響が如実にみてとれる。世阿弥の自覚的覚悟は、斯様な仏教的環境の中から芽生えたものである。

 覚悟としての自覚の内容を羅列するならば、一つ目に、自己存在を超えたものの働きの覚悟、二つ目に、自己存在は、自己存在を超えたものの働きの中に投げ入られた存在であることの覚悟、三つ目に、一つ目の覚悟を契機とする、自己存在を超えたものの法理の覚悟、四つ目に、自己存在に授けられた命運的素質の覚悟等、といえる。一般的に、自覚の経験過程は、一つ目に始まり、二つ目に至り、三つ目経て、四つ目に達するのが常道、といってもよい。先にみたごとく、西行、宗祇、雪舟、利休、そして芭蕉の辿った自覚過程は、概ね、常道、といえよう。

 しかし、世阿弥が辿った自覚過程は、まったく常道から外れている。世阿弥の自覚は、一つ目から四つ目の覚悟のすべてを、直観的かつ即時的に、自ずから経験したと推測できる。その能力は天性のものという他ない。その才知は、例えれば、モーツァルトの天才と比肩できるかもしれない。父を音楽家とする家柄に生まれたモーツァルトは、世阿弥と同様に、幼少より、父によって家系の生業の薫陶を受け育った。五歳にしてメヌエットを作曲したといわれるモーツァルトは、生涯、多くの優れた曲目を遺したことは、人のよく知るところである。父から手解きを得た音楽に触れたとき、己を超えたものの働きとその仕組を、更に、自ら創り出した音楽のなかに嬉戯している己を、即時に直覚したものと想える。生涯、多くの謡曲を創作した世阿弥も、同じく、父から手解きを得た能楽に触れた瞬間、自己を超えた存在とその働きを、また、そうした能楽が創り出す境域に嬉戯している己を、即時に直観したもの、と想像できる。世阿弥の自覚も、モーツァルトの自覚も、天才の自覚、いわば、無自覚の自覚、天賦の資質、といってもよい。

 仏教者の求道は、先にみてきた如く、仏法の自覚及び仏法の修行、といえる。仏法の自覚は、仏法の覚悟に至る道、いわば、往行的求道の道、ともいえる。また、仏法の修行は、覚悟した仏法を広め深め実践する道、いわば、還行的求道の道、ともいえる。すなわち、仏教者の求道は、仏道という一般的な能力を授かった人間の資質における法の自覚であり、法の実践、といってもよい。一方、芸道者の求道は、心法の自覚及び心法の修行、といえよう。心法の自覚は、心法の覚悟に至る道、いわば、往行的求道の道、ともいえる。また、心法の修行は、覚悟した心法を広め深め実践する道、いわば、還行的求道の道、ともいえる。すなわち、芸道者の求道は、芸道という特殊な能力を授かった人間の資質における法の自覚であり、法の実践、といってもよい。

 先にみたごとく、仏法も心法も、本質的に命の原理、といえる。命の原理は、身態即是心態∞心態即是身態の法式、身心の矛盾的自己統一の仕組からなる法理、といってもよい。仏法は、悟りを得た者の身態的側面からみた命の原理の言示、ともいえる。また、心法は、悟りを得た者の心態的側面からみた命の原理の言示、ともいえる。然らば、何故、仏教者の自覚は仏法的であり、芸道者の自覚は心法的であるのか。それは、今みた如く、仏教者の自覚は、誰彼に等しく賦与された一般的人間の資質に比重が懸かった、どちらかというと、身態的在り様、すなわち仏法の自覚、といえる。端的に言い直せば、仏教者の自覚は、一般的な人間の命における自覚、といってもよい。一方、芸道者の自覚は、己ひとりだけに賦与された特異な心的資質に比重が懸かった心態的在り様、すなわち心法の自覚、といえる。端的に言い直せば、芸道者の自覚は、特殊な人間の命における自覚、といってもよい。

 西行・宗祇・雪舟・利休・芭蕉、そして世阿弥といった芸道者等は、出家の入道、在家の居士、或は同朋といった、様々な境遇において、一度は仏教、就中、禅宗において仏法を経験し、法を会得した者達、すなわち仏法を覚悟した自覚者、といえる。其処における自覚は、凡ての人間的命に当て嵌まる普遍的な覚悟、まさにあるべきこと、まさになすべきこと、すなわち真・善・美といった一般的な実質的価値の自覚であり、その実践は当為、といえる。当為は、私にも汝にも、他の誰にも当て嵌まる正義の営為、といってもよい。其処における自覚と修行は、本質的に宗教的経験であり、仏法的自覚と修行、といえよう。

 先にみてきた如く、仏法と心法は命の原理とう意味において、同一の法理、といってもよい。すなわち、仏法も心法も身態即是心態∞心態即是身態、つまり、身態的働きと心態的働きとが相即する法、といえる。従って、『歎異抄』における親鸞の語句「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」は、心法的自覚、すなわち宗教家としての己の命運の自覚、といえなくもない。しかし、親鸞の命運の自覚は、仏法の覚悟における経験であり、自覚的芸道者達の心法の覚悟における命運の自覚とは、根柢を異にする自覚、といえよう。言い直せば、西行一人にとっての意義、或は、芭蕉唯独りのための価値、といった芸道者の特異な心的資質が求める命運的自覚と修行、すなわち心法に基づく芸術的経験は、親鸞の自覚とは異なる。西行・宗祇・雪舟・利休・芭蕉、そして世阿弥が、仏法の覚悟を会得していながら、仏門に全面的に帰依しなかった理由は此処にある。彼らが求めたものは、誰彼と同じではない、己独りに賦与された命運的命の存在意義、言い直せば、心法的自覚に基づく価値の創造、すなわち知・情・意といった気質的価値に基づく創造、といってもよい。すなわち心法的自覚に基づく創作行為は命運的命の求道の営み、といってもよい。

 因みにいえば、『芭蕉俳諧の根本問題』の著者太田水穂は、芭蕉の謂う心法とは「造化の法を自己の所依とすることである」、と解明している。換言していえば、芭蕉の謂う心法とは、宇宙本体の心霊的働きである造化にしたがい造化にかえったところの理法、といってもよい。


前のページ << 自覚者達の芸道 11

次のページ >> 自覚者達の芸道 13