自覚者達の芸道 17
島 青櫻
山川草木、鳥獣虫魚、みな霊的命、といえる。また、人間も霊的命のひとつ、といえる。霊的命は、本来無自覚の命、ともいえる。無分別の境位において己を超えた自然のはたらき、すなわち無量の命の働きに繰られる無明の命である。妄執に生きる物狂いの女、紀有常の娘も、無量の命の間に死霊となって彷徨う無明の霊的命、といってもよい。無量の命の間に死霊となって彷徨う無明の霊的命は、阿弥陀如来世阿弥の智慧と慈悲によって、すなわち仏法の働きに基づく演技によって真(まこと)にうつされる時、はじめて無明の命から解放され、真の自己成就を果たす、ということもできる。
舞台に立ち、能を演じる世阿弥は、救済させる者としての主(自覚者)と、救済される者としての主(無自覚者)でもある。言い直せば、他己を成仏させる命であるとともに、自己を成仏させる命、ともいえる。而して、世阿弥の能は、仏法に基づく救済の営為、ということができる。
世阿弥の阿弥陀号は、浄土系の仏教思想に由来する。仏法の会得は往行的修行、また、仏法の実践は還行的修行、といえる。世阿弥の往行的修行、すなわち仏法の会得は禅的思想による知的営みであるが、還行的修行、すなわち仏法の実践は浄土的思想による情的営み、といってもよい。禅的思想は知(智慧)に傾向した経に基づき、浄土的思想は情(慈悲)に傾向した経に基づく、といってもよい。世阿弥の伝書は、禅的思想による作品であり、また、世阿弥の謡曲は浄土的思想による作品、ともいえよう。しかしながら、伝書と謡曲、いずれの作品も、仏法を基にしたものであり、その本質は同一、とみなければならない。
能における世阿弥の美的理念は、花と幽玄、といえる。花と幽玄は、能の謡舞を実践するときに顕れ出る美、といってもよい。然らば、芸道としての能の意義は、無量の命の意向的能きとしての働きであり、その本質は霊的命の救済にあるとする時、霊的命の救済と美とは、如何様な関連があるのか。救済されるということは、成仏することにある。成仏することは、仏法に基づけられるということにある。仏法に基づけられるということは、三位一体の知・情・意の働きである無量の命の法理に即するということにある。三位一体の知・情・意の働きである無量の命の法理に即するということは、霊的命が、三位一体の真・美・善の道理の基にあるということにある。
然して、物狂や風狂にある霊的命の営みは、能の実践により仏法に基づけられることによって、仏法に則した当為となる、ということもできる。能における世阿弥の美的理念である花と幽玄は、仏法に則した当為、正にあるべき営み、正になすべき営みに顕現する心情の様態、ともいえる。花は、身際に現れる佇まいの美、姿・形のある空間性の美、空間における
世阿弥の能は、自作の謡曲に基づき、舞台の上で、二曲(歌・舞)と三体(老体・女体・軍体)実演する、本質的に演劇芸、といえる。それは、台詞(狂言)と謡と舞によって、物語の登場人物(霊的命)の感情や意向的想いを表現する総合芸能の仕業、ともいえる。謡曲は一種の戯曲、筋書きのある脚本、若しくは台本、といえる。能は筋書きに沿って上演される芸事、という側面からみれば、いわば、非即興的芸事、ともいえる。この場合、能を演じる演者(主)と、能を鑑賞する観衆(客)との交感は、筋書きに沿った演技、言い換えれば、言語としての謡舞を介して実行され、主と客、相互の真の命の実現と、更なる自己生成を遂げる機会となる、とみなければならない。
能は、予め用意された謡曲の筋書きに沿って実践する芸事、いわば、非即興的芸事、ともいえる。それに対し、和歌・連歌・絵・茶・俳諧等は、形式や進行上の約束はあっても、予め用意された筋書きのない座興、すなわち当座における即興的芸事、といってもよい。即興芸における主と客との交感和合は、いわば、挨拶、一期一会の偶然の出会いにおける呼応、といってもよい。言い直せば、即興芸における主と客との命の触合いは、主乃至客の呼掛けの詞(作品)に応える客乃至主の詞(作品)による対話であり、その対話を通して主客相互の命は、真の命の実現と、更なる自己生成を遂げる事行、とみなければならない。
