ホーム
+PLUS

自覚者達の芸道 07

島 青櫻

 真の発起の間には、真理としての自然が創造する、いわば、天然の間と、真実としての人間が創造する、いわば、人造の間とがある。天然の間とは、森羅万象、いわゆる自然物からなる間をいい、また、人造の間とは、建築や言語、その他諸々の人間が創造した物事からなる間をいう。西行、宗祇、雪舟、そして芭蕉といった、諸国を経巡った不定住の自覚的芸道者の彷徨漂泊の間は、どちらかと言えば、まえの天然の間を専らとする。一方、後にみる利休や世阿弥のごとき定住の自覚的芸道者の彷徨漂泊の間は、どちらかと言えば、あとの人造の間を専らとする。

 自覚的芸道者の彷徨漂泊の時空間は、理事無碍の天然の間であろうと、事事無碍の人造の間であろうと、本質的に、邂逅と交感(共鳴と反響)の間、といってもよい。すなわち、出会いを求めての彷徨であり、交感を求めての漂泊に他ならない。その交感は、心法に基づく。すなわち、理事無碍、或は事事無碍における言語を手立てとする主客一如の命の交感、といってもよい。主としての自覚者の交感相手である客は、理としての自然そのものであったり、事としての自然物――人間も一種の自然物である――であったり、時には、主自身の心裡の記憶や回想の心象であったりする。心法の漂泊にあっては、漂泊者は常に、交感相手にとっての主であるとともに、交感相手にとっての客でもある、という矛盾する相互関係の立場にある。それは、一元性の境域における相互関係、「汝は私ではない私であり、同時に、私は汝ではない汝である」関係、すなわち、色即是空∞空即是色における色即是色∞色即是色の関係、言い換えれば、汝即是私∞私即是汝の、矛盾的自己同一の心法における関係にあることによる。結局、主とは、交感成就の手立てである言語、すなわち作品を創る者をいう。ここからいえば、人間を創始した無量の命である自然は、濫觴の主である、といえよう。

 芭蕉の誠の俳諧における主と客との関係をみるならば、連句の発句、すなわち主と客とが立ち会っている今・此の自然の時節を詠む者は、興行に招かれた客であり、招かれた客が詠む自然の時節に寄せて詠む発句は、興行者の呼びかけにたいする応答、といえる。すなわち、連句における発句は、連句を興行する主にたいする挨拶、つまり、発句を詠む者は、興行に招かれた客の立場にある。脇句は、客の主への挨拶にたいする返礼、といえる。芭蕉の誠の俳諧は、自覚者の芸道、言い直せば、理事無碍即是事事無碍の心法における主と客の相互交感、といってもよい。その相互交感を成就させる手立てが、定型の詩句に他ならない。それは、言語作品を仲介とする、主と客の心の交流、といってもよい。宗祇の正風連歌における主と客の関係、及び交感の仕組も、芭蕉の誠の俳諧と全く同一の法理に基づいていることは、先にみたとおりである。

 歌における西行、或は絵における雪舟の、彷徨漂泊における交感は、自然、或は自然物の心象を主とし、己を客とする、理事無碍即是事事無碍における心の共鳴であり反響、といってもよい。この場合、主としての自然、あるいは自然物の心象は、客へ呼びかける者であり、また、客としての己は呼びかけに応える者、といえる。この呼応の交感を成り立たせるのが、言示としての詞であり、示言としての絵、といえる。そして、この交感は、連歌や連句と同じく、主と客との往還的相互交感であり、客から主への挨拶、すなわち往方向、乃至還方向の局面における、客の作品を通しての心の交流、といえる。しかし、作品創造による自己形成という芸道の目的からみるとき、客は主を詠む、或は描くことによって、真の自己形成を遂げるとともに、一方の、詠まれた主、或は描かれた主は、真に詠まれることによって、或は真に描かれることによって、主自身、真の自己形成を果たす、といってもよい。何故ならば、先にみたごとく、交感における表現者としての客と、自然や自然物、或は記憶や回想の心象としての主とは、客即是主∞主即是客の、心法の法理の関係においてあることにより、真の自己を成就する、といってもよい。客が創作する作品は、心法の実践、といってもよい。すなわち心法の実践は、客の真の自己実現であるとともに、主を心法のもとに位置づける営為でもある。この時、主は、心法のもとに位置づけられることによって、真の自己実現を成就する、言い直せば、山水は、雪舟に描かれることによって己の真の自己実現を遂げる、といってもよい。

