ホーム
+PLUS

自覚者達の芸道

島 青櫻

おわりに

注記:われわれは本書において宇宙の大本的なものを根拠よりどころとも、自然じねんとも、まこととも呼んできました。根拠よりどころは場所的観点からみたときの大本の呼び名であり、自然じねんは作用的観点からみたときの大本の呼び名であり、まことは性質的観点からみたときの大本の呼び名であり、いずれも同一のことを言い分けた名称です。以下のテクストは斯様な前提のもとにお読みくださる様、願います。

起―――根拠よりどころの喪失

 天の川銀河、就中太陽系の惑星に生死する現生人類ホモサピエンスのいわゆる文化——人間が自然に手を加え形成してきた物心両面の成果。衣食住をはじめ科学・技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容とを含む。(『広辞苑』——的営みは、なべて、あるべからざる事態、なすべからざる時態、道義的基軸を喪失した憂うべき運命に向かって疾走していると想うのは、筆者のみならず、少なからずの心有る人々が同じ想い抱いているのではないか,とおもんぱかります。

 現生人類ホモサピエンスを通してのまことの創造行為は、他の生命を喰い滅ぼすとによって新たな生命を生み活かすという過酷な方法で遂行されます。この生命の破壊行為による生命の生成行為という過酷な方法は、真の法理、すなわち根底では一つであるものが相矛盾する対極的なものに分れ相互交換を反復する法式に則した実践に他なりません。

 かような過酷な法式が実践されるとき、創造における真の心中はかような過酷な宿命を生死せざるをえぬものの悲哀かなしみと、それをかなしむ慈悲あわれみとが渾然一体となった心情(Gemüt)、すなわち本来的生命の在所における根本情緒である詩情(Poesie)、その本質は普遍性の慈愛いつくしみの情(zarte Liebe)の情態にあります。言いなおせば、真に生死する人間には真の法理を信じるところにもたらされる救済と安寧、そして真っ当に生きるものへ真の祝福が訪れる、ということを暗示しています。

 現況の現生人類ホモサピエンスの命の在り様を、喰い滅ぼすという生命の破滅行為と、生み成すという生命の生成行為で諷喩するならば、喰い滅ぼすことは生み成すことを目的とする手段の営みが、生み成すことは喰い滅ぼすことを目的とする手段の営み、つまり、生きる為に食べることから食べる為に生きるという、目的と手段が転倒した歴史的変遷の極みにおける生命、いわば、本来的生命の在所を乖離した境域に彷徨さまよう命、とでもいえます。

 喰うことは本来他の命を奪う行為、喰うことを目的とする現生人類ホモサピエンスの社会の本質は、物的対立の世界、絶えることのない啀み合いの世界、そこにもたらされるのは不安と混乱、道義的基軸が欠如した救いがたい修羅の世界、ともいえます。

 今日の憂うべき事態と時態を招いた始原は、森羅万象を可能ならしめている在所である根拠よりどころを閑却した、形而上学的思惟ともいえる西洋的思想の思索に原因がある、といえます。西洋的思想の本質は、限りの有る現実的な様相を中心とする思索、それは現実的な様相の在所である限りの無い非現実的な様相を閑却した思惟、言うなれば根拠不在の思索、人間中心の自覚、もしくは根拠の覚悟が欠如した無自覚の自覚、ともいえます。

 根拠を閑却した思惟は、やがて科学的思惟へと継続されます。根拠不在の科学的思惟は、今日の地球を席巻する顕著な時態、物質的価値を中心におき精神的価値を度外視する風潮、道義的基軸を喪失した根拠乖離の時態を拡散した根本要因、といえます。西田幾多郎の『働くものから見るものへ』の範疇に習えば、物質的価値を中心とする西洋的思惟は働くもの。。。。、実体的な物の能力についての思惟、ともいえます。一方、精神的価値を中心とする東洋的思惟は見るもの。。。。、非実体的な心の能力についての思惟、ともいえます。

 今日の根無し草のごとき人間生活を招いた根本原因は、物事の様子に心を奪われ、心の奥底に気分や感情として顕現している根拠の根本情調(Grundstimmung)を閑却し顧みない偏頗な心構えにあります。根本情調はまことの本質情緒である慈愛の調律、際限のない完全な自然じねん宇宙の本意の整律、根拠律、ともいえます。それは際限のある不完全な人間存在に甘え無自覚なままで居るかぎり、たとえAI技術をどんなに極め尽くそうとも決して手にいれることのできない、不完全な人間の能力を凌駕した真の夢想おもいの調律、ともいえます。

