自覚者達の芸道 18
島 青櫻
4―――世阿弥能の特異性
世阿弥における能とは何か。先に見てきた事実を鑑み、端的にいうならば、世阿弥の能は、浄土宗にいう阿弥陀を本源とする仏法の実践、ともいえる。仏法の実践は、阿弥陀の可能態(dynamism)、若しくは阿弥陀如来の機能による浄土、乃至成仏に至る営み、ともいえよう。禅宗の拠点的経典『金剛経』(「金剛般若波羅蜜経」)的にいえば、波羅蜜の営み、彼岸に至る営為、ともいえる。浄土宗と禅宗、いずれにしても正法に至る営為、当為の所業、といえる。阿弥陀は、サンスクリット語の「アミタ」の音から音写した訳語、その語意は無量を指す。浄土系の経典(『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』等)においては、阿弥陀の働きは、慈悲と智慧とが相即する無量の命の能力の法(真理)、すなわち、命の法ともいえる仏法を意味する。斯くして、世阿弥の能は、仏法の実践による浄土乃至成仏に至る芸事、といってもよい。世阿弥の阿弥号が然る可く示すごとく、世阿弥の能の根源は、阿弥陀の慈悲に傾向する仏法思想にあり、その思想に基づく芸事が世阿弥の理想の能、といっても差し支えない。
世阿弥の能の特異性は、仏法における命の法の実践としての演芸であるところにある。言い直せば、世阿弥の命の法の実践としての能は、修行としての芸事、ともいえる。芸事における修行とは、命の法と己の命運を自覚した求道的芸道者の終生にわたる真の芸の追求と稽古に他ならない。西行における和歌、宗祇における連歌、雪舟における絵、利休における茶、そして芭蕉における俳諧は、性起即縁起の間に滞在する自覚者としての己ひとりの芸道、すなわち、命の法における唯一人の命(現在霊)の真っ当に生きる道に他ならない。世阿弥における能も、自覚者の芸道、命の法に基づく唯一人の命(現在霊)の真っ当に生きる道、ともいえる。しかし、世阿弥の芸道が先に挙げた芸道と異なるのは、現実の間に滞在する芸道者としての己ひとりの芸道に生きるとともに、物語の主人公(物狂の過去霊)の演者としての己ひとりの道――それはとりもなおさず、性起の間に滞在する主人公の己ひとりの真っ当に生きる道――を一緒に生きるところにある。すなわち、命の法に基づく世阿弥の能は、物語の主人公の命を演じるというよりも、命を一緒に生きるというほうが適切な芸道、といえよう。世阿弥の能の特異性は、まさに、この異なる二つの命を同時に生きるという点にある、とみるべきであろう。
仏法、すなわち命の法は、仕組という側面からいえば、相互矛盾する要素が絡み合い相即し、一つに統合されている構造、西田幾多郎がいう絶対矛盾的自己同一の形式、或は、鈴木大拙のいう即非の論理構造からなる。それは、有量のものと無量のものとが、或は、現実的なことと非現実的なこととが、或は、過去的なことと未来的なこととが、いま・ここに一緒にある組立、ともいえる。
また、交接という側面からいえば、命の法は、物事を一方的に他の物事に置き換えて断定し固定する方法、すなわち還元-決定方式の合理的且つ静止的な法ではなく、いわば、生成―非決定方式の非合理的且つ流動的な法からなる。具体的にいえば、汝と私、或は客と主、或は呼気と吸気、或いは過去霊と未来霊、といった絶対唯一の間における対極的要素が、今此で出会い、交感し和合する法理、言い直せば、真の自己形成と自己生成を為す無量の命(可能態)の法理、ともいうことができる。
世阿弥の能の上演は、現実の境界と非現実の境界とが重畳相即する時空の間、すなわち命の法の間における営為、ともいえる。現実の境界は、無量の命(阿弥陀)の只中における有量の命の交感和合の境界、この場合、主は能の演技者(世阿弥)、客は能の鑑賞者(観衆)、そこは、理事無碍界に直接する事事無碍界の主と客との交感和合による真の自己形成(成仏)と更なる自己生成の間、今・此の命の縁起の境界、といえる。一方、非現実の境界は、謡曲の物語(虚構)の境界、有量の命(例えば旅僧)の夢幻における、有量の命の交感和合の境界、この場合、主は物語の主役であるシテ、客は脇役であるワキ、そこは、理事無碍界における事事無碍の主と客との交感和合による真の自己形成(成仏)と更なる自己生成の間、今・此ではない時と所における命の縁起の境界、といえる。斯くのごとく、世阿弥の演劇は、現実の只中の境界と非現実の夢幻の境界とが絡み合い相即する命の法における当為の営み、といってもよい。世阿弥の演劇がオペラのごとき西欧演劇と根本的に異なるのは、命の法に依存する芸事であるところにある。言い直せば、自覚者の芸道というところにある。