 いわゆる世間とは、仏教的にいえば、「有情(うじょう)のいる場所。そこにいる有情そのもの。……有漏法(うろほう)の異称。煩悩のこと。」(「広辞苑」)、また一般的にいえば、「天地の間。あたり一帯。……人の世。人生。……社会。世の中。また、世の中の人々。……世間づきあい。交際の範囲。また、そのための費用。……くらし向き。身代。財産。」(「広辞苑」)、とある。要するに、仏教にいう出世間の聖なる境に対し、世間は俗なる境をいう用語、といえる。俗の境界は、「一般のならわし。土地の習慣。……僧でない世間普通の人。時代の風習。……世間。世の中。世間なみ。凡庸。ありふれていること。」、美的感覚的にいえば、「風流でないこと。卑しくてみやびやかでないこと。」(「広辞苑」)の境をいう。世間の間を人間の様態からいえば、無明の人の間、疎外の間、分別の間、孤立した命の間、ともいえよう。また、世間の間をその本質性からいえば、森羅万象の生命の拠り所、すなわち、あらゆる生命を生み育て護る無窮の自然のはたらきの覚知を欠いた虚無の間、ともいえよう。

 世間の間に生死する人間相互の関係を主客の観点からみるとき、孤立した個々の人間は、自己としての主体、すなわち主の立場にある。また、世間の間に己と同じく生死する諸々の人間は、他己としての客体、すなわち客の立場にある。此の間には、主と客相互の有情を直接紐帯する絆(自然のはたらき)は顕現しない。斯様な主と客の関係は、相対的な有限の間に生死する者、いわば、有の一物ともいえる孤独者、言い直せば、己の命の立脚する根拠、すなわち、無窮の自然の力のはたらく在所としての間の自覚を持たない無明者における関係、といってもよい。

 芭蕉をはじめ、西行、宗祇、雪舟、そして次にみる利休も、われわれが自覚者と呼ぶ芸道者の端緒の行為は、常に客としての立場から為される創造行為、といえる。そして、この場合、主は、常に自然の力のはたらきそのものであったり、自然に共に生死する他の自然物であったりする。すなわち、主は客に呼びかける興行者とも呼べる立場にある者、といってよい。

 斯様な自覚者達の主客の関係は、絶対的無疆の間に帰依した者、いわば無の一物ともいえる、一つ命である自然の内に生死する命の一つとしての帰命者における関係、或いは、一つ命である自然の内に共に生死する同胞者相互の関係、といってもよい。

 斯くして、無自覚者における主客関係と、自覚者における主客の関係とは、全く逆の関係にある。この主客の逆転は、何に起因するのか。自覚者の命は、一つの命である自然の内に生死する命の一つ、すなわち、主である自然、或いは自然の内に生死する同胞者の興行ともいえる生成活動に参加する客の立場にある。一方、無自覚者の命は、一つ命である自然の力のはたらきを覚知せぬ孤立者の集まりの内に生死する命の一つ、すなわち、自己の命は主体としての主の立場にあり、また、他己の命は、客体としての客の立場にある。端的に言い直せば、自覚者と無自覚者の主客の逆転は、両者の生死する間が異なっていることに起因する、といってもよい。

6―――茶における利休

 【利休安土桃山時代の茶人。日本の茶道の大成者。宗易と号した。境の人。武野紹鴎(じょうおう)に学び侘茶(わびちゃ)を完成。織田信長・豊臣秀吉に仕え寵遇されたが、秀吉の怒りに触れ命じられて自刃。(1522~1591)『広辞苑』】が、茶における利休の、今日の一般的解説、といってよい。ここには、利休は堺で魚問屋を生業とする大商人であるとともに、抛筌齋の齋号をもつ居士、在家の禅の修行者であったということの記述は見られない。