 おしなべて、初期の新生人類は心の奥底に絶えず鳴り響いている通奏低音の如き自然宇宙の根本情調を基軸にし、自然宇宙と一体となって生きていた、と想像することができます。際限のある不完全な人間は真の根本情調と共感(Sympathie)するとともに共鳴(Resonanz)するとき、はじめて完全なまことの真ん中に真実まことの命が成就することを思い出さなければなりません。

承―――自然じねんの法理の実践

 われわれがみてきた自覚的芸道者――西行・宗祇・雪舟・利休・世阿弥・芭蕉・ヘルダーリン――の自覚は、東洋的思想の本質的特徴、すなわち自己という存在は自然という限りの無いものに依拠する限りの有るものと掴む思惟、要するに大本における自己把握、いわば、根拠よりどころにおける思索、自然の只中での自覚、根拠の悟覚をもつまことの自覚、ともいえます。

 西洋的自覚と東洋的自覚を比較するとき、西洋的自覚の傾向は眼前に拡がる事態を間接的に掴み、それを分別し解明する科学や技術に向かう私意の把握(Verstand)、といえます。一方、東洋的自覚の傾向は眼前に拡がる事態を直接的に掴み、それを情緒じょうしょ的に解決する宗教や芸術に向かう誠意の把握(Anschauung)、といえます。

 自覚的芸道者に共通する姿勢は、自身が依拠する自然に帰還し、自然の法理に相即随行するところにあります。自然に帰還した自覚者の営為は、自然の法理の実践であります。根拠律ともいえる自然の法理の本質は、みてきたごとく、呼応的対話による交感和合、つまり詩作による真実の自己形成であります。

 本文のキー・ワード――まこと自然じねん根拠よりどころ・詩・詩作――を改めて簡単に語意を定めれば、まこと(Wahrheit)とは自然じねん(Natur)としての根拠よりどころ(Grund)、または無疆の時(Zeit)としての霊性(Spiritualität)ともいえます。また、詩(Gedicht)とは真の言葉(Sprache)、といえます。そしてまた、詩作(Dichtung)とは真の対話(Gespräch)を通しての真の建立行為(Grundung)、ということができます。

 自然の法理は詩作の法理であることからすれば、自然が詩作した形象作品はすべてまことことば(Sage)を心象(Image)へ移した言語ことば(Wort)、ともいえます。自然宇宙に依拠する全ての天体、森羅万象、そして人間という形象も、自然が創始した真の言語ことばに他なりません。更にまた、自然に相即した自覚的芸道者が詩作した多様な形象作品もすべて真の言語ことば、と敷衍することができます。 

 真の言語ことばは、常に古くも新しき言語、また、常に遠くも近き言語、また、常に低くも高き言語、また、常に浅くも深き言語、すなわち常に対極的なことが一つになった言語であります。何故に、と問うならば、真の言語は、対極的な事柄が相即する自然の法理に基づく言語であることによります。言いなおせば、自然は留まることのなき永遠の詩作活動、永久に生流転を繰り返し自身の心中を経巡ることによるまことの言語の創成作用であることによります。

 更に敷衍して言うならば、自然じねんそのものを限りの無い可能力としてのカミと呼ぶならば、自然宇宙に依拠する全ての天体、森羅万象、そして人間といった神が創始した言語ことばは、言わば限りの有る可能力として神々、ともいえます。しかして神々に宿るいわゆる言霊ことだまは神の分霊わけひ、ともいえます。言いなおせば、自然宇宙の森羅万象、銀河も太陽も地球も、そして人間も、全て神が、もしくは神々を通して神が詩作した神の一種、八百万の神、ともいえます。

転―――根拠よりどころにおける詩作行為

 一般的にいえば、私意を離れ根拠に帰依帰命したあらゆる命の営みは、いわゆる詩人の言葉による詩作は言うにおよばず、自覚者達の芸事も、また、大地を鎮め住居すまいを築く営みも、また、大地を起こし作物を育む営みも、また、筆者がいまここで語り掛ける営みも、すべて真の道における営み、根拠における創造行為、その本質は詩作行為に他なりません。また、その営為が己の命運と使命を自覚した真の仕合せによるものであれば、その営みは幸福と安寧をもたらす当為、となります。