然らば、命の法の実践としての世阿弥の能において、対極する二つの境界、現実の只中の境界、能の興行という、いわば事実の境と、非現実の夢幻の境界、戯曲の実演という、いわば虚構の境と、それぞれの境界に発起する命の経験、すなわち意識活動は如何なる情態であるのか。
有量の命の霊的働きを意識作用とみるとき、二態の意識作用からなる。一つは分別意識、有量の命に執着するところの意識、私意の意識、ともいえる。いま一つは、無分別意識、無量の命に融通相即する意識、分別識から解放されたところの意識、若しくは、分別意識を放下したところの意識、誠意の意識、ともいえる。無分別意識は、無量の命の法の働きに相即する命の意識、つまり、繰られる命の意識、その本質は狂、ともいえる。狂とは、己の命を超えたところの働きが憑き、それに繰られる情態をいう。己の命を超えたところの働きとは、無量の命の働き、仏法的には自然法爾、阿弥陀の能力を指す。
意識という実体のないものを球面体に譬えるならば、分別意識は、内部と外部とが相互に交通する窓乃至孔に、いわば特殊なフィルターをかけた球面体内におけるバイアス(bias)のかかった意識作用、外部世界との交通は間接的且つ限定的、といえる。一方、無分別意識は、内部と外部とが相互に交通する窓乃至孔を全面開放した球面体内の意識作用、外部との交通は直接的且つ無限定的、といえる。
睡眠時における夢は、分別意識から解放された無意識における経験、自覚的命であろうと無自覚的命であろうと、変わりなく命の底から湧出する意識活動、すべての有量の命が備えもつ天賦の資性、といえる。狂の情態は、無量の命の繰る働きの境界において、外的世界と直接交感する有量の命の意識の有様、といえる。夢における経験は、無意識における経験、すなわち狂における経験、といってもよい。夢における経験は睡眠時、意識活動的には進んで事をしない情態、受動的で消極的な意識情態における外部世界との交感、ともいえる。夢における狂の経験は、いうなれば、無意識の球面に穿たれた無数の孔を抜けて這入り込んで来る諸々の霊的命(生霊や死霊、或いは、過去霊や現在霊や未来霊)との交感の出来事、ともいえよう。
夢の経験は、睡眠時ばかりとはかぎらない。覚醒時に見る夢、いわば白昼夢ともいえる幻の経験である幻は、夢と同じく、無量の命の繰る働きの境界での意識情態における諸々の霊的命(生霊や死霊)との交感、ともいえよう。夢も幻も、自意識から解放された境界における狂の経験、といってもよい。世阿弥の謡曲「井筒」を例えにすれば、旅僧(ワキ)の里の女(前シテ)との交感は幻における狂の経験であり、また、紀有常の娘(後シテ)の物狂の出来事は、旅僧の夢における狂の経験、といえよう。夢中の出来事は、いま・ここの経験ではなく、いつか・どこかでの経験、といってもよい。言い直せば、夢中の経験は、本質的に、いつか・どこかでの経験に他ならない。
然して、狂の意識活動は、意識の睡眠状態にある夢の境ばかりとはかぎらない。無分別意識の受動的消極的意識情態における経験が夢の境における狂であるとすれば、一方に、覚醒状態にある無意識の能動的積極的意識情態における風狂経験や、消極的受動的意識情態における物狂の経験がある。意識の睡眠状態にある夢幻の境における狂の経験が、無意識の球面に穿たれた無数の孔を抜けて這入り込んで来る諸々の霊的命(生霊や死霊)との交感の出来事とすれば、覚醒状態にある無分別意識の情態における経験は、無意識の球面に穿たれた無数の孔から抜け出して、外部の諸々の霊的命(生霊や死霊)との交感の出来事、ともいえる。その営みは、理想を求めて無量の命の境に憧憬(アクガル)出でた霊的命の意識の働き、すなわち、無量の命の只中における無意識の生成的経験行為、ともいえる。言い換えるならば、それは、己の命を超えたところの働きが取り憑き、それに突き動かされる霊的命の情態、いわゆる風狂や物狂と呼ばれる狂者――己の命運を自覚した芸道者、或は、ひたすら無量の命に繰られる迷妄者――の行為、といえる。狂者が滞在する無量の命の境界は、空・無・虚とも呼ばれる非実態的な拡がり、可能態(dynamis)ともいえる無量の能力を蔵する透き間、と見ることができる。また、そこは、命の呼吸ともいえる風がとこしえに吹く妙なる只中の間でもある。