 利休が生きた安土桃山時代は、宗祇や雪舟の生きた年代から、約百年程下った年代に当たる。秀吉による全国統一が成されるとともに、世の中の治安により、禅仏教の思想を中心とした文化が成熟を迎え、諸々の芸道が花を開き,就中、珠光を濫觴とする茶の湯は、利休によって茶道としてのひとつの完成を遂げた時代、ということもできる。

茶道の成立者は能阿弥である。そうして、彼の茶道をば、珠光流の茶道と対称して、東山流茶道と呼んでいる。……この東山流茶道の開祖である能阿弥に対して、奈良流茶道の開祖と見なされるのが珠光である。……一休禅師は、時代の叛逆者といわれる程度の徹底的な生き方をした傑僧であったから、一芸を確立しようとするほどの気概のある人物は、みな彼に師事した。……珠光も、もちろんその一人だ。彼は一休に参禅して何を得たか。……「仏法モ茶湯ノ中ニアル」と悟ったのだ。……仏法なるものは、結局、日常茶飯の茶湯の所作に見出されるのだ、悟った。云いかえると、それは、茶禅一味の境地である。……能阿弥の創った東山流茶道は、美と礼があった。しかしそれ以上の奥深いものはなかった。珠光は、これに宗教と道徳とを加えて、茶道を一層完璧なものにした。……珠光の茶道は、その出発点からは、茶禅一味から発った侘茶であり、かつ民族の自然に連なることを理想とした。

(桑田忠親『世阿弥と利休』)

 一休禅師に参禅し、「仏法モ茶湯ノ中ニアル」と覚悟した珠光は、茶湯は、日常の分別的世界を放下し、真としての自然(じねん)の世界に還る手立てとして捉えている。阿鼻叫喚の無明の道を離れ、真の道である仏道に帰依しようとする意向は、禅宗のみならず、浄土真宗にも共通する覚悟、いわゆる菩提にある。道元的にいえば、心身を脱落し、一顆明珠、或は古鏡に至る道、ともいえる。また、親鸞的にいえば、南無阿弥陀仏の念仏により、自然法爾、或は無上仏に至る道、ともいえる。仏教にいう仏そのもの、すなわち仏の本質は、有量のわれわれひとりひとりの命を包み護る、無量の可能性を秘めた一つの生命的はたらき、空とも無ともいえる法の働き、といってよい。菩提とは、こうした乾坤の真に気付くことであり、また、その真理、すなわち仏法を覚ることに他ならない。而して仏とは、菩提を得た者を指す。仏は、其処此処に偏在する姿・形のある生命的はたらき、すなわち真実であり、一方、仏法は、其処此処に偏在する姿・形のない生命的はたらき、すなわち真理に他ならない。仏と仏法との関係は、仏即是法∞法即是仏の関係、換言すれば、心法における関係、といってもよい。

 仏法が斯くあるならば、一休禅師の命題、「仏法モ茶湯ノ中ニアル」は、如何なる意か。「仏法も茶の湯の中にあり」、という場合の茶の湯は、真実の営為を指す、といってもよい。真実の営為の中に仏法、すなわち、色即是空∞空即是色の法理が顕れるの意、といえよう。したがって、「茶の湯も仏法の中にあり」と言い換えても、命題の意味は変わらない。つまり、「仏法も茶の湯の中にあり」は「茶の湯も仏法の中にあり」と言っているのと同じである。言い換えれば、床の間に活けられた一輪の花にも、或は、一碗の茶の湯にも、或は、一畳台目の茶室にも、遍く物事を包摂し融通する姿・形のない無礙なる透き間こそが、仏そのものであり、仏法はその透き間にはたらく法理、とみるべきであろう。

 無明の世界を放下し、真の世界である仏法に帰依することが、禅仏教の理想、といってもよい。珠光の茶の湯は、仏法に生死する手立て、といえる。言い直せば、茶の湯は仏法の実践に他ならない。すなわち仏法の命題である色即是空∞空即是色の実行、ともいえる。色は方便法身としての事(自然物)、空は法性法身としての理(自然法爾)、とすれば、仏法は、事と理とが絡み合い、相即する理法、ともいえる。或は、事である人間と、理である自然との相応における交感の法、つまり理事無碍の法、ともいえる。珠光は、茶の湯を手立てにして、理事無碍の法を実践した、といってよい。いわゆる茶禅一味の仏法の実行、といってもよい。珠光の理事無碍の茶の湯は、後の利休の茶の湯、一期一会の茶の湯、すなわち事事無碍の茶の湯の濫觴、といえよう。

