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自覚者達の芸道 22

島 青櫻

今一度、私意とは何かを確認するならば、以下の三つの特徴からなる。

 (a) 私意の認識の方法は、主体という有限的立場から、客体という有限的対象を分別し限定する主観的認識。

 (b) 私意の思惟の方法は、有るもの、すなわち感覚・知覚によって認識可能なものに限った事象的・数量的思惟。

 (c) 私意は自己の在所、すなわち自己が依拠する場所を閑却した意識活動。

 総じて言えば、私意は有限的相対的な立場における分別的対立的認識の意識活動、といえる。

 私意を離れること、すなわち不覚の認識の切断とは、日常的に慣習化した認識の構成を一端中断し、慣習化する以前の状態に保つ営み、といえる。言うなれば、心構えをリセットするための初期化行為、とでもいえる。それは、仏教では、放下、諦念、止観、とも呼ばれる行為と同質の営み、といってもよい。

 (a) の対象的把握の切断は、間接的把握から直接的把握へ認識を向ける契機となる。認識の立場からいえば、有限性の相対的な立場である二元性の場所から、無限性の絶対的な立場である一元性の場所へ移行する可能性をもつ機会となる。

 (b) の事象に執着する認識傾向の切断は、非事象的な事柄へ認識を向けるつ契機となる。すなわち、無執着の境に意識を開く可能性をもつ機会となる。

 (c) の在所の閑却の切断は、自己の立場へ注意を向ける契機となる。すなわち、注意の舳先の向きを変える可能性をもつ切っ掛けとなる。

 (a)、(b)、(c)を切断する行為は一体的に連関した手続き、といえる。就中、(c) の切断行為の徹底による意識の気付きが自覚の契機となる決定的に重要な初期化行為、といってもよい。

 結局、自得、すなわち自覚とは自己の立場、つまりもといとしての根拠に覚醒する営み、といってもよい。言い直せば、真の自覚は自己の根拠を直覚し、根拠における自己の覚醒、といってよい。

 私意を離れ本来の心といってもよい誠意に至る手立ては、自己の根拠と根拠における自己に気付く、すなわち自覚するところにある。有限的実在である自己が依存している在所は、無疆不易の場所――-それは私意の目には見えない透明な光と、私意の耳には聞こえない静寂な響きとからなる在所――に目覚ることが、私意を離れ誠意に至る契機となる。言い直せば、自己を生み出し、自己を加護し、自己を基付け、自己を超越する自然宇宙の法理を覚醒するとき、総じて私意を離れ誠意に至る、といえる。換言すれば、法理に覚醒するとは、法理を直覚すると同時に法理に直接する意識の開け、法理と相即する無の一物の自覚を謂う。

 改めて言えば、芭蕉の自覚の機会ともなった禅の公案は、問答による自己の在所の気付きの手立て、ともいえる。その方法は、応答する相手に分別的理解をもってしては不可能とするような問いを仕掛け、分別的理解を超えた認識、いわば、鈴木大拙のいう無分別の分別の把握、すなわち自覚的直観に至らせしめ真理を覚る、禅学にいう「見性成仏」させる手立て、といってもよい。

 芭蕉の自覚は、仏頂和尚との公案が契機であった、と伝わっている。秋月龍珉の『一日一禅』――中国や日本の公案(禅語)の編纂書――によれば、深川の芭蕉庵を尋ね来た仏頂和尚に、「雨過ぎて青苔潤う」と芭蕉が挨拶したところ、即座に「如何なるか是れ青苔未生以前の仏法」と仏頂の問いが返ってきた、と言い伝えられている。そのとき芭蕉は言下に「蛙飛び込む水の音」と応え見性成仏を得た、と伝えられている。これに似た公案、いわゆる「聞声悟道」は他にもある。師潙山の問い「父母未生以前の自己の面目は如何」に長いこと答えることができなかった香厳和尚は、ある日山中で草木を刈り除いていたとき、竹に当たった小石の音を聞いて豁然と悟った、という。孰れの話に共通するのは、己の在所の覚知、といえる。禅語的にいえば、無位無相の理の覚悟、ともいえる。その気付きの契機内容は、人により様々ではあるが、他の手立てと共通するのは、漠然とした意識、すなわち実存的経験の初期化状態にある意識に突然出来する衝撃的事柄が覚醒の機会となる、といってもよい。

