自覚者達の芸道 14
島 青櫻
覚醒時における狂態は、個別的生命の意識を無分別に外的世界に開いた境界、すなわち無量の命の只中における狂態、いわば、自己解放における狂態、とも呼べる。睡眠時における自己解放は受動的な意識開示であるとすれば、覚醒時時における自己解放は如何なる自己開示であるのか。覚醒時の自己解放は、その意識的境位、すなわち自己認識の程度によって異なる二様の狂態、自覚的狂態と無自覚的狂態とが考えられる。自覚的狂態は風狂、心法と己の命運を覚悟した諦念の命の能動的自己開示における生き様、ともいえる。一方、無自覚的狂態は物狂、心法と己の命運の覚悟を持たない妄執の命の受動的自己開示における生き様、ともいえる。孰れの狂態に共通することは、無分別の情態における意向的想い、すなわち憧憬(アクガル)に基づく狂の経験、ということにある。その経験は、己の心の底から、絶えず噴出する不可思議な霊力に憑き繰られる霊魂における他の霊魂との交感の営み、といえる。この能動的な意識の経験における交感相手の霊魂は、今を生きる生霊ばかりではなく、過去霊としての死霊、或は、未来霊としての未生霊も含まれる。すなわち、能動的な意向的想いである憧憬(アクガル)に基づく狂の経験の境界は、過去と現在と未来とが同時である一元性の間、といえる。言い直せば、憧憬(アクガル)に基づく狂の経験は、現世(うつしよ)と隠世(かくりよ)とが一緒である心法の境での命の営み、といってもよい。
睡眠時の狂態がみる意識現象を夢というならば、覚醒時の狂態がみる意識現象は幻、いわば白昼夢、ともいえよう。夢や幻における現象は、無の一物の意識の内に映る意識の影、いうなれば心象(イメージ)、といってもよい。斯くして、夢における狂態も、風狂や物狂といった幻における狂態も、真の法理の只中に無量の命の繰る働きに随伴し、憧憬(アクガル)出づる有量の命の情態であるという点においては同一の狂態、といえる。
「井筒」に象徴されるごとく、世阿弥の謡曲の作品の多くは物狂、妄執、すなわち見誤った執着による狂態の表現、といえる。その狂態の由来は、偏に、謡曲の主人公の無自覚にある。無明が故の狂態、といってもよい。簡単にいえば、物狂は、無自覚的霊魂の喜怒哀楽の曲舞、ともいえよう。役者としての世阿弥の芸道は、自覚性の憧憬(アクガル)に基づく、やむことなき真の表現の追求にある。然して、その舞台表現は、本質的に、妄執者の狂心と狂体の真を表現する営みにある。端的にいえば、自覚的芸道者による無自覚実存の生き様の真の再現行為、といってもよい。
風狂は、「そぞろ神の物につきて心を狂はせ」(芭蕉)、すなわち憧憬(アクガル)出ずる狂態を指す。先に、中西進によって、世阿弥の物狂との近似性を指摘された芭蕉の風狂は、本質的に、自覚者の狂態、といえる。風狂者の営みは、無自覚的実存を放下し、造化に帰依・帰命したところにおける自己の霊魂(もの)と他己の霊魂(もの)との呼応の交感、その表現としての俳諧は、命の原理に則した真の霊性の再現であると同時に、その営為は真の霊性の創成、言い直せば、成仏の営み、といってもよい。
風狂者の物への執着は、妄執者の執着ではない。いわば、「朝雲暮烟のさま、山水野鳥の声」への執着、すなわち、霊性に出会い、交感を希求する憧憬(アクガル)と、その経験を表現する物としての言語への執着、といえる。物狂における執着は、無明、乃至迷いにおける命の妄執であるとすれば、風狂における執着は、迷いから覚めたところにおける真の命への愛着、とでもいえる。
3―――世阿弥の芸道
日本の芸事の多くは、道における営為、ともいえる。歌道・書道・華道・茶道といった文芸事、或いは、剣道・弓道・柔道といった武芸事、みな道における芸事、といえる。この場合、芸とは真っ当に生き尽くす上での手立て、術といってもよい。すなわち、芸道は、真(まこと)の実現を目標にする営為、といってもよい。