 自覚的芸道者が求めたものは、一つに、まこと言語ことばを成す芸の道、真実まことの創造行為であります。いま一つに、真っ当な人生の成就、本来的な人間の当為,つまり詩作的生命の実証にあります。しかるがゆえに、自覚者の芸(Kunst)は真に生死する術(Weg)、ともいえます。

 こうした自覚者達の諸々の芸術的詩作行為こそが、天の川銀河、就中太陽系の惑星に生死する現生人類ホモサピエンスの文化的営みを、まさにあるべき事態、まさになすべき時態、すなわち天道の基軸を喪失した不本意な道筋を離れ、自然の法理に支えられた本来の祝福に満ちた真の道筋に直接する、生き生きとした方へ向かっていくことができる最も確かで有力な方途、と覚えることが何よりも大事なことであります。

 とはいえ、この最も確かで有力な可能性を秘めた方途は、最も険しく困難な方途でもあります。限りの有る人間の一代一度の努力によっては目標を達成することは不可能なすべでもあります。ならば、一代一度の命であるわれわれの方途は、幾代幾人もの命が生死を繰り返し永く遠い筋道を辿る営為、それは真に生死した先達のことばを受け継ぎ、更なる彼方へ向かう営みであるとともに、来たるべき者達にことばを伝え渡す営み、いうなれば、詩作の道を只管ひたすら辿る旅客りょかくの一人、という自覚を以て善しとすべき良心(Gewissen)の手立て、といったほうがよいのかもしれません。

結―――まことを成す心構え

 AI(人工知能)をはじめ、今日の科学技術の目まぐるしい散乱に心を奪われ、何が本当に大事なのかを省みることをしない昨今の風紀紊乱ふうきびんらんの時代にあっては、筆者の提言は無用で無力な僻言ひがこと、あるいは主観的な観念の戯言たわごととも綺麗言きれいごととも聞こえるかもしれません。

 否。敢えて弁明すれば、筆者の提言は根拠と根拠における己の自覚を得たところに映る情景をながめるときの想いであり、また、自然宇宙の情調を伴った想いをながめるときのことばであります。それは私意にもとづく思念を超えたところの言語ことば、簡単に言えば根拠と一つになったところの言語、といってもよいと思います。本文でみてきたごとく、詩情は自覚を契機とする心情、それは万物を化育する在所に芽生える真実の人間の想いであると同時に、真実の人間の想いに移し入れたまことが真自身を眺めるときの想いである、ともいえます。言いなおせば、無自覚の心には、どんなに目を凝らしても見ることも推し量ることもできぬ想いであり、どんなに耳をそばだてても聞くことも感じ取ることもできぬまことことばであるが故の綺麗言、といっても差支えありません。

 われわれは本文の中で幾つかの自覚(Selbstbewußtsein)をみてきています。一つに、根拠と根拠における己の自覚、二つに、己の命運と使命の自覚、そして、いまみた真の永遠の遍歴を実現する歴史的継続者としての己の自覚、いわば真を実現する上での心構え、こうした心構えをもって道義的基軸を喪失した現実から逃避することなく、その只中にあってわれわれひとりひとりの本来の命を粘り強く尽くすことがなにより肝要、と信じるにいささかも怯むところはありません。

 筆者二十代半ば、集中的に読んでいたハイデッガーの著作の一つ、『ヘルダーリンの詩の解明』に引用されたヘルダーリンの詩句 « Voll Verdienst,doch dichterisch, Wohnet der Mensch auf dieser Erde. » ――「いさおしは多けれど、しかも、人間はこの地上に於いては詩人として住んでいる。」(手塚登美雄・訳)、「功績にあふれているけれども、人間はこの大地の上に詩人としてすむ。」(濱田恂子・訳)――、この一節の言葉との出会いによって、以後の人生はこの一節の詩句が意味するところを探り考え続けることに振り向けられた、といっても過言ではありません。この一節の詩句は絶えず心の奥底に絶えず響いている通奏低音の如き基本的情調を伴った箴言となっています。