 私意における無自覚的実存の経験と、誠意における自覚的実存の経験を、在所・意識・構造・表現の四つの側面から比較し、その本質を観照すれば、以下の様にある。

(1) 在所 (Anwesen)
実存が依拠する在所の側面から両経験を比較するとき、無自覚的実存の経験の在所は、ノエシスとしての主観とノエマとしての客観とが対立する二元性の相対的場所であり、その立場は間接的且つ相互対立的、といえる。一方、自覚的実存の経験の場所は、主観と客観とが相即する一元性の絶対的場所であり、その立場は直接的且つ相互対向的、といえる。

(2) 意識 (Bewußtsein)
実存の認識の領域の側面から両経験を比較するとき、無自覚的実存の認識は、真の領域から乖離し、自己の意識領域における認識、つまり、真の領域の圏外における認識作用、といえる。一方、自覚的実存の認識は、真の領域に則し、自己の意識領域を脱却した意識活動、つまり、真の領域の圏内における認識作用、といえる。

(3) 構造 (Gefüge)
実存の認識方法の仕組の側面から両経験を比較するとき、無自覚的実存の認識の仕組は、主観としての認識が客観としての対象を他の物事に還元し限定する、固定的且つ静止的な有限性の結構からなる。一方、自覚的実存の認識の仕組は、主観としての認識と客観としての事象が相即する直観の認識、言い直せば、私としての認識と汝としての事象とが相互対話交感し自己を形成する、生成的且つ流動的な無限性の結構からなる。

(4) 表現 (Darstellung)
内容の言語表出の側面から両経験を比較するとき、無自覚的実存の私意による言語表出、また自覚的実存の誠意に即した言語表出は、表出形式は同じ、といる。両経験の表現は、時間性の音声的表現においても、また空間性の文字的表現においても、非連続の連続としての点線的連なりという同様の表出形式、といえる。言い直せば、無自覚的実存の相対的・間接的経験の言語表現も、自覚的実存の絶対的・直接的経験の表現も、同様の形式によって顕現する、といえる。無自覚実存と自覚的実存の言語表現が同一であるのは、人間という実存形式に先天的に賦与された表出方法であるが故に、自覚無自覚に拘わらず、線的な音声や文字、或いは広義の言語である現象(イメージ)の連なりとなって現われてくる、ということもできる。

 しかし、形相的には同様の言語表現にあっても、無自覚実存の言語表現と自覚的実存の言語表現とには、少なからぬ隔たりがある。無自覚実存の言語表現は本質的に間接的な経験内容の模写であり、表現されるものと表現されたものとは同一ではない。一方、自覚的実存の言語表現は本質的に直接的な経験内容の移行転換であり、表現されるものと表現されたものとは同一、といえる。

 構文的側面からみれば、無自覚的実存の構文の本質は、客観的事柄を主観的判断によって他の事柄に還元・限定・陳述する相対的有限性の弁証法に基づく合理的論理に基づく文章構成、=(同等記号)で結合する構文、ともいえる。一方、自覚的実存の構文の本質は、客観的事柄と主観的事柄とが切断すると同時に相即する絶対的無限性の弁証法に基づく矛盾的論理に基づく文章構成、―(同一記号)で結合する構文、ともいえる。

 また、広義の言語の様相的側面からみれば、無自覚的実存の言語は、言語存立の在所、すなわち根拠の様相としての余韻余白が隠蔽する孤立的言語、根拠不在の言語、といえる。一方、自覚的実存の言語は、言語存立の根拠の様相としての余韻余白が背後に現前する和合的言語、根拠における言語、といえる。

 更に、観測側面をずらし、表現された言語を景色として認識する立場からいえば、実存の認識の在り様によって景色の様相は一変する、といってもよい。例えば、音声や文字の点線的連なりとしての言語の様相は、無自覚的実存者の眼差しには余韻・余白といった背景が欠如した風景と映る。一方、自覚的実存者の眼差しには余韻・余白といった背景と一体となった風景と映る。すなわち、同一の景色であっても、それを見る実存の心の在り様によってまったく異質な様相となって映る、といえる。

