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自覚者達の芸道 23

島 青櫻

 改めて問えば、自覚者芭蕉の心眼を通して心中に映る景は、如何なる趣を持ったものなのか。

 自覚者の意識に開かれる情景は、物事の風景と、それを包み込む背景とが一如になった光景、といえる。いわゆる不易流行の範疇でいえば、風景は流行相、背景は不易相、ともいえる。つまり、光景とは流行相と不易相とが一如である景、仏教が謂う実相であり、純粋な真事の景色、ともいえる。この風景(真事)と背景(真理)とが一枚になった光景は、いうなれば、祝祭——真理的霊性と真事的霊性との永遠の往還的交感和合、気息に喩えれば、理の気息と事の気息との呼応的交感和合の営為——の中心、若しくは只中における趣、ともいえよう。それは、私意を離れ誠意に至った意識、すなわち自覚者の意識裡に開かれる絶対的な間における出来事、ともいえる。この場合、祝祭における営為は、いうなれば、不易の霊性、いわば造化としての自然法爾と、流行の霊性、いわば森羅万象としての自然物との相互交感(ディアローグ)、或いは神話(ミュトス)、ともいえよう。

 民間伝承、ことに民間説話は民族のアイデンティティの物語、根拠の間に依拠する先祖の人々の心情の言伝て、ともいえる。「もともと神話の母胎は民間信仰と習俗」(呉茂一)、換言すれば、人間の力を超越した不可思議な力の働きの存在としての神を認めていた時期、人間の心に雷の如くおとった言伝てを語った物語、言い直せば、神話の本来は、神乃至は神々と人間との対話、祈りの語らい、ともいえる。

 自覚者の心眼の眼差しに映る景色は、出来事としての現象からなる際限の有る風景と諸々の現象を包み込む際限の無い背景とが相即する光景、ともいえる。此の際限の無い背景は、無自覚者の肉眼の眼差しには映っていても映らなかったところの景、自己や他己の存立根拠の様相、或いは自然の法性の現前態、といってもよい。其れは、目には見えない透明な余白の光であり、耳には聞こえない静寂な余韻の響、といってもよい。この場合、光は自覚者の知覚的働きが捉える明かりであり、響は自覚者の情覚的働きが捉える音声、ともいえよう。背景は、この光と響とが相即する自然の霊的働きの様相、ともいえる。而して風景、すなわち際限の無い背景における目にみえるもの(色・形)は光の反映であり、耳に聞こえるもの(音・声)は響の反響、といってもよい。此の際限の無い背景と際限の有る風景とが一如になった光景こそが、私意を離れ誠意に至った自覚者の眼差しに映る景色に他ならない。いうなれば、祝祭の只中の拡がり、不易流行の開示、といってもよい。

 更に、光景(Anblick)と透間(Fuge)という観点から景色の様相を捉えることもできる。

 風景と背景とが重畳する光景の光明は、際限の有る物事が発する光、例えば、銀河や太陽が発する光、或いは地球や月の反射の光等の光、といえる。これらの光は、風景における風光、ともいえよう。

 背景それ自体は、光を覆蔵するとともに光を包み込む無疆の様相、いうなれば、有相の白色(光)と対極する無相の黒色(玄)、若しくは、際限の有る白明に対極する際限の無い暗黒、といってもよい。然して、白明と暗黒とが相即する理事無碍界の絶対的様相は、有疆と無疆とが相依相属する関係を可能ならしめている無色透明の純粋な透間、つまり根拠としての真の法理の間、可能性を秘めた沈黙の間、悠久の時の間、といってもよい。

 地球における二様の光景、昼間の光景と夜間の光景を透間の観点から言えば、昼間の光景は有相の風景の光明が優れる透間の様相、一方、夜間の光景は無相の背景の暗黒が優れる透間の様相、ともいえよう。

 更にまた、風景と背景を時としての透間の観点から言えば、風景はいまここの現在時間における透間の様相、また、背景は経歴の堆積時間における透間の様相、然らば、光景は風景の現在時間と背景の堆積時間とが重畳する時の透間の様相、ともいえよう。

 無自覚者の依拠する境域は、自らの根拠である自然の法理を喪失した不安定で落ち着きのない在所とすれば、自覚者の依拠する境域は、自らの根拠である自然の法理の只中であり、本来の境域に帰郷したことによる安らぎと祝福に充ちた永遠の在所、といってもよいだろう。