芸術すなわち芸道も、宗教すなわち神道も、真に生死することを目的にする当為、ともいえる。芸道は、もっぱら事事無碍界における諸物(森羅万象)との和合の実現へ向けての宴事の実践であり、また、神道は、もっぱら理事無碍界における神と人との和合の実現へ向けての祭事、ともいえよう。
道の一般的通念は、【①人や事などが往来するための所。通行する所。道路。通路。②目的地に至る途中。③みちのり。距離。④(転じて)人が考えたり行ったりする事柄の条理。道理。⑤特に、儒教・仏教などの特定の教義。⑥道理をわきまえること。分別。⑦手立て。手法。手段。⑧方面。分野。そのむき。⑨足場。踏台。(「広辞苑」)】、とある。
約二千三百年前、中国春秋時代,道家の祖といわれる老子は、宇宙の本体を道(タオ[tào]若しくはダオ[dào])と呼び、その非感覚的働きを、有量の命を通しての無量の命の可能性に満ちた永遠の意向的な生成発展運動、と捉えた。芸道という語句における道とは何か、と尋ねるとき、それは、老子のいう道(ダオ[dào])の意味における自行、言い直せば、無量の命である絶対無に相即する有量の命すなわち無の一物の自覚における修行、と聞き取ることも出来よう。
能における世阿弥の資質は、本質的に、自覚における憧憬(アクガル)にある、といってもよい。其は、西行、宗祇、雪舟、利休、そして芭蕉、といった芸道者に共通する根本資性、といえる。言い換えれば、世阿弥は、求道的自覚者であり、被投的随伴者であり、脱自敵滞在者であり、命運的創造者、といえる。世阿弥の芸道は、斯様な資性が営む芸の道、といえる。凡そ、~道と命名される営みは、一つの条理に思想の根拠をおく実践、といえる。世阿弥の芸の道は、「鎌倉時代の文学は、だいたい、浄土教の影響下の文学である。ところが室町時代以降になると、能にしても、連歌にしても、利休にしても、また芭蕉にしても、みな禅の影響である。禅的文学である。このことは、例えば、能にしても、能のテキストである謡曲は源氏物語や平家物語から題材を採っている関係から、謡曲の思想的根拠は浄土教である。ところが、その謡曲を演出し、演技に当る能役者というものは、その能の稽古も、また能の花と呼ばれる演技も、すべては禅的修行である。」と西尾実が指摘するごとく、禅的仏教に基づく修行的実践、といってもよい。
芸道者としての世阿弥は、三つの顏をもつ。一つには、能の伝書の著者としての顏がある。伝書とは、能の奥儀を論じた著書。「風姿花伝」「至花道」「花鏡」等は、能の極意を記した代表的な伝書、といえる。二つには、謡曲の作者としての顏がある。謡曲は、筋書きのある詞章の謡(うた)、といえる。世阿弥は「高砂」「忠度」「井筒」「恋重荷」等の作品をはじめとする数多くの謡曲を創作した。三つには、能を演じる演者の顏がある。簡単に言い直せば、一つに、思索的理論家の面体、二つに、作詞兼作曲家の面体、三つに、舞踏兼演出家の面体を持つ。この三種の面体は、能という芸道に要求される能力的側面、といってもよい。すなわち、世阿弥は、芸道としての能に求められる能力をすべて兼ね備えていた、といえる。世阿弥における能の大成、とりもなおさず、能における世阿弥の大成の要因は、まさに世阿弥の万能にある、といってもよい。
然して、世阿弥の芸道の本質的究明は、世阿弥が所有する三つの能力的側面、すなわち、思索的理論家の側面、作詞兼作曲家の側面、舞踏兼演出家の側面、を照合し、その底に働く根本的心性を突き止めるのが、順当な手続きに違いない。が、しかし、芸道者としての世阿弥の思想的な基は、禅宗の仏法に拠ることを吾々は先にみてきている。言い換えれば、禅宗の仏法は、世阿弥の芸道の根柢にある本質的心性といえる。すなわち、禅的仏法の解明は、世阿弥の芸道の本質究明の捷径、といえる。世阿弥がもつ三つの顏も、禅的仏法の本質をみることによって鮮明になるものと思える。