然しながら、非即興芸である能における対話、いわば、必然的詞を介する主と客との交感和合と、即興芸である和歌・連歌・絵・茶・俳諧等における対話、いわば、偶然的詞を介する主と客との交感和合とは、何れも言語(作品)を仲介とする、主と客との交感和合である、という点では同一、といえよう。能における交感和合は、ある謡曲の二曲三体をするひとりの演技者(主)と、演技者の二曲三体の公演(作品としての言語)を賞翫する無分別の情態にあるひとりの観衆(客)との、たまさかの出会いにおける営み、といってもよい。言い換えれば、能における主と客との交感和合を仲介する手立ては、謡曲の筋書きにおける詞ではなく、演技者の二曲三体の公演、すなわち、たまさか出合った演技者と無分別の境位にある観衆とが形成する当座における主の二曲三体の演技を介して、主と客との交感和合を遂げる、といってもよい。
斯くして、能は、本来的に、和歌・連歌・絵・茶・俳諧等と同じく、当座における即興の芸事、といってもよい。言い直せば、能は、当座の観客(見所)の動静に即応する即興芸、ということもできる。
世阿弥の著作「風姿花伝第三 問答条々」には、「そもそも申楽を始むるに、当日に臨んで、まづ座敷を見て、吉凶をかねて知ることは、いかなることぞや。」の問いに答えて、「まづその日の庭を見るに、今日は能、よく出で来べき、あしく出で来べき端相あるべし。これ申しがたし。しかれどもおよその料簡をもて見るに、神事、貴人の御前などの申楽に、人群集して、座敷いまだしづまらず。さるほどにいかにもいかにもしづめて、見物衆、申楽を待ちかねて、数万人の心、一同に、おそしと楽屋を見るところに、時を得て出でて、一声をも上ぐれば、やがて座敷も時の調子に移りて、万人の心、為手のふるまひに和合して、しみじみとなれば、何とするも、その日の申楽ははやよし。」と世阿弥は想いを記している。つまり、当座の見所の姿勢、賞翫の目の所在が演技に影響を及ぼし、能の出来不出来を決める、といっているのである。此処にいう座敷、或は庭は、能が上演される舞台と観客席を含めた時空の間を指す。
世阿弥が理想とする能は、仏法、すなわち命の法に基づく芸道にある。その営みは、自己執着を放下し、命の法が働く時空の間に帰依した自覚者の当為、すなわち真の技芸、といえる。命の法における営為の目標は、出会った命相互の交感和合による真の命の成就、及び、更なる自己形成にある。而して、真の技芸が成立するには、交感和合する命相互が命の法の基にあらなくてはならない。言い直せば、演技をする者と演技を鑑賞する者の心の境位が一つでなければならない。すなわち、交感者相互の見識が同じ位にあること、言い直せば、交感者相互が無分別の境位にあることが不可欠な要件、といってもよい。
彼〔世阿弥〕が能の完成のために要求していることは、「花姿玉得の幽舞」を目前に証見するためには、舞う者が、わが姿の「左右前後を分明に安見」することであり、「左右前」はわが目でたやすく見ることができるが、後姿はわが目では見えない。しかも、その「後姿を覚えねば、姿の俗なるところをわきまえず」と言って、わが目では見ることができない後姿を見るにはどうしたら見えるかという問題に絞られてきて、そこで体験的に見いだされたのが、「我見の見」を捨て、「離見の見」で見るという方法だったのである。………そこで彼が見い出したのが、「見所同見の見」である。わが後姿はわが目には見えないが、見所、すなわち観客にはたやすく見える。だから我見の見を捨て、見所と同じ立場に立てば、わが後姿がありありと心に浮かんでくるはずである。………能芸に限らず、われわれの芸術活動において、それが創作活動であろうと、鑑賞活動であろうと、作者なり、鑑賞者なりが、「我見の見」を超えて「離見の見」に立つというようなことができるであろうか。[注記:〔 〕内は筆者記入]
(西尾実『道元と世阿弥』)
世阿弥のいう「我見の見」は分別の見、また、「離見の見」は分別を離れたところの見、すなわち「見所同心の見」、主と客とが矛盾的自己同一の関係にある命の法に基づくところの見、無量の命の只中における無分別の見、つまり、内在的直観の見、ともいえる。世阿弥の能は仏法すなわち命の法に基づく。その上演の境界は、主(事)と客(事)とが直接する事事無碍の一如の間、ともいえる。言い直せば、世阿弥能の上演は、命の法の只中における演技者である主と鑑賞者である客との相互交感和合の経験であり、上演の境界は創造的出来事の間、ともいえる。事事無碍の一如の間における経験は直接経験、直観の目、すなわち心眼による経験、といえる。心眼は、物事を心の外の出来事として見る目ではなく、心の裡の出来事として見る目、といってもよい。