 自覚者の眼差しと想いに開かれる絶対的な光景を本質的に観るとき、以下のような特徴を挙げることができる。

 1. 彼岸も此岸もない、若しくは彼岸と此岸とが一如である一元性の境域の開示。

 2. 過去も未来も今・此の現在に一緒にある一元性の間の開示。

 3. 風景を形成する事物相互が矛盾的な同一関係にある一元性の場所の開示。此処では、自己は他己ではない他己であり、同時に、他己は自己ではない自己である間柄、言い直せば、矛盾的自己同一にある他己と自己との差異は宿命の相異、ともいえる。

 4. 見られるものとしての事象と見るものとしての認識とは相即関係、すなわち、同一における差異の間柄にある一元性の場所の開示。換言すれば、表現されるものとしての言語と表現するものとしての意味とは同一の差異にある一元性の場所の開示、ともいえる。[序でにいえば、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム一元論の根拠は此処にある。]

 5. 球体のごとく、出発点と当着点とが同一である一元性の円環的な場所の開示。

 6. 季節のごとく、周期的・循環的・螺旋的に推移する一元性の場所の開示。

 7. 進化と深化と新化と真化と信化とが同一における変化である一元性の場所の開示。

 総じて言えば、自覚者の眼差しと想いに開かれる絶対的光景の本質は、無常的なものと恒常的なものといった、根元では同一である対極的且つ矛盾的な事柄が、互いに絡み合いつつ相即する無疆の境域の現前、生成の間の開示、といえる。

 自覚の本質的光景は、理と事の範疇視点、すなわち背景としての自然の法理を理、風景としての自然の物事を事とする観点から言えば、根拠としての自然宇宙の法理――事即理∞理即事――が現前している情況、ともいえる。換言すれば、法理の在所(Anwesen)は、自覚者自身が其処に事として居合わせていること(Anwesenheit)ということを示唆しており、其れは法理の働きの発起の中心にあることを意味するとともに、自己は法理の只中にあることを意味している。端的に言えば、事としての自己は自然の法理の渦中にあることを意味している。自然の法理は自覚者の誠意において発起する理法、其れは人間の能力を凌駕超越した自然宇宙の根本の法理に他ならない。一方、無自覚者の私意において働く理法は分別知であり、其れは私意という孤立的存在者の意識裡に働く恣意的な理法、それは自然の法理を閑却した人間の内に働く疑似の理法、といってもよい。

 自覚の光景に現前している真の法理、すなわち自然の法理を列記された光景の本質的特徴を直接観照するとき、以下の三つの理法がみえてくる。[注記:法理は本質的法、理法は属性的法を指示する措辞]

 A・自己開示の理法………見られるものとしての事象と、見るものとしての認識とが相互に向き合い照らし合う交感的関係、すなわちノエマ面とノエシス面とが直接映し合う法は、一元性の生成の間における自己自身の身心を直接映す法であり、端的に、自覚の理法、若しくは自己開示の理法、とも呼べる。

 B・自己統一の理法………恒常的なものと無常的なものといった矛盾的な事柄が根本のところで同一である法、或いは、自己と他己といった矛盾的な関係が根本のところで一緒である法は、一元性の絶対的生成の間における自己自身を統一する法であり、端的に、自己統一の理法、とも呼べる。

 C・自己形成の理法………不易における流行、すなわち円環的な一元性の恒常的境域における周期的・循環的・螺旋的に推移する時節的変遷の法、言い直せば、不生不滅の往還的交感を繰り返す法は、未生の可能性を切り開き創造する法、若しくは、進化と深化と新化と真化と信化とが同一である変化を永久に反復する法であり、端的に、自己形成の理法、とも呼べる。

 A,B,Cの理法は、固より無疆の境域において発起する生成的理法であり、三位一体の関係にある。その構造を単純化していえば、法を基とする不易の法と流行の法とが三位一体的に相即する矛盾的自己同一の法、ともいえる。この場合、AとBの理法はアプリオリな発起(性起)における属性的理法であり、Cの理法はアポステオリな発起(縁起)における本質的理法であることからすれば、本質的理法である自己形成の理法が真の法理、ということができる。

 法相宗の性相の法理念は、般若心経の色即是空∞空即是色の法理念と並ぶ東洋的叡智の核心、仏教における自覚者の誠意によって覚悟された自然宇宙の真の法理、西洋の私意に基づく思惟、すなわち物質を基軸とする自然科学のロゴスの合理的理法では決して会得することができなかった非合理の法理、何れの仏法も法理も心情を基軸とする当為の法理念、といえる。根拠としての真の理法、すなわち自然の法理の仕組を今一度、法相哲学の性相の範疇を手掛かりにして確認すれば、次の通りにある。