道元が中世的なものをなしていると考えられる点は二つある。そのひとつは、………彼の態度が自己のありったけを傾けて、われいかに生きるべきかの問題を取り組んでいる主体的態度である。もうひとつは、われいかに生きるべきかの問題を、あくまで、自己に即して体験的、自覚的に掘り下げて行ったことである。………正法眼蔵九五巻は、源始時代から歌謡・和歌・連歌のような抒情があり、日記・紀行・説話・物語のような叙事があっても、対話・問答による哲学の欠如していたわが国のことばの文化において、このような立場に立って自覚の深さを展開させた詩的真実の誕生であったと見るべきではなかろうか。………正法眼蔵は、彼が開拓し、創造した仏道が新たに独自な詩的表現をとったものであるところに、日本文学史における偉大な詩的散文の創造としてマークされなくてはならない傑作である。
(西尾実『道元と世阿弥』)
道元の仏道の出発点は、人間いかに生きるべきか、といった一般的存在者の立場における普遍的理(万法)を尋ねる問いではなしに、自己いかに生きるべきか、といった固有の存在者の立場における特殊的理(諸法)を尋ねる問いにあった、といってもよい。仏教は仏になる教え、仏法は仏の法理、すなわち一般的に、仏教にいう仏は悟りを得た者といった、ごく普通の存在者を措定している、といえる。この場合、悟りは、仏法を会得することであり、それはまた、自己を超えた存在を知ることによる自己存在の気づき、すなわち自覚、といってもよい。その自覚は、誰彼無しのひと一般における自覚、ともいえる。言い換えれば、その自覚は、鎌倉の世に命を授かり仏道に命を尽す道元、という特殊な命運的な命における自覚ではない。道元の仏道の特異性は、まさに、この命運的命の自覚にある。然して、道元のいう仏は命運的自覚者のことであり、したがって、仏道は、われいかに生きるべきかの問いを発端とする修行、といえる。道元は、斯様な命運的自覚者のことを、「万法に証せられる自己」と呼ぶ。万法とは、「統一体としての、したがって秩序としてのあらゆる物事の意で、諸法が〈あらゆる物事のそれぞれ〉を意味するのに対して、〈あらゆる物事のすべて〉」と西尾は解釈する。われわれの用語に換言していえば、万法は、真理としての無量の命における法、すなわち法理のことであり、また、諸法は、真実としての有量の命における法、すなわち道理、ともいえる。万法と諸法とは、仏法を構成する二つの要素であり、根本のところでは一つである情態の差異、といってもよい。法身のパラダイムでいえば、万法は法性法身における法、また、諸法は方便法身における法、ともいえる。したがって、「万法に証せられる自己」とは、真理に相即する真実としての自覚的実存、すなわち命運的自覚者に他ならない。芭蕉の口吻でいえば、偽りの自己(私意)を離れ、造化に帰り、造化に従う真の自己(誠意)、ともいえる。然らば、万法に証せられる、とは如何なる情態をいうのか。
[「現成公案」の]第一段落は仏道への立場を人間の真実としての自己に見いだし、第二段落はその自己を運び、自己の身心を傾けて修証する仏道への態度は、結局、その自己を忘れ、自己の身心を脱落したところに成立する、万法に証せられる自己に至って、その発展が可能になるとされている。第三段落は、そのようにして展開してくる悟りのありかたを説いて、自己を超えた万法の無限なはたらきにあるとしている。第四段落は、仏道の悟りは自己と万法の一体になった働きであって、それが正伝の仏法そのものであり、それが現実を普遍の真実たらしめ、永遠の真理たらしめると結んでいる。………この四つの段落は、結局、道元の修証における発心・修行・菩提・涅槃の説示にほかならないとともに、その発心・修行は修に、菩提・涅槃は証として受け取られ、………「弁道話」に「すでに修の証なれば証にきわなく、証の修なれば修にはじめなし」とあるように、修は証であり、証は修であるというような統一にも至っている体系であることを考え合わせると、この立場から態度へ、態度から方法へ、方法から極致へというような展開をしめしていることは、いかにも緊密さを加えた、必然的な結晶体を思わせるような機能体系である。〔注記:[ ]内は筆者記入〕