言い直せば、内在的直観の目である心眼は、主観の目であると同時に客観の目である。心眼は、世阿弥のいう「目前心後」の目、といえる。「舞に、目前心後といふことあり。〈目を前に見(つけ)て、心を後に置け〉となり。これは以前申しつる舞智風体の用心なり。見所より見るところの風姿は、わが離見なり。しかればわが眼の見るところは、我見なり。離見の見にはあらず。離見の見にて見るところは、すなはち見所同心の見なり。」(「花鏡」舞声為根)の目、ともいえる。言い直せば、「離見の見」は直観の見、主観の見であると同時に客観の見である見、主客一如の見、すなわち見所同心の見である。離見の見、或は見所同心の見は、道元的禅の見地でいえば、演技者である主体が身心を脱落し、脱落した身心において観取される見、ともいえる。われわれの用語をもっていえば、有の一物の境を放下し、無の一物の境に帰入する時に授かる見、ともいえよう。斯様な見は、禅においては禅定によって、能芸においては稽古によって会得できる見、といってもよい。
瑞風(ずいふう)をことごとく窮めて、すでに至上にて、安く、無風の位 になりて、即座の風体はただ面白きのみにて、見所も妙見に忘じて、さて後心に安見する時、何とも見るも弱きところのなきは、骨風の芸劫の感、何と見るも事の尽きぬは、肉風の芸劫の感、何と見るも幽玄なるは、皮風の芸劫の感にて、離見の見にあらはるるところを思ひ合はせて、皮・肉・骨そろひたる為手なりけるとや申すべき。
(世阿弥「至花道」 皮肉骨事)
斯様な離見の見、見所同心の見を会得した芸位を「即座の風体」、と世阿弥は呼ぶ。即座の風体は、「ただ面白きのみにて、見所も妙見に忘じ」る演劇の境位を指している。それは、「鑑賞者が演技者と一体になって客観すること」、と西尾実はいう。言い換えれば、演技者ばかりではなく、鑑賞者も離見の見、見所同心の見の見をもって創造的出来事の境界、すなわち無量の命の能きの只中に参入し、命の更なる生成を遂げる有量の命の事事無碍の境界における所業、といってもよい。この場合、鑑賞者の見所同心の見は、無分別の境位にあるが故に演技者の離見の見、見所同心の見に基づく演技と即座の風体の妙見から誘発された見、といってもよい。結局、離見の見、見所同心の見は、命の法における成仏者の見に他ならない。
鑑賞者の我見の見を忘却させて、離見の見に至らしめる至上の芸事、無風の位に至った即座の風体は、皮風・肉風・骨風の三つの芸態がそろった至上の位にある風姿、といえる。「芸態に、皮・肉・骨の在所をささば、まづ下地の生得のありて、おのづから上手に出生したる瑞力の見所を、骨とや申すべき。舞歌の習力の満風、見にあらはるるところ、肉とや申すべし。この品々を長じて、安く、美しく、窮まる風姿を皮とや申すべき」、と世阿弥はいう。言い直せば、骨風は、磨きのかかった天性の命の風体、端的にいえば、心態的運び(幽玄)の芸態、ともいえよう。また、肉風は、磨きのかかった舞歌の芸態、端的にいえば、身態的運び(花)、ともいえよう。また、皮風は、安く美しく窮まる表面の芸態、端的にいえば、心態即是身態∞身態即是心態の運び(花即幽玄)、ともいえよう。而して、骨・肉・皮の風体は、見所、すなわち鑑賞者の見に映り、移る演技者の風体、といってもよい。
能の源泉である申楽の濫觴は、「風姿花伝(序)」によれば、神代の日本とも、仏在所の天竺(インド)ともいわれる。その芸事の目的は、神を楽しませる神楽にあるとも、或は、外道者を静める雅楽にあるともいわれる。いずれにしても、その本質は祭礼にあり、能楽のもっとも古い形式といわれる演目『翁』は祭祀としての能の典型、といえる。命の法に基づく芸事を理想とする世阿弥の能も、いわゆる滑稽を旨とする「狂言」の芸事から分岐し、そうした性質を継承したものであることには変わりない。祭礼そのものは、不可思議な、それゆえに畏ろしく、絶大な力をもった隠れた存在である神(無量の命)との交感和合を求める人間の意向を根とする儀式、といっても間違いではない。