茶道史における利休の地位は、云うまでもなく、能阿弥によって成立した〔優美と礼節の〕東山流茶道と、珠光によって成立した〔侘びと寂びの〕奈良流茶道とを統一融合したところにある。……〔利休の高弟山上宗二が書きとめた「山上宗二記」の〕中には、客振りに就いての説明があり、「座の建立ニ条々密伝多也。」と述べ、亭主振りに対して、また客振り如何によって一座の茶会が成立することに言及している。……「路地ヘ入ヨリ出ルマデ一期ニ一度ノ会ノヨウニ亭主ヲ可二畏敬一。」と教えている。……亭主も客も一生にただ一度の茶会と思って、精根をつくして心遣いせよ、との教えである。……利休の茶道にも、儒教の影響があるのだ。……「茶湯ハ禅宗ヨリ出タルニ依テ、僧ノ行ヲ専ニスル也。珠光、紹鴎、皆、禅宗也」と述べている。……〔宗二の〕茶湯が禅から出たというのも、〔珠光の〕仏法も茶湯の中に在りというのも、ただ逆に言いかえただけで、要するに、茶禅一味の〔侘びの〕風体である。[注記:〔 〕内は筆者記入]

(桑田忠親『世阿弥と利休』)

 珠光の茶の湯は、茶禅一味の茶道における仏法の実践、理事無碍における仏法の実行、すなわち、自然法爾と人間との交感による真の自己形成を実現する手立てであった、といえよう。一方、利休の茶の湯は、事事無碍における仏法の実行、すなわち、人間と人間、或は人間と森羅万象との交感による真の自己形成を実現する手立てであった、といってもよい。言い直せば、珠光の茶の湯も利休の茶の湯も、茶禅一味の茶の湯を介しての一期一会の命と命の交感であり、真の自己実現を遂げる営みであった。而して、茶禅一味とは、茶の湯という芸道における仏法の実践の謂、と聞かなければならない。

 仏教は、仏法によって仏になる教え、といってもよい。仏教は、真理による真実の実現の知恵ともいえる。人間的観点からいえば、真の人間のまさにあるべきこと、若しくは、まさになすべきこと、すなわち当為の訓ともいえる。当為は真実の法、真・善・美の価値の法、すなわち仏の法の実践に他ならない。然して仏とは、真実の意に他ならない。真実の法である仏の法の本質は真理の法、すなわち仏法、といってもよい。言い直せば、仏法は、叡智と慈愛と善意とが三位一体をなす心性のはたらき、といってもよい。つまり、端的にいえば、仏法は心法と同義、といってよい。言い直せば、仏法は、三つの意識作用、知・意・情のはたらきを蔵する心の法、といってもよい。すなわち、真の法理(色即是空∞空即是色)を、仏(方便法身)に焦点を当てた用語が仏法であり、心(法性法身)に焦点を当てた用語が心法、といってよい。知の作用は、専ら宗教性に関連し、真の価値に連絡する心的はたらき、ともいえる。また、意の作用は、専ら道徳性、若しくは倫理性に関連し、善の価値に連絡する心的はたらき、ともいえる。そして、情の作用は、専ら芸術性に関連し、美の価値に連絡する心的はたらき、ともいえる。

 自覚者の芸道は、心法の覚知に基づく営為、といってよい。覚知に基づく利休の茶禅一味の茶の湯は、価値的には真の実践、知の作用に起因する宗教的当為の実行、ともいえる。また、利休の一期一会の茶の湯、すなわち命相互の交感を旨とする茶の湯は、価値的には、善の実践、意の作用に起因する道徳的当為の実行、ともいえる。しからば、利休の茶の湯において、情の作用に起因する芸術的当為の実行、価値的には美の実践は、如何なるところに見出されるのか。


前のページ << 自覚者達の芸道 06

次のページ >> 自覚者達の芸道 08