 性相の法理の仕組は、一心とも呼べる識を基とする様態の異なる二つの要素、理性りしょう事相じそうとが絡み合い相即する三位一体の結構、と観ることができる。理性は法身の範疇で言えば法性法身、いわば不易の要素、一方、事相は法身の範疇で言えば方便法身、いわば流行の要素、二要素の基である識は法身の範疇で言えば法身そのもの、法性そのもの、ともいえる。三位一体の基である法性を真の霊性、すなわち真の心と読み替えるとき、流行相ともいえる方便法身は、真事的霊性、すなわち真事としての真の心、また不易相ともいえる事相は真理的霊性、すなわち真理としての真の心と読み替えることができる。言い直せば、事としての真事的霊性である真事の心は道理における自覚的実存の心、また理としての真理的霊性である真理の心は法理における根拠の心、ともいえる。端的に換言すれば、真事的霊性は自覚的実存の意識作用、真理的霊性は本源的存在の意識作用、と観ることもできる。法相宗の性と相の範疇を理と事の範疇と読み替えその関係を観るとき、理と事との境界においては理即事∞事即理の理事無碍の関係にあり、また、事ととの境界においては事即即事の事無碍の関係にある。

 真の法理の仕組(法式)は、真の心を基とする自覚的実存の真事の心と本源的存在の真理の心とが絡み合い相即する三位一体の理法からなる結構、といえる。而して、この真の法理の仕組から乖離する無自覚的実存の意識作用が芭蕉のいう私意、といってよい。

 自覚の光景は、真の法理を本質とする拡がり、といえる。風景としての真事と、背景としての真理との矛盾的統一からなる光景は、真事と真理の基である法、すなわち真の法理の創出する景であり、それは同時に、私意を離れ誠意に帰依した自覚者の眼差しに映る景でもある。基としての真の心は、まったく実体を持たない無疆の生命的働き、といってもよい。その自性は、いうなれば、虚無的可能態、ともいえる。この観点からいえば、自覚の光景は、虚無的可能態自らの理に基づいて構成した虚構の間、ともいえよう。このとき、虚構の景を構成する風景としての事象は流行相、虚無的可能態が創作表現した作品、広義の言語、ともいえる。また、背景をなす透明な光と静寂な響とは、虚無的可能態の自性の顕われ、不易相、ともいえる。

 畢竟するに、自覚の光景は、流行相、いわば虚無的可能態の身としての実態と、不易相、いわば虚無的可能態の心としての虚態とが矛盾的に絡み合いつつ相即統一する虚構の間、ともいえる。言い直せば、光景は、背景としての不易相と風景としての流行相といった矛盾的な相が、相互に絡み合いながら千変万化するダイナミックな景、ともいえる。この時、流行相は物事相互が相互に相即する有限性の境界における景、といえる。また、不易相は物事と対極する物事が依拠する無限性の境界における景、といえる。光景は、この二相の景が重畳相即する重層構造からなる地平に他ならない。

 自覚の光景は、私意を離れ誠意に至った自覚者の眼差しに映る景色、といえる。言い直せば、風景としての真事と、背景としての真理とが一枚になった光景は、誠意における心象(Image)、ともいえる。其の心象は、私意の相対的立場における間接的な心象ではなく、絶対的な立場における直接的な心象、直観が直接捉える心象、といえる。真の自覚を得た時に自ずと発現する自覚者の誠意ということからいえば、覚醒の直観、或いは真を悟覚する直覚における心象、ともいえよう。

 私意の肉眼が捉える光景は、背景としての根拠が不在の、風景としての物事のみの景、感覚や知覚が捉える実体的景色、いわば現実的世界、ともいえる。したがって、私意の言語創作としての表現は肉眼が捉えた世界を言語へ移した現実的世界の表現、ともいえる。私意が表現した現実の世界は、感覚できるもの、知覚できるもの、其処には感覚できないもの、知覚できないもの、すなわち非現実的なものは見当たらない。

 物事を齎し可能ならしめている本来的なもの、物事が依拠する根拠、いわば想い、或いは心情ともいえるものの働きは、目には見えないもの、耳には聞こえないもの、非感覚的なもの、限りの無いもの、非現実的なもの、ともいえる。

