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自覚者達の芸道 24

島 青櫻

 自覚的実存の詩的経験には、詩作品の創造者としての詩作における経験と、詩作品の賞翫者としての鑑賞における経験とがある。始末的に言えば、詩作者の詩的経験の表現行為も賞翫者の詩的経験の表現行為も、仕組的にはまったく同一の結構からなる。つまり、詩作者の詩作行為と賞玩者の鑑賞行為とは同一行為、といってもよい。換言すれば、詩作者の詩的経験における汝としての情景と、賞翫者の詩的経験における汝としての作品とは同一の関係にある。試作者の心情に拡がる情景も、また賞翫者の心情に拡がる作品の情景も出来事、言い直せば広義の言語ことばであり、同じ事情にある。また、詩作者の詩的経験における私としての情意は、賞翫者の詩的経験における私としての情意と同じ関係にあり、いずれも真の心の働き、といってもよい。更にまた、詩作者の詩的経験の心情の移行うつしである言語は、賞翫者の詩的経験の移行である言語と同一の関係にある、といってもよい。

 しかしながら、詩作者の詩的経験と鑑賞者の詩的経験とには、経験過程において大きく異なる点がある。詩作者の詩的経験は汝としての森羅万象の情景、すなわち広義の言語ことばとの交感であり、その経験内容は音声や文字の連なり、すなわち狭義の言語である言葉に転換して表現される。一方、鑑賞者の詩的経験は汝としての言語、すなわち狭義の言語である言葉との交感、つまり音声や文字に転換された詩作者との交感、といってもよい。換言すれば、鑑賞者の経験には音声や文字を通して詩作者の経験を復元する過程がある。例えば、芭蕉の発句「山里は萬歳おそし梅の花」を鑑賞する場合、「鑑賞者の享受する心裡においては、〈山里〉から〈梅の花〉まで、言葉が時間的継起の上に置かれている詩的秩序を破壊して、それを同時的に現前せしめようとする試みが、無意識ながら強力に遂行される」(『行きて帰る』山本健吉)過程があることをみなければならない。すなわち、かような過程を経て鑑賞者としての私は詩作者としての汝との心の交感を遂げることを識らなければならない。

 まことにおける作品鑑賞行為は、水平性のときともいえる空間と垂直性のときともいえる時間とのいまここの交点における作品と鑑賞者との呼応的対話、すなわち作品と鑑賞者との心の遣り取りによる交感和合の行為、つまり挨拶を契機とする心の交歓に他ならない。この場合、呼応における呼は作品としての情景であり、また呼応における応は鑑賞としての情意、といえる。鑑賞者の鑑賞行為は、本質的に詩作者の詩作行為と同一の営みであることを識ることは、俳諧の発句の取合や連句の付合の仕組を解明するうえで、最も肝心な見識、といってもよい。

発句の事は行て帰る心のあじはひなり。たとへば、「山里はまん歳遅ざいおそし梅の花」といふたぐひなり。山里は萬歳遅しといひはなして、「梅は咲けり」といふ心のごとくに、行て帰るの心、発句也。「山里は萬歳の遅し」といふばかりのひとへは平句ひらくの位なり。先師も「発句は取合とりあはせ物と知るべし」といへるよし、ある俳書にも侍るなり。「題の中より出る事はたまたまなり。もし出ても、大様おほやうふるし」となり。

[「三冊子」 復本一郎 校注・訳]

 この「くろさうし(わすれみづ)」の冒頭の件は、発句の仕組が本質的に述べられた「三冊子」のなかでも、最も重要な章のひとつ、といってもよい。キーワードは「行て帰る心」、この詞の本意を徹底的に熟慮することがなによりも大事、と識らなければならない。

