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自覚者達の芸道 10

島 青櫻

 有量の命、すなわち森羅万象は、基である唯一の命、すなわち自然法爾が創始した命、といってもよい。言い直せば、有量の命は、唯一の命の間に出現した唯一の命の分身、或いは分霊、ともいえる。唯一の命とは、基の命をいうのであれば、有量の命と無量の命という対極的命相互は、唯一の命を基とする命の差異、といってもよい。有量の命と無量の命の関係は、有量の命即是無量の命∞無量の命即是有量の命の心法の間柄にある。命そのものの本性は意識、すなわち心の働きであるとすれば、無量の命は、実体をもたない時間性の心の働きであり、また、有量の命は、実体をもつ空間性の心の働き、ともいえる。

 この場合、実体を持たない時間性の心と、実体をもつ空間性の心とは、端的にいえば、意味(こころ)と言語(ことば)との間柄、ともいえる。斯様な観点から、命の在り様を言い直せば、無量の命は、唯一の命の意味であり、また、有量の命は、唯一の命が発した言語、ともいえる。喩えれば、言語は、丁度、空中に湧き出した雲、とでもいえよう。雲は空の雲であるごとく、言語は意味の物象、ともいえる。敷衍するならば、有量の命の内なる心は、有量の命の意味に当たり、また、有量の命を包む実体は言語に当たる、といえよう。斯くして、有量の命が発するいわゆる言葉は、狭義の言語とすれば、唯一の命が発した有量の命は、広義の言語、ともいえる。

 然して、斯様な見識からいえば、心法の時空の間に展開する自然法爾が創出した森羅万象、或は、人間が創出した事物は、すべて言語、ともいえる。いうまでもなく、人間自身、唯一の命が創出した言語、といってもよい。あらゆる出来事を言語と見極めることは、仏法的にいえば、色即是空∞空即是色の色を言語(物)、空を意味(心)と判断することに他ならない。言い直せば、心法を言語の法と読み替えるとき、その言語の文法は、心法の理法に基づく法、ともいえる。すべての事柄を言語と観る真言密教にいう真言とは、斯様な心法に則した言語を指している、といってもよい。真言とは、心法の理法に基づく言語――筆者の著作『詩のアディスィ』では、斯様な言語を詩語と命名した――の名、ともいえる。斯くして、言語は、命と命相互の交感を可能にする手立て、といってもよい。然して、命の交感は、言語を介して成就する、ということができる。

 西行の歌、宗祇の連歌、芭蕉の連句はもとより、雪舟の絵も、また、利休の茶の湯も、すべて言語の作品、といってもよい。心法の時空の間に滞在する有量の命は、言語の作品を介して命相互の交感を遂げる、ということもできる。言語作品を創作し、その作品を介しての交感の営みは、とりもなおさず心法の実践に他ならない。すなわち、有量の命の言語を介する交感の営みは、一つに、更なる自己形成の営みと発展(真化・深化・新化・進化)を果たす営み、といってもよい。また、交感の手立てとする言語は、心法の間に生死する有量の命が創始した作品、有量の命の心の宿り、或は、有量の命の心を守護する住まい、ともいえる。然して、有量の命の言語を介する交感の営みは、二つに、言語という住まいを創ることによって、自らの心を住まいに保全するとともに、更なる命の形成と継続を企てる営み、ということもできよう。

8―――自覚者の根本資質

 当初、予告的に挙げた西行・宗祇・雪舟・利休等の芸道者に共通する資性から名付けた呼び名は、求道的自覚者、被投的随伴者、脱自的滞在者、そして命運的創造者の四つであった。今一度、確認するならば、求道的自覚者とは、修行者、真の法を覚り、法に則した生活を志す資性の持主の呼び名、といえる。また、被投的随伴者とは、風狂者、己を超えたものの働きにとりつかれ、それに繰り動かされる資性の持主の呼び名、といえる。また、脱自的滞在者とは、漂泊者、出会いと交感を求めて命を晒す資質の持主の呼び名、といえる。そして、命運的創造者とは、天性の創造者、己の使命は芸道にありと自覚し、その道に一向(ひたぶる)資性の持主の呼び名、といえる。

 西行・宗祇・雪舟・利休に共通する四つの資性、よくよく鑑みるとき、その底には、四つの資性を一つに束ねる心的傾向、いわば、憧れとも、或は、憧憬ともいえる根本的心性が見えてくる。

 『広辞苑』によれば、【憧れる[文]あこが・る (アクガルの転)①さまよい出る。②物事に心が奪われる。③気をもむ。④思いこがれる。理想として思いを寄せる。】、とある。

 又、『全訳古語辞典』によれば、【憧る(あこがる)魂が身から離れる。うわの空になる。②心ひかれて、落ち着かない。思いこがれる。③居所を出て、浮かれ歩く。さまよい歩く。④仲がしっくりせず離れる。疎遠になる。】、とある。