 誠意の心眼が捉える光景は、風景と背景とが重畳した一如の景、いわば、現実的世界を非現実的世界が包含する景、といえる。誠意の言語創作としての表現は、心眼が捉えた世界を言語へ移した現実的世界を非現実的世界が包含する世界の表現、端的に言い直せば、非現実的世界の現実的表現、といってもよい。

 真の自覚を得た自覚者の常態における心情は、絶対的な立場における直接的な心情、すなわち直観における想い、ともいえる。それは真の法理に即した真事の想いであり、常に働く正しい心構えということからいえば、正覚の想い、ともいえる。自覚者の平生の観想と行為における想い、当為の想い、ともいえる。それは既に述べたごとく、理的霊性と事的霊性との、或いは事的霊性相互の永遠の往還的交感和合、気息に喩えれば、吸息と呼息との相互呼応的交感、すなわち祝祭の只中における真心、真の根本情緒の中心に開かれた誠の想い、といってもよい。

 直観における覚醒は、自己の所在に気付く時に働く心情、いわば、真の理法が性起する時に作用する想い、ともいえる。言い直せば、私意を離れて真の法理の在所に帰入し覚悟を得る過程での想い、ともいえよう。芭蕉の口吻をもっていえば、「心を正しくして俗を離れる」方位における心情、ともいえる。一方、正覚を得た自覚者の平生に働く想い、いわば、真の法理の縁起における想い、ともいえる。或いは、誠意を得た自覚者が真の在所に帰還し覚悟を実践する過程での想い、ともいえる。同じく芭蕉の口吻をもっていえば、「高く心を悟りて俗に帰る」方位における心情、ともいえよう。

 私意を離れた自覚者としての自己は、無の一物とも呼べる真の法理に即した真事の自己、その想いは真理に即した誠意、といえる。真理と真事とは、絶対的な無疆における矛盾的な自己同一の関係にある。此処からいえることは、真理は一元性の絶対的統一体、すなわち唯一であるが故に、絶対的統一体としての真理に相即する絶対的真事としての自覚者は、やはり、世界で唯一の存在者、ということができる。何故にか。

 絶対的統一体としての真理が一切的唯一性(Einheit)であるとすれば、唯一なる真事としての存在者は一切的唯一性における一箇的唯一性、ともいえる。すなわち、一切的唯一性である真理と一箇的唯一性である真事とは、矛盾的自己同一の関係にある。端的に言えば、真理的唯一性は一つの無であるが、真事的唯一性は無の一つである、ということになる。一つの無と無の一つとは無疆における無の差異、言い直せば、一つの無と無の一つとは無疆の性起における二分岐の要素、すなわち絶対矛盾的自己同一における要素、つまり矛盾する唯一性の要素、といってよい。

 然らば、真事の唯一性同士の相異は、何処にあるのか。無の一つの唯一性は、無数の無の一つの唯一性、といえる。事事無碍界で唯一なる真事相互の関係、すなわち自己としての真事と他己としての真事とは、真事的唯一性の境域である事事無碍界にあっては、やはり、絶対的な矛盾的自己同一の唯一性の間柄にある、と観ることができる。其処では、自己は他己ではない他己であり、同時に、他己は自己ではない自己である間柄、すなわち無の一つにおける差異、言い直せば、無の一つの差異における同一の関係にある。それ故に、自己も他己も、真理的唯一性の境域である理事無碍界においても、真事の唯一性の存在者としてある、と観ることができる。この場合、自己と他己との差異は、時空的、歴運的な宿命の相異であることからすれば、自己も他己も己の宿命における唯一の存在者、本来的存在者、真事の存在者、ともいえる。

 自然宇宙において唯一なる真事としての自覚者、その想いはまさに唯一独自的であり、その行為もまた唯一独自的であり、従って、その営為によって作りだされた広義の言葉である作品は唯一独創性に基づく作品、といえる。すなわち、此処に謂う独創性(Originalität)は、絶対的統一体(absoluten Einheit)における創造性を指示している。

 自覚者の営為は、真の法理に即した道理の実践、すなわち本来の自己における当為、といえる。この場合、本来の自己とは、自己同一性(Identität)における真事の自己の謂、と聞いてもよい。繰り返し言えば、誠意としての自己の実存は真の法理が創始した命運の独自者であり、その創意も創造も真の独創、といえる。言い直せば、真の独創力は、非本来的自己の私意に基づく偏頗な想いを放棄したときに始めて発起する絶対的統一体における自己同一性の創造力、といってもよい。