 生命の生成活動の理法は、身態性におけるものと心態性におけるものとがある。呼吸の理法は身態性における交換の営み、また、呼応は心態性における交感の営み、といってもよい。いずれの営みもまことの法理に則した命の実践、といってよい。改めて繰り返し言えば、呼吸は個別的生命における呼息と吸息という相矛盾する働きが交互に反復する営み、いわば、往行としての吸息と還行としての呼息とが交互に行き帰りして息の遣り取りをする、往還的仕組における身態性における作用、といえる。また、呼応は個別的生命の相互、あるいは個別的生命とそれを包摂する乾坤の大生命とが、一元性の間において交互に交感する、挨拶を契機とする心の目合まぐわい、いわば、往行としての応気と還行としての呼気とが交互に行き帰りして気の遣り取りをする、往還的仕組における心態性における作用、といえる。端的に言い直せば、呼吸は行きて帰る身態性の働きであるとすれば、呼応は行きて帰る心態性の働き、ということができる。この場合、身態性の働きと心態性の働きとは、同一の個別的生命における差異の関係にある。

 しかして、自覚的実存の詩的経験の一般は、心態性における生命の生成活動の営為、すなわち情景としての汝と情意としての私との呼応の交感、「行きて帰る心のあじはひ」の営みに他ならない。

 作品としての詩は、詩的経験を言葉へ転換し移行うつししたもの、ともいえる。すなわち心情の営みである詩的経験は、現実の時空の間に音声や文字の点線的連なりに転換されて表出される。この場合、呼応の範疇で言えば、作品創作者の詩的経験における心情は応、情景は呼に当たる。また、作品創作者の詩的経験と表出された章句とは真の法理における同一の差異ともいえる矛盾的自己同一の関係にある。言い直せば、章句は詩的経験の理法、すなわち真の法理を反映した模範的構文、とみることができる。就中、発句は真の法理を最も純粋且つ単純に反映する範型、といってもよい。

 更に言えば、発句の形式は自覚的実存の意識開示の範型、ともいえる。また、詩的経験における情景としての汝と、情意としての私との呼応的交感の原理を反映する範型、といってもよい。言い換えれば、発句の呼応的交感構造は挨拶の範型、ともいえる。あるいは、響きという側面から言えば、呼応的交感形式は響き合いの形式、ともいえる。それは、呼としての汝の響きと応としての私の響きである反響とが相互に交響する響合、すなわち、行きて帰る心の共鳴、といってもよい。

 例えに挙げた芭蕉の発句「山里は萬歳おそし梅の花」を私と汝との挨拶の観点からみれば、「山里は萬歳おそし」は呼としての汝に応えた私の詞、情意としての心情の表出、といえる。一方、「梅の花」は呼としての汝の詞、情景としての事象の表出、といえる。かくして、発句の仕組は汝としての「梅の花」の呼び掛けに私としての「山里は萬歳おそし」と応えた挨拶、すなわち呼応的交感和合の往還的対話を表出した二句一章のいわゆる取合の構文、ということができる。

 芭蕉の俳諧、すなわち誠の俳諧における発句は、自覚的実存、すなわち私意を離れた心から詠まれた詞、といってもよい。芭蕉の詩的経験は、いわば、森羅万象の祭りの只中における当事者の経験であり、その内実は情景としての汝と情意としての私との心の交歓、といってもよい。祭りという一元性の間においては、汝と私とは個別的に切断し異なる実存であるが、汝と私を包む全体、つまり自然宇宙の祭りの中心においては、一所における一緒の実存として同じである関係、すなわち同一における差異の間柄にある。言い直せば、汝と私との呼応の関係は、一息の呼吸のごとき遣り取りしつつ相即する仕組、すなわち、行きて帰る心の往還運動を形成する本質的要素の間柄にある。

 芭蕉の発句は、この遣り取りしつつ相即する汝と私との邂逅における呼応的交感和合の言語表現、といえる。また、「山里は萬歳の遅しといふばかりのひとへは平句の位なり」の平句とは、汝と私との交感、すなわち呼応的対話における応としての私の情意を述べた句のことを指している。おしなべて、呼応的対話の表現である発句は、汝と私のダイアローグの詞、といってもよい。ダイアローグの詞とは汝、もしくは私の単独のモノローグの詞が呼応的往還関係にある詞、とみることができる。言い直せば、発句は汝と私のモノローグの詞が呼応するダイアローグの詞、といってもよい。あるいは、発句は「モノローグであるとともにダイアローグでもある。(山本健吉)」、ともいえる。平句とはダイアローグの詞を構成するモノローグ、すなわち対話の詞を形成する単独の詞を謂う。かような事実から言えば、交感相手をもたぬ無自覚的実存の発話は、本質的にモノローグ、呟きのごとき独話、といってもよい。