 又、『日本語「語源」辞典』によれば、【憧れる[意味]理想とするものに心引かれる。[語源]もとは「あくがる」。「かる」は離れる意で、人の体や心が「本来あるべき場所から離れる」意。鎌倉ごろから「心引かれる」意が強くなり、「あこがれる」の形も見えはじめる】、とある。

 「アクガル」のガル、或は、「アコガレル」のガレルは、カル、離れる意、とする『日本語「語源」辞典』の見解は、容易に納得できる。それとともに、カルは、上る、刈る、借る、涸る、駆る、着る、といった同音の動詞を想起することができる。また、アクは、明く、開く、空く、或は、飽く、厭く、倦く、といった類語の動詞を想起することができる。

 一方、「憧る」の名詞「憧憬」は、『広辞苑』によれば、【憧憬(正しくはシヨウケイ)あこがれること。】、とある。

 更に、『漢字源』によれば、「憧憬」の「憧」、及び「憬」の解説は次の様にある。

[字音]ショウ・ドウ・シュ[意読]あこががれる[意味][一]①〔動〕あこがれる(あこがる)。自分の心をむなしくして、ひたすら遠くのものを恋い求める。うっとりと気をとられる。②「憧憧〈ショウショウ〉・〈ドウドウ〉」とは、心中がむなしくて、落ち着かないさま。[二]〔形〕何も知らず愚かなさま。[解字]会意兼形声。「心+(音符)童(つきとる)」で、心中がむなしく筒抜けであること。

[字音]ケイ・キョウ[意読]あこがれる/あこがれ/さとる[意味]①〔動・名〕あこがれる(あこがる)。あこがれ。遠くのすばらしいものを求める。遠くのものにひかれるほのぼのとした心。「憧憬〈ショウケイ〉・〈ドウケイ〉」。②〔動・形〕さとる。それを知って心の中が明るくなる。また、そのさま。「憬然〈ケイゼン〉(すっきりとわかるさま)」。[解字]会意兼形声。景は、明るく大きい光。憬は「心+(音符)景」で、心の中があかるくなること。また、遠い理想を求める明るく大きい気持ち。

 『漢字源』の「憧」、及び「憬」の意味と解字の件は、「アクガル」のアクの意義を示唆している、ともいえる。すなわち、アクは、明く、或は空く、の意であり、更に、開くの意も類推させる。そして、「アクガル」のガルは離るの意とするとき、「アクガル」は、明く離る、空く離る、開く離る、といった意味的読み替えることが出来る。いずれの読み替えも、心の情態と趣きを謂う詞、といってもよい。この場合、離る(カル)は、『全訳古語辞典』によれば、「①(空間的に)離れる。遠ざかる。②(時間的二)間を置く。足が遠のく。③(精神的に)うとくなる。よそよそしくなる。」の意義、とある。古語の離る(カル)は、文語では、離る(ハナル)、口語では、はなれる(離れる・放れる)である。『広辞苑』によれば、はなれる(離れる・放れる)の意義は、「①くっついていたものが解けて分かれる。②遠ざかった位置にある。へだたった所にいる。へだたる。距離をおく。遠ざかる。④関係がなくなる。超越する。かけはなれる。⑤縁が切れる。離縁する。⑥除外した状態になる。⑧《放》拘束された状態などから解放される。のがれる。⑧官職を解かれる。免官になる。仕事をやめる。⑨格子戸などが開かれた状態になる。」とあり、諸々の事物的事情や心的情況をいう、幅広い意義をもった語句、といえよう。

 斯くして、結局のところ、憧憬(アクガルの名詞)は、アク+カルの、二つの動詞的意義が複合重畳した合成語、といえよう。アクは、心の情態を示す語、また、カルは、心の趣きを示す語、つまり、アクガルは、情態の趣き、若しくは、趣きの情態をいう語句、といってもよい。ここにいう趣きとは、面向く心、乃至赴く心、すなわち意向的心の動き(意志)を指し、また、情態とは、知情一如心の動き(想い)を指す。意向の意「憬る」の名詞「憧憬」は、物事の情景に直接触れたときの心的情況、ともいえよう。言い直せば、憧憬の濫觴は、情景を、無心にひたすら眺める経験、ということもできよう。

 一般的に、幼児期の意識の開けは、憧憬の初期の情況、分別を入れぬ直観、無心とも、天性の心ともいえる意識状態、といえる。命という観点にたてば、無量の命の中に開かれた、有量の命の意識開示、といってもよい。しかし、ここには有量の命の自覚は、まだ、ない。うっとりと情景に気をとられ、己自身の存在には気が付いていない。他己と自己との隔たりのない、一如の境における心の開け、という点からいえば、私意の境を免れた心境、言い直せば、分別の境から離れた境における無自覚的意識における憧憬、とでもいえる。