而して、風狂、或は物狂とは、只中の風に吹かれる命の情態を謂う。「奥の細道」の冒頭の件、「片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやまず、………そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず、………」、諸々の命との出会いと交感を求めてやまない憧憬(アクガル)が憑き、それに苛まれ、繰られるのが風狂者の情態である。その由来は、命の法と命運的命の自覚に基づく愛着、若しくは、正に己を成就しようとする意向、すなわち自覚的芸道者の狂に他ならない。
夢における風狂や物狂の経験と、幻における風狂や物狂の経験とは、無分別意識における経験という側面からみれば、同一の経験、といってもよい。異なるのは、無意識の情態にある。夢の経験は、意識の眠りの状態における経験、無分別意識の情態における経験、その内容は無意識の球面に穿たれた無数の孔を抜けて這入り込んで来る諸々の霊的命(生霊や死霊)との交感の出来事、ともいえる。つまり、夢の経験は、眠りにおける霊的命のいわば内面的意識面での経験、ともいえよう。一方、幻の経験は、意識の目覚めの状態における経験、無分別意識の情態における経験、その内容は無分別意識の球面に穿たれた無数の孔から抜け出して、外部の諸々の霊的命(生霊や死霊)との交感の出来事、といえる。つまり、幻の経験は、霊的命のいわば外面的意識面での経験、ということもできよう。
複式夢幻能「井筒」は物狂の物語、その内容は、非現実のいつか・どこかの境における出来事、夢中の事態であるとともに、また、「井筒」を上演する現実のいま・ここの境における出来事、只中の事態でもある。言い直せば、夢幻能の上演の境は、眠りにおける出来事と、目覚めにおける出来事という対極的な事柄が、無量の時空の間に、まさに一緒に現成している境、といってもよい。とりもなおさず、その境は、命の法の性起と縁起の境域に他ならない。命の法の働きは、斯様な絡み合いつつ相即する対極的な命のルーチンワーク的反復作用であり、その意向は真っ当な自己形成と自己生成、すなわち広義の言語創出にある。世阿弥の能に即していえば、世阿弥の能は、真っ当な命の能力による芸事、すなわち命の法に基づく芸道であり、その実践は、真・美・善三位一体の当為、ということもできる。真は正になすべき知の
命の法に基づく営為は、命の法に則した行為、といえる。命の法に則した行為は、対極的命との出会いを契機とする呼応的交感和合の行動、ともいえる。簡単にいえば、主としての私と、客としての汝との無意識における直接交感、といえる。この直接交感を通して命の法は遂行される、とみなければならない。
世阿弥の能の公演の境は、夢中の出来事の境と只中の出来事の境とが重畳相即する一如の境域、といえる。夢中の出来事は、いつか・どこかの境における縁起、非現実の境における事事無碍の出来事、ともいえる。一方、只中の出来事は、いま・ここの境における縁起、現実の境における事事無碍の出来事、ともいえる。すなわち、世阿弥の能の公演の境は、夢中の出来事と只中の出来事という時空の異なる縁起が同時且つ一所に発起している境域、といってもよい。時空の異なる縁起が同時且つ一所に発起している境域は、過去的現在と現在的現在と未来的現在とが一緒である時空の間、すなわち無量の命の働きの間に他ならない。夢中の境も只中の境も、無量の命の働きの間が包摂する無数の境のひとつ、といえよう。而して、夢中の境と只中の境、それぞれの境には、私としての主と汝としての客との無意識における命の通じ合いの出来事、命の直接交感の出来事が現成している、とみなければならない。