 「発句は取合せ物」の本意は、発句という詩型は造化の境域、すなわち真の法理の間における汝と私との邂逅における呼応的対話の詞章形式、と聞かなければならない。自覚者芭蕉のいう取合せとは、無自覚的実存の対象的認識が捉える、いわゆる二物衝撃といった恣意的な事柄の組合せをいうものでもなく、また、「題の中より出づる事」、すなわち題詠における題目に引き摺られて想起される私意的連想の構成のことでもないことに留意しなければならない。

 連句における脇句は、発句を賞翫する鑑賞者の応答表出、ともいえる。脇の詩的経験の仕組は、先にみたごとく、発句の作者と同一の仕組、すなわち行きて帰る心の往還構造、といってよい。いうなれば、発句の詩作者の心の往還は「行きて帰る心の味ひ」、作者の心の感動の往還、とみることができる。つまり、発句における「行きて帰る心の味ひ」は汝と私との取合における詩作者の情意、といってもよい。一方、鑑賞者の心の往還は「行きて帰るの心の味ひ」、鑑賞者の心の感動の往還、とみることができる。つまり、付句における「行きて帰るの心の味」は、汝と私との付合における鑑賞者の情意、といってもよい。脇句以後のすべての付句は本質的に付合における鑑賞者の往還、といってよい。端的に言えば、発句一般の往還は取合における往還であり、脇句、および脇句以後の付句の往還はすべて付合における往還、といえる。両往還作用は自覚的実存による真の法理の実践であり、その営みはすべて当為、といってもよい。

 われわれは先に、不易流行についての直観的見識を述べた。改めて繰り返し言えば、自然宇宙の根本的働きであるまことの心は恒常性の不易の心、いわば理法と言うならば、自覚者の真実まことの心はまことの心と相即する無常性の流行の心、いわば道理、といえる。この場合、まことの心と真実まことの心とは相即関係、すなわち根本のところでは相互に融通する一体の心の二態の間柄にある、といってもよい。この直観的見識を改めて反省熟慮するならば、不易流行の構造は以下の通りにある。

 一つに、芭蕉の説いた不易流行は、自覚における直接認識が捉えた自然宇宙の根本的仕組を謂う理念、といってもよい。自然宇宙の根本的仕組は、矛盾するものが絡合相即する構造、とみることができる。絡合らくごうとは、ウロボロスの蛇の如き対極するもの相互が絡み合いつつ渦巻くダイナミックな生命的生成運動の構造、いわば相思相愛の愛の仕組、といってもよい。その法式は基においては同一である対極的なものが相互交感的対話を永遠に繰り返す円環構造、とみることができる。例えば、仏教哲学のほっしんの範疇でいえば、法身を基とする方便法身と法性法身との絡合相即構造、ともいえる。あるいは、まことの範疇で言えば、真を基とする真実と真理との絡合相即構造、ともいえる。あるいは、ことわりの範疇で言えば、理を基とする道理としての事の理と、法理としての理の理との絡合相即構造、ともいえる。あるいは、様相の観点から捉えるならば、太虚を基とする不易相としての虚相と、流行相としての実相との絡合相即構造、ともいえる。この場合、先にみたごとく、流行相は生成流転する風景としての森羅万象であり、また、不易相は背景としての無量の霊性的働き、芭蕉の口吻でいえば造化の現れ、ということもできる。