(西尾実『道元と世阿弥』)
『正法眼蔵』の「現成公案」の巻に記された修(発心・修行)とは、身心脱落としての有量の命の営為であり、また、証(菩提・涅槃)とは、脱落身心としての有量の命の営為、といってもよい。「すでに修の証なれば証にきわなく、証の修なれば修にはじめなし」と道元がいうごとく、両営為は、同一における差異の関係、すなわち、修即是証∞証即是修の仏法の法理における相即関係にある営み、といえる。修即是証の身心脱落の行程は、有量の命が無量の命の只中に没入する往行過程であり、また、証即是修の脱落身心の行程は、有量の命が無量の命の只中に出来(しゅつらい)する還行過程、ともいえる。言い直せば、身心脱落は、有量の命が無量の命の只中に没入するときの命の情態(自己否定)であり、また、脱落身心は、有量の命が無量の命の只中に出来するときの命の情態(自己肯定)、ともいえる。この修と証との際限なき往還的生成運動による命の深化・新化・進化・真化が、道元のいう仏道、自分(われ)の真実の道に他ならない。然して、「万法に証せられる自己」とは、真理としての無量の命に諭された自己の意、と聴くことができる。
道元の命運的自覚は、人間一般というような抽象的命の自覚ではない。自己一人というような具体的命の自覚、といってもよい。つまり、自己の宿命の自覚、といってもよい。道元においては、自己の宿命の自覚は仏道に命を尽す宿命の自覚に他ならない。『正法眼蔵』は、命運的自覚者の諸々の命相互の対話的交感の営み、すなわち、修即是証∞証即是修の仏法の実践の中から生み出された一種の文芸作品、いうなれば、無量の命の万法に証せられたところの有量の命の諸法における思索とその言語であり、その文体は命の原理に基づく。命の原理に基づく文体は、本質的に、詩、といってよい。言い直せば、命運的自覚者道元の根本にある情態は、心法に即した命の想い、それは身心を脱落し、脱落した身心における想い、芭蕉の口吻をもっていえば、それは丁度、造化に帰り造化に従ったところの詩情、憧憬(アクガレ)とも、或は狂とも、また、夢ともいえる心法における意向的想い、といってもよい。そして、この想いは、とりもなおさず、われわれが自覚的芸道者と呼んだ主体的命の想い、すなわち詩想(Poesie)に他ならず、その言語(作品)は広義の詩、といってもよい。斯様な事実からいえば、道元は、詩における道元、とも括れる自覚的芸道者のひとりに数え挙げることも許されよう。
世阿弥の芸道の根柢にある本質的心性は、道元と同様、命運的自覚者の根本心性、すなわち、主体的命の想いである詩想に他ならない。主体的命を起点とする道元の仏法と自覚的芸道者の心法とは本質的に同一、とみることができる。すなわち、道元の仏法も、また、世阿弥の心法も、命の原理に基づく法理、つまり、命の法という観点からみれば同一の法に他ならない。仏法は、身即是心∞心即是身の命の法を、仏という身態的側面からみた法、若しくは、方便法身的にみた法、ともいえる。一方、心法は、身即是心∞心即是身の命の法を、まさに心態的側面からみた法、若しくは、法性法身的にみた法、ともいえる。
何にもまして肝要なことは、命の法に基づく身心の営為――道元的にいえば修証の営み、また、世阿弥的にいえば稽古の営み――は、真実即是真理∞真理即是真実の法理に則した当為であるということにある。言い直せば、主体的命の意向的想いは、まさにあるべきこととしての、三位一体の知・情・意の心態的修行であり、それと同時に、意向的想いの表現は、まさになすべきこととしての、三位一体の真・美・善の身態的修行、というところにある。
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