 そして今、「自覚者達の芸道」という回想(Andenken)の詩作(Dichiten)を成すことによって、長年の謎であった詩句の一語›dichterisch‹、「詩の、詩的な、文学的な、詩人の」といった多義的な形容詞にヘルダーリンが籠めた想いをようやく聴き取ることができ本懐を遂げた,ともいえる心境に落ち着いております。

 聴き得たことば(Sagen)を簡単に言えば、ひとつは、詩人とは真の根本情調の中心に開かれた人間、という言です。いまひとつは、詩人の営為、すなわち詩作とは真の根本情調の本質である慈愛がなす真の創建、という言です。

 そして、ここから更に敷衍して言えば、慈愛いつくしみとしてのまことにおける価値は、いわゆる真・善・美、道義的基軸の根本にある精神的価値、ともいえます。それは、使用価値とか交換価値といった物質的価値を中心とする現代社会に生きる人間が見失った自然宇宙の本当の価値、ということができます。

›Was bleibt aber, stiften die Dichter.‹
《留まるものをしかし打ち建てるのは詩人らなのだ。》

 ヘルダーリンの詩『回想』の中の詩句です。ここに言う留まるもの(Bleibenden)とは、永遠なるもの、あるいは絶対時(Absolute Zeit)、不易流行のパラダイムでいえば不易なもの、ともいえます。われわれの用語でいえば、根拠よりどころとしての自然じねんまことともいえます。留まるものは聖なるもの(Heiligen, heilige Geist)、ともヘルダーリンは呼びます。

 ›Was bleibt aber, stiften die Dichter. ‹「留まるものをしかし打ち建てるのは詩人らなのだ」(三木正之・訳)。だが、しかし、何故に留まるものを打ち建てるのは詩人なのか、と問うならば、それは詩人とは聖なるものの境域に帰依帰命し真に開かれた真実の人間、すなわち、本質的に神々との語りである詩作を以て聖なるものを建立するが故に、と聴き取ることができます。真の詩人の詩作は、聖なるものの立場からみるならば、詩人の命運の歴回へめぐりを貫徹しての聖なるもの自身の詩作、ともいえます。このとき、詩人と聖なるものとの関係は相互相依の間柄、ことばとしての聖なるものと言語ことばとしての詩人との関係からみるならば、言即言語エンドレス言語即言の自然の法理の法式の本来的関係にあります。留まるものの建立、すなわち真が実現するのはこのとき、玄々たる自然宇宙の一隅に真の光明がともるとき、ともいえます。

 しかして、先のヘルダーリンの詩句「人間はこの大地の上に詩人としてすむ」は、真を実現する詩人の心構えの謂、と聴くことができます。そして更に、芭蕉の「笈の小文」の一節の詩句「その貫道くわんどうするものは一なり」は、造化に帰依帰命した詩人達の心構えの謂、と聴き取ることができます。

 ここにいう心構え(Bereiten)とは、まことをなすべく待ち受ける心の用意、われわれが無の一物と呼んできた自然じねんの法理に帰還(Rückkehr)したものの覚悟に他なりません。かくして、この真に開かれた純粋な心構えこそが真を成す上での絶対要件、という結局に辿り着きます。

 このような心構えに映る自然宇宙の様相は、過去への内省と未来への憧憬とが一つになったいまここにおける想いに映る光景、言うなれば、それは丁度、ボブ・ディランの言う「風に吹かれている(blowing in the wind)」ときの情態に映る景色、言いなおせば個我を離れ自然宇宙の根本情調の息吹と一つになった情緒じょうしょに映る眺め、ともいえます。

 改めて言えば、自然宇宙の気息に息を合わせて事に向うとき、心構えを持たずに毎日見ていたそれまでの自然宇宙の様相が、まことの夢遊びに参加する祭りの日のごとき、幸福と愉悦の情が一つになった情緒が醸し出す祈り(Andacht)、とも言える希望と期待に充ちた安らかな光景へ移りはじめます。

 かくして、今日の道義的基軸を失った窮乏の時代にあって、肝に銘ずるべきことは、真の根本情調に開かれた詩人ひとりひとりの心構えと忍耐強き努力によってまことが帰来し真実まことの自然宇宙が実現する、と信ずることがなによりも大切なこと、と想いを深めております。

 