 幼児期の無分別における憧憬は、いわゆる物心が憑くとともに、影を潜め、分別心が意識の中心を占めるようになる。無論、分別心においても憧憬する意識は持ち合わせていないわけではない。いわば、分別的憧憬ともいえる情態の趣きが存在する。一般的に、成人の分別における憧憬は、幼児の無分別における憧憬と同様、そこには、無量の命の中の有量の命、といった自覚はない。分別心とは、専ら、感覚・知覚できる物事のみを捉える認識のはたらき、といってもよい。分別心の認識は、己の外にある認識対象としての客体と、己の内にある認識作用としての主体とが分離した境域における把握に他ならない。すなわち、分別心の境(情景)は、主体と客体といった実体のみからなる境界、といってもよい。命という観点からいえば、有量の命(実体)のみからなる境界、言い直せば、有量の命を包摂する無量の命(非実体)の閑却、または忘却した境界、といってもよい。自覚とは、己は無量の命の中の有量の命であることに気付くことでもあるとすれば、無量の命を閑却した分別心の境には、真の自覚は生じない。そこにあるのは、デカルトのcogito,ergo sum(我思う、故に我あり)の如き、認識主体としての主観の自覚があるのみである。斯くして、分別心における憧憬は、無自覚的主観、つまり私意に基づく情態の趣き、といってもよい。

 然らば、私意における憧憬の実際は、如何なる情態の趣き、或は、趣きの情態をいうのか。私意は無自覚であり、無自覚であるということは、己は無量の命の中の有量の命であることを覚悟していないということであり、それはまた、本当の自分、すなわち、己は無量の命から贈られた、命運を担った唯一無二の命であるということを覚悟していないということに他ならない。すなわち、無自覚の分別心における憧憬は、迷妄の情態の趣き、といってもよい。また、私意における情景は、分別に基づく知情意の意識開示であり、その憧憬は、実体のあるもののみに関心し、実体のないものには関心を示さない、偏向した情態の趣きにある、ともいえよう。端的に言い直せば、分別における無自覚の憧憬(アクガル)は、命の原理、すなわち心法の境を離れたところの情態の趣き、といってもよい。

 鴨長明や吉田兼好、いわゆる隠者、世捨て人の憧憬は、本質的に、心法の境を知らぬ無自覚者の憧憬(アクガル)、といえよう。いわゆる隠者とは、俗世に厭き、俗世の禍を遁れ、僻陬(へきすう)に隠れ住む者をいう。隠者の情態は、無明の心の開け、無量の命を知らない、有量の命の裡に閉塞したところの趣きの情態、「つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」(「徒然草」)、といった兼好の趣きの情態は、有量の命の裡に閉塞し自足するところの幻夢の憧憬、ともいえる。言い直せば、それは、世俗から離れ、また、無量の命の心法のはたらく境からも外れた境界に住む隠遁者の情態の趣き、といってもよい。結局、隠遁者の佇まいは、無自覚者の侘び住まい、といってもよい。

 自覚者の自然法爾への帰依・帰命は、真(まこと)の法理としての仏法、若しくは心法の実践、ともいえる。その発端は、真の自覚を契機とする世界認識のコペルニクス的転回にある。換言すれば、俗対聖、若しくは、世間対出世間といった二元性の世界認識から、俗即聖∞聖即俗といった一元性の世界認識への転換、といってもよい。

 然して、自覚者の芸道は、俗即聖∞聖即俗の真の法理における創造行為、端的にいえば真の法理の実践、といってもよい。その実践は、俗対聖といった分別に基づく思惟、すなわち俗なる境を離れ聖なる境へ逃避する隠遁者の実践とは本質的に異なる実践、いわば、聖俗一如の境に生死する大隠の行為、といってもよい。

 詮ずるに、私意における憧憬は、無自覚者のアクガル、といえる。それは、平常、己の命を包摂する無量の命が見えぬ無明の情態の趣きにある。しかし、儘にして、無明の情態の趣きを揺るがす事態に遭遇することがある。それは、突然の禍であったり、或いは、予期せぬ出来事であったりする。斯様な事態に直面し、心底打ちのめされるとき、人は己を超えた大いなる意向ともいえる働きの存在に気付くとともに、己はそうした姿・形のない無量のはたらきの裡に生かされている儚い命にすぎないことを知ること、といってもよい。すなわち、ひとは、この時、はじめて己を超越する無量の命の存在を知り、また、己はそこに生死する有量の命の一つであることを覚悟する、ともいえる。端的に言い直せば、その経験は、無量の命の存在の覚知であり、同時に、有量の命自身の覚悟、すなわち真(まこと)に目覚め、気付く事に他ならない。然して、この無量の命の存在の覚知と有量の命自身の覚悟の経験を契機として、真理を求め、その道を辿ろうとする心、すなわち菩提心ともいえる無上道心が芽生える、といってもよい。無上道心とは、後で見るごとく、自覚における憧憬(アクガル)の始原的心性、といってもよい。


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