2―――自覚の光景

 今日も俳聖と仰がれる自覚的芸道者の一人である芭蕉は、如何なる想いを以て物事を眺めていたのだろうか。

 此処に言う想いとは、四六時中、意識裡に開かれる物事への心情を謂う。今も昔も多くの人間は、平常、無意識に分別心を以て物事を想い量る、といってもよい。先にみた如く、分別心とは対立的に物事を見ることを謂う。対象を見る主体である私と対象である客体としての汝は、目には見えない透間によって分け隔たれた実体、といった認識を前提に物事を推し量る私意的意識活動が分別心、人間の先天性の習癖、といってもよい。分別心によって見られる世界は、個々の実体相互は絆を持たぬ孤立した集合体と映る。

 四十歳頃までの芭蕉は、他の俳諧師と同じく分別心をもって物事を眺め章句を成していた。斯様な心境における俳諧の句は、いわゆる月並とも呼ばれる通俗に堕ちた冗語、詩とは程遠い代物、といってもよい。四十歳を過ぎる頃、芭蕉の心境に一大変化が生じる。予てより参禅し修行を続けていた芭蕉の心に天変地異とも言える時機が訪れる。如何なる機会か。分別心では見えなかった物事の真如の姿、実相を映す眼が開けた、といってもよい。

 実相を映す眼とは如何なる眼か。物事を分け隔てていた目には見えない無疆の透間、森羅万象を包含すると同時に滲透する融通無碍なる純粋な透間こそが、流転する万物の成立を可能にしている根拠、いわば万物の住処、換言すれば、この無色透明な透間こそが永遠に万物の生成を可能にする働きを秘めた言泉とでも言える根源であることに気付いた、若しくは覚醒した、といってもよい。この非実体的な根源的働きを芭蕉は造化と呼び、また古池にも喩えた。而して、人間は造化が造り出し、造化に化育されている一物に過ぎない自己の真実を心底自覚する眼を得た、といってもよい。

 芭蕉の自覚は、自己を超えた根源的な働きに覚醒するとともに、自己はこの働きの只中に生死する一つの命に過ぎない事に目覚める、言うなれば、二重のアイデンティティの覚悟、ともいえる。斯様な自覚は、一つに、分別心を離脱する禅定の修行をする時に、いま一つは、人間の能力を超えた突然の事態を目の当たりする時に到来する。その時、自然の摂理に帰還し、それと一如となって生きんとする意向、すなわち「造化に従がひ、造化にかへれとなり」の想いが自ずと訪れる、といってもよい。

 造化に帰依・帰命することは、世界を対立的に見るのではなく、対向的に見ることを意味する。その眼差しは、造化の心と一如になった只中の眼差し、ともいえる。只中の眼差しとは、万物は一中裡の同胞と映る晴れやかに澄み渡った眼の表情、といってもよい。実体的なもののみを見る分別心の眼差しを肉眼と呼ぶならば、実体的なものと非実体的なものを一緒に見る只中の眼差しは心眼、とも呼べる。心眼は、「雨過ぎて青苔潤う」の眼力、言葉としての根拠、つまりまことの様相を映す晴眼こそが芭蕉開眼の眼差しに他ならない。此処で肝要なことは、唯一点、晴眼は自然宇宙の根源の働きに目覚めるとともに、自己の真面目に心底目覚める時、すなわち自覚を以て初めて授かる眼差し、ということに尽きる。

 芭蕉の眼差しは、只中で物と心を一緒に見る心眼、真を映す晴眼ともいえる眼差しは、芭蕉が造化と呼んだ自然宇宙の法理と自己自身の真面目を心底自覚し、造化に帰依・帰命し生きんとする姿勢、私意を離れて無疆の境域に打ち開かれた豊かな心構え、すなわち誠意を持つ者が保つ眼差し、いわば真っ当に生死する命の眼差し、といってもよい。