木の芽風八百万ちよろずの夢帰り来る    青櫻

文献目録

  ア行
『一日一禅』 秋月龍珉・著 講談社
『行きて帰る』 山本健吉・著 河出書房
『翁』 「KAWASHIMA」三五巻 川島織物
『お能の見方』 白洲正子 吉越立男・著 新潮社
『ウイトゲンシュタインと禅』 黒崎宏 哲学書房
『ウイトゲンシュタイン・文法・神』 アラン・キートリー・著 星川啓慈・訳 法蔵館
Martin Heidegger “Identität und Defferenz”  Klett-Cotta
Martin Heidegger  “Erläuterungen zu Hölderlins Dichtung” Vittorio Klosterman

  カ行
『狂の精神史』 中西進・著 講談社
『去来抄』 堀切実・校注・訳 小学館
『去来抄・三冊子・旅寝論』 頴原退蔵・校訂 岩波書店
『金剛経の禅・禅への道』 鈴木大拙・著 春秋社
『根拠律』 M・ハイデッガー・著 辻村公一 ハルトムート・ブッフナー・訳
『広辞苑』 岩波書店

  サ行
『西行』 目崎徳衛・編 法蔵館
『西行と定家』 安田章生・著 講談社
『三冊史子』 復本一郎・校注・訳 小学館
『三冊子評釋』 能勢朝次・著 邑書林
『浄土三部経の真実』 坂東性純・著 NHK出版
『字訓』 白川静・著 平凡社
『親鸞と道元』 「国文学」第三三巻二号 学燈社
『世阿弥と利休』 桑田忠親・著 至文堂
『世阿弥・花と幽玄』 「国文学」第二五巻一号 学燈社
『世阿弥芸術論集』 田中裕・校注 新潮社
『世界の神話入門』 呉茂一・著 講談社
『雪舟』 吉村貞司・著 講談社
『千利休』 唐木順三・著 筑摩書房
『宗祇 浪漫と憂愁』 井本農一・著 淡交社
『宗祇』 荒木良雄・著 創元社
『造化のこころ』 栗田勇・著 白水社

  タ行
『達磨の語録』 柳田聖山・著 筑摩書房
『東洋の理想』 岡倉天心・著 宮原芳彰・訳 ぺりかん社
『道元と世阿弥』 西尾実・著 岩波書店
『道元入門』 秋月龍珉・著 講談社
『同一性と差異性』 M・ハイデッガー・著 大江征四郎・訳 理想社
Martin Heidegger “Der Satz vom Grund”  Klett-Cotta

  ナ行
『日本的霊性』 鈴木大拙・著 岩波書店
『能の時間』 長尾一雄・著 河出書房新社
『能の表現』 増田正造・著 中央公論者

  ハ行
『芭蕉句集』 大谷篤蔵 中村俊定・校註 岩波書店
『芭蕉の言葉』 復本一郎・著 邑書林
『芭蕉文集』 富山奏・校注 新潮社
『芭蕉年譜大成』 今 栄蔵・著 角川書店
『働くものから見るものへ』 (西田幾多郎全集第四巻) 西田幾多郎・著 岩波書店
『般若経典』 中村元・著 東京書籍
『仏教の根底にある物』 玉城康四郎・著 講談社
『ヘルダーリンの詩の解明』 M・ハイデッガー・著 手塚富雄・他・共訳 理想社
『ヘルダーリンの讃歌「回想」』 M・ハイデッガー・著 三木正之 ハインリッヒ・トレチアック・訳 創文社
『ヘルダーリンの讃歌「ゲルマーニエン」と「ライン」』 M・ハイデッガー・著 木下康光 ハインリッヒ・トレチアック・訳 創文社
Martin Heidegger  “Hölderlins Hymnen ›Andenken‹” Vittorio Klosterman
Martin Heidegger  “Hölderlins Hymnen ›Der Germanien‹und›Der Rhein‹” Vittorio Klosterman

  マ行
『曼荼羅』 松尾有慶・著 大阪書籍

  ヤ行
『唯識とは何か――「法相二巻抄」を読む』 横山紘一・著 春秋社
『夢』 「仏教」二三巻 法蔵館
『謡曲集』 伊藤正義・校註 新潮社

  ラ行
『連歌論集 能楽論集 俳論集』 校註・訳 奥田勲 表章 堀切実 復本一郎


前のページ << 自覚者達の芸道 24