夢中の境と只中の境、それぞれの境に現成している命の交感の様子を詳らかにすれば、以下の通りである。
謡曲「井筒」は、旅僧の夢幻の境における出来事、といえる。前場の幻の境と後場の夢の境とが重畳する非現実の境、旅僧の眠りの意識状態裡の事態であり情態、といえる。前場は、旅僧(客)と里の女(主)との幻の境における命の直接交感、ワキとシテとの相互対話による交感、いうなれば、ディアローグの交感、とでもいえる。一方、後場は、旅僧(客)の夢の境における紀有常の娘(主)の業平思慕の自問自答、ひとり二役の交感、いうなれば、モノローグの交感、とでもいえる。この場合、夢をみる旅僧と紀有常の娘との関係は、幻の境と同じく、旅僧が客で、紀有常の娘が主の立場にある。
夢幻能「井筒」の公演は、現実の時空の間、只中の出来事、といえる。この場合、主は能の演技者、すなわち謡曲を実演する演者(世阿弥)であり、また、客は謡曲を実演する演技者の演技を賞翫する見所(観衆)、といえる。換言すれば、能の興行は、謡曲を種とする演者の演技に花をみる現(うつつ)の命の交通の遂行、ともいえよう。能の公演は、謡曲を演ずる主(世阿弥)と、謡曲の実演を鑑賞する客(観衆)との只中の境界における交感和合、といってもよい。しかし、謡曲を演じる主(世阿弥)は、一方で、物語の主人公、夢中の境において客(旅僧)と交感和合する主(里の女・紀有常の娘)でもある。つまり、舞台に立つ演者世阿弥は二つの面影をもつ主、といえる。一つは、物語の主としての面影、いま一つは、公演の主としての面影、いずれも命の面影、といえる。物語の主としての面影は、表に現れた面影、公演の主としての面影は裏に隠れた面影、ともいえる。舞台に立つ演者の面影は、演じられる者の面影と演じる者の面影、という相反する二つの面影が表裏一体になった事態、すなわち矛盾的自己同一の事態、ともいえる。而して、矛盾的自己同一の事態は、命の法の境界における出来事、といわなければならない。
舞台に立つ演者の顔付きや身なりといった面影は、霊的命の佇まい、某命の生き方や暮らし方、或は、某命の抱えている想いをも示す徴証、ともいえる。就中、能面は某命の情態を最も象徴する面影、といえる。命の法は、心法的に表せば、物即是心∞心即是物の法式からなる。物は事態、また、心は情態、と置き換えれば、命の法は、事態即是情態∞情態即是事態の法式からなる。事態と情態とは、意としての命の基の働きである可能態が、自らを
命の法における出来事、若しくは物事は、事態、無量の命自らの映し、すなわち、心象(image)ともいえる無量の命の面影、といってもよい。この見識を敷衍するならば、事物(広義の言葉)も、無量の命自らの映し、すなわち面影、といえる。更に、また、言語(狭義の言葉)も、有量の命自らの映し、すなわち面影、といえる。
命の法の境界、只中の間は、事態と情態とが、及び事態と事態とが、絡み合い相即する統一的生成の間、ともいえる。只中の間における事態と情態との関係、及び事態と事態との関係は、汝と私との関係、或は、客と主との関係、とも見ることもできる。その関係は、命の法の法理、矛盾的自己同一の法理の基にある。すなわち、客と主との関係で見るならば、客は主でない主、同時に、主は客ではない客、の矛盾的自己同一の関係においてある。また、汝と私との関係でみれば、汝は私ではない私、同時に、私は汝ではない汝、の矛盾的自己同一の関係においてある。世阿弥能の公演の時空間の構造を究明するには、斯様な非合理的論理の認識が不可欠、と言わざるを得ない。
結局、能の演者世阿弥は、只中の命、いま・ここの生霊、己の身体に穿たれた無数の孔から憧憬(アクガル)出でて、只中の境に滞在する自覚的芸道者に他ならない。此の積極的情態にある命(主)の交感相手は、一つは観衆(客)、今一つは謡曲の主人公(客としてのシテ)、と見なければならない。
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