 誠意に生死する命の境涯における想いには、今此処の経験における感想と、何時か何処かの経験における喚想とがある。感想も喚想も、自覚者の覚醒時に心中裡に映る心象への想い、本質的に言えば、詩想即詩作の行為的直観における詩想、ともいえる。感想も喚想もその眼差しは、まことの様相を映す晴眼であることには変わりがないが、時空間的観点から言うならば、そこには少なからぬ差異がある。感想は、偶然的邂逅を契機とする直面的な眼差しにおける想いであるとすれば、喚想は、回想的内省を契機とする遠望的な眼差しにおける想い、といってもよい。

 今此処の経験における想いである感想の境域は、只中で他所を眺める眼差しに拡がる視界、偶然の邂逅に直面する水平性の時ともいえる空間的視野、主に目の当たりに開ける光景に傾向した眼差しに映る情景、といってもよい。

 一方、何時か何処かの経験における想いである喚想の境域は、只中で自所を眺める眼差しに拡がる視界、遠望的に俯瞰する垂直性の時ともいえる時間的視野、主に回想に開ける光景に傾向した眼差しに映る情景、といってもよい。

 短歌や俳句といった単独の即興句、或いは即興の絵画等は、本来的に、今此処の経験における感想に映る情景の言語への移しであり、その本質は水平性の時ともいえる空間的表現、といえる。また、連歌や連句、紀行文や物語、或いは絵巻等は、本来的に、何時か何処かの経験における内省的喚想、すなわち回想における遠望的眼差しに映った情景の言語への移しであり、その本質は垂直性の時ともいえる時間的表現、ともいえる。

 芭蕉直筆の「野ざらし紀行図巻」は、回想における遠望的眼差しに映った情景の表現、といってもよい。図巻に添えられた発句は、本来的には、直面する眼差しに映った情景の即興句ではあるが、図巻という喚想の表現形式に移されるとき、遠望的眼差しに映った情景の図像といった広義の言語への移しである俯瞰図と一体化した遠望的眼差しに映った情景の句に変容する、ということもできよう。

 序に言えば、蕪村の「奥の細道図巻」は、紀行文「奥の細道」を今此処の経験における感想が捉えた想像上の情景の図像への移し、ともいえよう。それ故に、「奥の細道図巻」その図像は水平性の時ともいえる空間的表現となった、といえよう。

 芭蕉が得た自覚は、仏教にいう無上正覚、或いは無上道心、最上の正しい覚知、この上もない最も優れた正心、誠心、その核心は誠意に齎される真心まごころ、いわば、自然じねんという限りの無い創造的活動が限りの有るものの心に分かち授けた真正な意識活動、といってもよい。

 真心の意識活動は、自然宇宙という無疆の境界における直接経験の意識活動、言い直せば、内在的直観における知・情・意三位一体の意識活動、その活動法式は、A即非A∞非A即A、心法の法式ともいえる根拠の法理の法式、事事無碍界的に表記すれば、汝即私∞私即汝、理事無碍界的に表記すれば、理即事∞事即理の矛盾的統一法式、といってもよい[詳しくは自著「詩のアディスィ」弐巻参照]。

 根拠の法理を簡単に言えば、理事無碍界においては、心という非実体的なものを物という実体的なものに移し、鏡にも喩えられる自己の心に映すことによって自身を覚知する法理、いわば、内省的喚想における自問自答、モノローグの自覚の法理、とでもいえる。其れは西田幾多郎の謂う「もの来たって我を照らす」法理、ともいえよう。斯くしてまことの様相を映す真心の目は心眼、耳は心聞、ということもできよう。

 自然宇宙の言泉の働きに帰命した無の一物ともいえる自覚者の思想、つまり真心の想いを一言で言うならば、詩想、或いは夢想ともいえる詩情(Poesie)、といえよう。この詩情こそが、自然宇宙の根源である言泉の働き、根拠としてのまことの正体、といってもよい。言い直せば、自覚者における詩情は、根源的な働きに帰入融通した自覚者における真の想い、すなわち真心に他ならない。限りの有る人間の命は、限りの無い真の命に帰依・帰命するとき、初めて永遠の命の中に生死する本来の命、真実の命となる、といってもよい。