祭りは神を満足させるために行われた。そのことは一方では民衆の安心のために行われたということであり、祭りの当事者自身、民衆の代表として、得心の行くまで行なわれなければならなかった行事なのである。ここでは祭りの当事者の中に、演技者としての心裡と神としての心理と、観客としての心理とが未分化のままに包み込まれているということになる。そして更に、祭りの外側に立って、祭りの当事者と同じ気づかわしい心で祭りを見つめている一般民衆の姿を考えることが出来れば、そこにはすでに、予期せられずしてしかも潜在的に初めから存在する観客の姿が、祭りの内にも外にも充満していることになる。
(長尾一雄『能の時間』)
一般的に、理事無碍の境界における神と人との交感和合は祭祀であるとすれば、事事無碍の境界における人と人との交感和合は楽劇である、といえよう。祭祀としての能の時空間は、神(無量の命としての理)と当事者(有量の命としての事)とが絡み合い相即する境界である理事無碍界と、当事者(演技者としての事)と観衆(観客としての事)とが絡み合い相即する境界である事事無碍界とが重畳する永劫の命のダイナミズムの境界、ともいえる。この場合、当事者は、神と自己と観客とが三位一体をなす境界の要の存在、とみることができる。
能の根拠を祭祀と考える時、祭祀の本質は命の法に基づく理と事、及び、事と事との一体的交感和合、つまり命相互の交感和合にある。その交響は、神にとっては本意回帰への本願が成就するところからくる安心であり喜び、といえよう。また、人にとっては本意帰依への祈願が成就するところからくる安心であり喜び、といえよう。この場合、神の本意回帰への本願とは、神が人と本来の関係に立つことを指し、また、人の本意帰依への祈願とは、人が神と本来の関係に立つことを指す。神が人と本来の関係に立つことと、また、人が神と本来の関係に立つこととは、実は、同じ一つの出来事、とみなければならない。すなわち、其は、神と人とが命の法、すなわち、無量の命の可能態(ダイナミズム)の法理に基づくということを意味している、といってもよい。
祭祀としての能は、斯様な出来事が発起する時空の間、ともいえる。その発起は、理事無碍界においては性起であり、また、事事無碍界においては縁起、ともいえる。性起の間は、神と人とが交感和合する祭の境界、といってもよい。また、縁起の間は、人と人とが交感和合する宴の境界、といってもよい。この時、能を演じる当事者は、一つに、謡曲中の神為手、すなわち虚構の間(不易の間)に滞在する神、ともいえよう。二つに、能の演技を通して神と交感和合を遂げる人、すなわち虚構と現実の間(流行の間)に滞在する演技者、ともいえよう。三つに、能の演技を介して客である観衆と交感和合を遂げる人、すなわち現実の間に滞在する観客の主、ともいえよう。
言い直せば、祭祀としての能の演者による命の法の実践は、性起の間と縁起の間において遂行される。神と人との交感和合、すなわち理事無碍界における交感和合は謡曲の性起の間にて実践される。また、人と人との交感和合、すなわち事事無碍界における交感和合は能の縁起の間にて実践される。この神と人との交感和合と、人と人との交感和合の実践の要に在るのが能の当事者、といってもよい。この場合、神(理)と人(当事者としての事)と人(観衆としての事)とは、三位一体の関係にある。言い換えれば、無量の命である神と、有量の命である当事者および観衆は、命の法に基づく本来の命の関係においてある、とみなければならない。
詮ずる所、自覚的芸道者世阿弥の謡曲の演技(作品)を介しての観客との一期一会の交感和合は、命の法に基づく当為、といってもよい。その交感和合の所業の主は世阿弥、客は観衆、芭蕉の口吻をもっていうならば、造化に従い、造化に帰ったところの境界、すなわち、無量の命のダイナミズムの只中での命の生成の営み、詩境の創造、ということもできよう。
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