 二つに、芭蕉の説いた不易流行は、自然宇宙の森羅万象を遍く統一する根本理法といってもよい。敷衍して言えば、それは自然宇宙の森羅万象を統一する理法であるばかりではなく、森羅万象の一員である真実の人間が発話し書き記す真の言語ことばの理法——文法、論理、弁証法——ともみることもできる。すなわち、芭蕉の説いた不易流行は、森羅万象を統一する理法であると同時に真の言語ことばの理法、ともいえる。真の言語ことばのことを詩と呼ぶならば、真の言語の理法は詩の理法、ともいえる。あるいは、真の理法は宇宙の根本理法という措辞的対応からいえば、自然宇宙の根本理法は詩の理法、ともいうことができる。更に言えば、自然宇宙の根本理法を詩の理法とするとき、詩という語は二つの意義を持つ。すなわち、一つは真の出来事としての言語(Wort)の意義であり、いま一つは真の出来事を創始する真の心としての詩情(Poesie)の意義を持つ。不易流行の範疇と重ね合わせて言えば、言語は詩の真実的流行相、また詩情は詩の真理的不易相、ということもできよう。

 先にみてきたごとく、自然宇宙の根本理法としての真の法理は、自己開示の理法と自己統一の理法と自己形成の理法の三位一体からなる法理、といえる。ここで、真の法理を言語的観点から洞察すれば次のような対応関係をみることができる。

 見られるものとしての事象と見るものとしての認識とが絡合相即する自己開示の理法は、言語的観点からみるとき、見られるものとしての主語と見るものとしての述語とが絡合相即する詩の構文を構成する文法に相当する、といえる。この事態を敷衍するならば、詩の文法においては、認識としての心と表現としての言語とは同一における差異関係にある、とみることができる。

 また、相矛盾的な要素や事柄が絡合相即する自己統一の理法は、言語的観点からみるとき、言語——詞・詞章――相互の矛盾的統一法、言い直せば言語相互は断絶もしくは切断していると同時に、音声の沈黙もしくは文字の余白において絡合相即する統一法、つまり詩の論理に相当する、といえる。敷衍して言えば、詩の論理は合理的統一ではなく、矛盾的な要素や事柄が相即する非合理的統一、とみることができる。換言すれば、矛盾的な事態が同等(=)の関係ではなく、同一(-)の関係で接続している統一法、といってもよい。

 また、絡合相即する物事相互が往還的対話よって際限なく繰り返す自己形成の理法は、言語的観点からみるならば、物事相互の呼応的対話による言語表現の法、すなわち詩の弁証法に相当する、といえる。この場合、その弁証法は二元性の場所における相対的有限性の生成的対話の法――相対的な対象を他の同等とみなされる物事に還元し、対象を一方的に限定確定する静止的な遣り取りの方法――ではなく、一元性の場所における絶対的無限性の生成的対話の法――絶対的な対象と往還的交感を限りなく繰り返すことによって更なる自己成を計る生成的な遣り取りの方法――、とみることができる。その動的構造は、「わすれみづ」の冒頭、発句の仕組を「行きて帰る心の味ひ」と芭蕉の慧眼が見事に核心を突いたごとく、絡合相即における往還的交感、譬えれば、メビウスの環の如き一元性の場所における際限なき生成運動の構成、といってもよい。俳諧の発句——今日にいう俳句——の定型式は、いまみた詩の理法を最も純粋に影写トレースした範型であるが、その要諦は以下の通りにある。

 1. 指示表出としての序詞と自己表出としての叙詞とからなる二句一章の詞章の構造は、主句即述句の構文の文法の影写トレース、とみることができる。

 2. 一章の二句の間にある、いわゆる〈切れ〉の構造は、〈切断〉即〈相即〉の即非的統一の論理の影写トレース、とみることができる。

 3. 一章の二句の間にある〈行きて還る〉往還の構造は、主句と述句との呼応的相互交感の対話法、すなわち主句即述句∞述句即主句の往還的弁証法の影写トレース、とみることができる。

 私意の分別識においては、いわゆる自然の物事は自然自身が生成したもの、また、人口物、就中言葉は人間自身が生成した自然や人口の物事を記号化し区切る道具、と把握する。一方、無分別の分別認識ともいえる自覚の内在的直観においては、自然物も人間も同一の基が創始した物事のひとつ、と把握する。換言すれば、およそすべての物事はまことの自己形成の理法、すなわちまことの法理に基づいて創作分節した創造物、とみる。言語も然り、言語は真が自ら創り出した人間という創造物を介して真自身が創作分節した創造物、とみる。換言すれば、森羅万象も、それを言う言語も、すべて真が未分節の状態から分節した広義の言語ことば、と把握する。否、真の法理は言語生成の法理と直覚する、といってもよい。すなわち、自然宇宙の創造物は本質的に言語ことば、しかるがゆえに真の法理は言語創成の法理、つまり詩作の法理、と言い直すことができる。