3―――詩の仕組

 自然宇宙の法理、法式で示せばA即非A∞非A即A、西田幾多郎的に言えば、絶対矛盾的自己同一の呼応法式、ハイデッガー的に言えば、同一性における差異の相依相属の法式、「同一性とは相異なるものが同じ一つのものの内に於いて相依相属することを意味し、一層判断し言えば、相異るものが同じ一つのものを根拠にして相互に属し合うことを意味する」(ハイデッガー)のであれば、自然宇宙を根拠とする真の法理は根拠律(der Satz vom Grund)、ともいえよう。自然宇宙の法理は詩作の理法、或いは仏教をはじめ東洋的思惟の理法は、自然宇宙の法理が包含する属性の理法であり、その基本的法式は、本質的法理である自然宇宙の法理の法式と同一の法式からなる。その法式の特質を簡単に言えば、心情を基とする真の自己を形成する当為の法式、といってもよい。

 仏教、道教、儒教といった東洋の宗教が説く自然宇宙の法理は、正義や善、或いは道徳といった心身共々、人の行うべき真正な道理、心情を基軸とする当為の法則、といってもよい。自然科学の物質を基軸とする法則とは根本的に異なる法理、といえる。

 詩的経験は自覚的実存の他己との交感和合の経験、真の法理における真事の経験、ともいえる。言い換えれば、詩的経験は、一元性の在所におけるいまここ、すなわち絶対的な水平性の時ともいえる空間と、垂直性の時ともいえる時間の交点における、他己としての汝と自己としての私との交感和合、いわば邂逅における挨拶ともいえる汝と私との玉響たまゆらの呼応的対話行為、といってもよい。この場合、呼掛けるものは心象としての汝若しくは私であり、呼掛けに応えるものは心情としての私若しくは汝、といえる。言い直せば、心象としての汝若しくは私の呼掛けに応える心情としての私若しくは汝の行為は、呼吸に喩えれば、相手の吹いた呼息に息を合わせる吸息、いうなれば相手の息を吸い込む営み、ともいえる。

 人が逝くことを息を引き取るという措辞があるように、息を吸い込む行為は往く営み、ともいえる。また、人が生き返ることを息を吹き返すという措辞があるように、生まれることは息を吹き返す営み、ともいえる。斯様な見地にたてば、自覚的実存の詩的経験は、汝若しくは私の吹き掛けた呼息をいったん吸い込み、然る後、私若しくは汝の息を吹き返すことによる直接的接触、いわば、身体の呼吸を通しての気息交換、すなわち心情の交感和合、といってもよい。

 身体的呼吸は、個別的生命の身体における息の遣り取り、身体即心体∞心体即身体における身体の働きの行き帰りとしての往還作用、ともいえる。一方、心体的呼応は、個別的生命同士、或は、個別的小生命と全体的大生命との気息の遣り取り、身体即心体∞心体即身体における心体の働きの行き帰りとしての往還作用、ともいえる。言い直せば、身体性の呼吸は行きて帰る身態の働きであるとすれば、心体性の呼応は行きて帰る心態の働き、ともいえる。呼吸と呼応、いずれの往還作用も一元性の在所における生命体相互の息合わせの営み、直接的接触の体験であり、直接的感受の経験、すなわち真の法理の実践、本質的に、自己形成の営為、といえよう。

 更に言えば、詩的経験における気息の交換、つまり心情の交感を、先にみた情景をながめ歌をながむ自覚者の想いの情態と照らし合わせるならば、眺む行為は心象としての汝の呼息を吸い込む行為、また詠む行為は吸い込んだ汝の呼息への私の心情としての応息を汝に吹き返す行為、ともいえる。この場合、心象の呼息は反響の言葉、いわば眺む時の言葉、また心情の応息は共鳴の言葉、いわば詠む時の言葉、ともいえよう。言い直せば、ながむとながむは、詩的経験における一連の詩作行為、といえよう。

 作品としての詩は、詩的経験における心象と心情を言語へ移行した表現、といってもよい。芸術的創作一般における詩的経験の表現は、本質的に、広義の言語、といえる。詩的経験における私の心情的想いである詩想は、汝としての事象を想う精神性の作用、つまり想像力とすれば、詩的経験の内容を言語に転換し移行する詩作行為は、詩的経験を実現する身体性の作用、つまり創造力、ともいえる。すなわち、真の詩作行為は、自覚的実存の精神性の想像力に即した身体性の創造力による言語生成行為、といってもよい。


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