 限りの無い命であるまことと限りの有る命である真実まこととの関係、すなわち理事無碍における関係は、真即真実∞真実即真の矛盾的同一関係にある。言い直せば、相互の命は相衣相属の間柄にある。真と真実の心情的交感和合は、真実の身体の呼息と吸息を通しての自問自答の気息の呼応、すなわち呼気と吸気の相互交換、若しくは、自問自答的相互対話、モノローグともいえる対話方法で実践される。如何なる限りの有る命も決して逃れることのできぬ真の摂理における関係、といっても間違いではない。

 更に、根拠の法理の実践における仕組み——メビウスの帯の如き二重螺旋をなす往還的呼応の構造[詳しくは自著「詩のアディスィ」弐巻参照]——の側面からみるならば、対向するもの相互が交互に振り回って呼応する感想における対話、理事無碍界においては自問自答の相互対話(モノローグ)の自覚の法式、事事無碍界においては呼即応の交互対話(ディアローグ)の自覚の法式、ということもできる。

 自覚を得た真心の想いである感想及び喚想の本質は、如何なるものなのか。真心は、知・情・意三位一体——法身を基とする方便法身と法性法身の二分岐の仕組みの如く、基を一要素とする対極的二要素の分岐の仕組み——の意識活動、三つの要素(知覚・情覚・意覚)は根底では一つの悟覚、とみなければならない。しかし、知覚・情覚・意覚といった三叉に分岐する悟覚はそれぞれの役割をもつ。知覚は情景をそのまま直接に捉える働き、情覚は情景を眺める時の働き、意覚は情景に憧憬アクガレ趣く意向の働き、その働きの重さは一様ではない。然らば、自覚という意識統一において最も重きをなす本質的悟覚は何か。真心の想いにおいて最も重きをなす本質的悟覚は、情景を眺める。。。。。。想い。。、すなわち心情としての情覚に他ならない。

 何故に、情景を眺める時の想いが最も重きをなす悟覚なのか。詩作は対話行為、言う行為、言すなわち想いを言語(出来事)に移し通すことによる自己形成行為、ともいえる。『広辞苑』によれば、通す(徹す)の本来的語義は、「途中つかえることなく一方から他方まで至らせる」働き、すなわち「①こちら側からあちら側までつきぬく。②道筋などをつける。ゆきわたらせる。③経由する。介する。④すかす。透き通す。⑤あるものをくぐらせ濾す。⑥下痢する。」等の働きを謂うのであれば、移し通す。。。。働きは推移的持続性の働き、端的に換言すれば、の働き、といってもよい。無疆の時(Zeit)の働きは、真心の自己実現を遂行する潜在的可能力、ということもできよう。

 白川静の『字訓』によれば、「ながむ」は「ながむ」と同源の語、ながむは「長く声を引いて情を含めて歌を吟詠することをいい、……無意識に近い状態でものいうことをいう語」、またながむは「遠くをみるような姿勢でぼんやりともの思いにふける状態をいう」語、とある。要するに、ながむ状態は、虚心坦懐における情の籠ったもの思い、ともいえる。言い直せば、真心の想いは心象である情景を眺め歌を詠むときの心情に他ならない。すなわち誠意における眺める行為は情景に浸ることを意味する。浸るとは、自然宇宙の本源の心の内に融け入って一つになるということに他ならない。その眼差しは根底の情が目の表情となって顕れた心眼の眼差し、といってもよい。其れはまた、同時に真を悟る英知の眼差しであり、真に生きんとする意向の眼差し、両眼差しは情覚を根底とする悟覚の眼差し、ともいえよう。端的に言い直せば、自覚者の眺めにおける想いとしての心情の本質は、先にみた晩年の芭蕉の心情の如く、自然宇宙に遍満する慈愛(Barmherzigkeit)と悲哀(Traurigkeit)とが綯交ぜになったの情調(Stimmung)、夢想の詩情(Poesie)、といってもよい。言い直せば、詩情は、自然宇宙の言泉とでもいえる真心、すなわち根拠の想いの本質、といってもよい。詩情は自覚を契機とする心情、見えないものを見ようとするところ、聞こえないものを聞こうとするところ、すなわち万物を化育する在所に芽生える真実の想いであると同時に、真実の想いに移し通し。。。。ての真の想い、といってもよい。


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