 真の法理の構造は、霊性の観点からみるとき、真としての霊的働き自体を基とする真理的霊性と真実的霊性との絡合相即の法式、同一における差異の矛盾的統一の形式、ともいえる。この場合、真理的霊性は身体を持たぬ無疆の霊性(Spiritualität)、真実的霊性は身体をもつ有疆の霊性、霊魂(Spiritaus)、ともいえる。真理的霊性と真実的霊性を本質と実質という範疇から言えば、真理的霊性は真実的霊性の本質であり、一方、真実的霊性は真理的霊性の実質に当たる。また、法相学の範疇から言えば、真理的霊性は法性、ないしは背景としての不易相、一方、真実的霊性は法相、ないしは風景としての流行相、ともいえる。

 広義の言語ことばの本質は真実的霊性、また、真実的霊性の本質は真理的霊性とするならば、詩作の法理である真の法理は本質的に霊的働きのことわり、といってもよい。言い直せば、霊的働きの理は同一における差異、すなわち真理的霊性と真実的霊性とが絡合相即する霊性の道程、とみることができる。

 世界には種々なる民族が存在し多種多様な言語が存在するが、いづれの民族の始原的言語は先天的に根拠よりどころとしての自然じねん宇宙から授かったものであり、本来的に、人間が勝手に創りだしたものではない。言い直せば、多種多様な言語の根柢には、すべての言語に共通する真の言語創成の法理が働いている、とみなければならない。したがって、言語の多種多様性は無量の表出的可能性を蔵するまことの言語の法理の表現上の相異に過ぎない。それは多種多様の生命体が存在するのと同様の事、といってもよい。言語の多様性は、いうなれば、言泉から涌き出る源言語の言語バリエーション、ともいえる。

 改めて繰り返し言えば、自然宇宙の根本理法である自然の法理は真の言語創成の法理、すなわち詩作の法理、とみることができる。かような事実を勘案するならば、真の法理の実践、すなわち自己形成行為は、本質的に言えば、すべての物事の意義をも含めた広義の言語ことばを創作する営みであり、自己の更なる可能性の試み(Versuch)の営為、いわば、まことの夢想、ともいえよう。この見識から言い直せば、真の法理の本質である自己形成の理法は、本質的に、真の言語の形成理法、すなわち詩の法理、といってもよい。換言すれば、自然宇宙の根本法理と詩作の法理とは、根拠の本質において同一のことわりに他ならない。あるいは、自然宇宙の理は詩作の理である同時に、詩作の理は自然宇宙の理、といってもよい。しかして、詩作(Dichtung)とは、出来事(Ereignis)として真の言語を設立する営為、といわねばならない。

 真の言語である詩は、一元性の基——真・理・根拠・法身・太虚・自然等——が創出した事柄、すなわち出来事、といえる。詩とは言語の意義と物事の意義とを含めた出来事を広義の言語ことばとみるとき、自覚的人間も基の創出した一つの言語ことば、一片の詩作品、ともいえる。言い直せば、真の法理に基づく営為は、本質的に、すべて詩作行為に他ならない。

 「笈の小文」の芭蕉の詞「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道するものは一なり」の「一なり」は、詩作の法理に基づく営為、と聞いてもよい。いわゆる日本の芸道といわれる営為——文芸・絵画・書道・華道・茶道・能・等——は、本質的に、真の法理に基づく詩作行為であり、それに携わる自覚的人間は、本質的に詩人、ということができる。「いさおしは多かれど、しかし人間は地上に詩人として住む」とヘルダーリンが言うごとく、自覚的人間は本来的に詩人、とみることができる。自覚者の詩作行為は本質的に当為——真・善・美の営為――、ということができる。およそ,すべての真の創造的営みは本質的に詩作、といってもよい。したがって、詩作の法理に基づいて創作された作品は、すべて真の出来事としての詩作、とみなければならない。いわゆる文芸としての詩歌ばかりではなく、建築や音楽、諸々の創作物、あるいは自然宇宙の森羅万象も、詩作の法理に基づく創作であるかぎり、本質的に真の出来事、すなわち詩作品、ということができる。

 しかして、自然宇宙の法理の本質は詩作、といってもよい。芭蕉の説いた不易流行は、自然宇宙の根本法理であり、それはとりもなおさず詩作の法理であった、といってもよい。人間の理想的在り様は、真の法理に帰依帰命した自覚的実存、芭蕉的にいえば「造化に従ひ、造化にかへ」ったところの自覚的実存、といってもよい。芭蕉の理想の実践は、不易流行という詩作の法理の只中におけるものであった。すなわち、真の詩を創作することが真の実存を生きることに他ならなかった、といってもよい。風雅とは自然宇宙の詩作行為、芭蕉の口吻をもっていえば、誠の風雅の営みはとりもなおさず風雅の誠の営み、誠の風雅と風雅の誠とは同一の営為、ということができる。

 松尾芭蕉の没後から36年後、ドイツに誕生した詩人ヘルダーリン——Friedrich Hölderlin 1770⁓1843——は、世の中は人為的功績に満ちているが、本来の人間は「然しながら詩人の如くにこの地上に住まうている›der Mensch aber wohnet dichiterisch auf dieser Erde‹」と言った。また、「我々[人間]は一つの対話である ›Wir sind ein Gespräche‹」とも言った。[いずれも三木正之・訳]

 詩人の如くとは如何なる在り様を謂うのか。また、何故人間は対話なのか。結論から言えば、ヘルダーリンは自然宇宙の法理における人間の在り様と営為を謂っている、といってもよい。われわれがこれまでみてきた芭蕉の生き様と営みを思い起こせば、無理なく自ずと納得が行くことであろう。

 芭蕉の俳諧の構成とヘルダーリンの詩の構成はともに自然宇宙の法理の呼応の法式——呼即応∞応即呼——に基づく。それは自然宇宙という根拠における詩作、といってもよい。例えば、芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天の川」の構文構成は、「荒海や」は旅の途上で邂逅した汝としての情景への呼び掛け、「佐渡によこたふ天の川」は汝の呼び掛けへの私の心情としての応答、ともいえる。それはまた、造化の法則ともいえる自然じねん宇宙の法理に帰依・帰命した詩人芭蕉の詩作を通しての根拠自身の詩作における一節の詩句、ということもできる。一方、ヘルダーリンの「人間は一つの対話である」の構文構成をみるならば、「人間は」は回想的内省における汝としての呼び掛け、「一つの対話である」は回想的内省における私としての応答、ともいえる。それはまた、根拠律ともいえる自然ナチュア宇宙の法理に帰依・帰命した詩人ヘルダーリンの詩作を通しての根拠自身の詩作における一節の詩句、ということもできる。

 ヘルダーリンは、芭蕉と同じく、自然宇宙の法理を自覚した稀有なる詩人、といってもよい。世阿弥の言う自然居士は、われわれの用語で言えば無の一物、自然の法理に帰依帰命し真の出来事を創り成すものを謂うのであれば、ヘルダーリンは自然居士のひとり、といってもよい。もし、芭蕉の生涯に、異国の詩人なれど心をともにするもの、とヘルダーリンを領解するような機会があったとしたならば、「風雅におけるもの、造化にしたがひ、四時を友とす」るものの一人として、「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、世阿弥の能における、ヘルダーリンの詩における、その貫道するものは一なり。」、と世阿弥とともに、必ずやヘルダーリンの名を挙げたことであろう。このような常識的時空間ではありえない幻想を巡らせるのも満更でもない夢遊び、と想うのであるが、さて、読者各位は如何お想い遊ばせますかな………

 

    大南風そこにもひとり自然居士    (青櫻)


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